池田俊二著「見て・感じて・考へる」の刊行

見て・感じて・考へる 見て・感じて・考へる
(2014/10/20)
池田 俊二

商品詳細を見る

添え書きの口上  西尾幹二

 私はいつもの悪い癖で、ぎりぎりまで本書の草稿の拝読を怠っていて、著者から再校ゲラも出たのであと一週間しか待てないと言われて慌てて拝読に手を着けた。私の横着がいけないのだが、ちょうど急ぐ仕事が幾つも重なっていて、時期も悪かった。

 途中まで読んではたと困った。私が何か添え書きするのはまずいなとさえ思った。私らしき人物が登場し、その主張的立場を語っているからである。著者が私を尊敬しているというスタイルになっているだけに、私が私をプロパガンダすることになり兼ねない個所が生じている。本書の刊行を祝って口添えするのは恥しいだけでなく、厚かましくもある。しかも私の主張的立場は必ずしも正確には伝えられていない。これも当惑している点である。

 よほど添え書きをお断わりしようかと思ったが、今となっては時すでに遅く、出版に差し障りが生じるかもしれない。というより、右の問題点以外には私が発言しない理由は何もなく、本書の内容そのものは私にとって魅力的であり、ページをめくるごとに共感同感の連続である。そこで、読者はどうかご了解いただきたいのだが、私らしき人物に関する部分はなかったことにして――再校も出ている段階でそこを全部削ってくれといまさら言うのは無茶なので――そういう前提で以下をお読みいただきたい。

 著者の池田俊二氏は私の『人生の深淵について』の生みの親で、私がものを書く仕事のスタートラインに立ったときの目撃証人のような方だった。私の全集14巻『人生論集』の後記でこのいきさつを詳しく語っている。氏を「刎頸の友」とそこで呼んでいる。

 本書は一人の老人が死ぬ前にどうしても言っておきたい世の中への怒りの証言のようなものともいえるが、それは同世代の私が共有しているものでもある。文鳥はだしに使われているだけで、あらずもがなであり、文学効果をあげているとも思えない。ただ、これがないと著者は多分書きにくかったのだろう。自己韜晦の仮面に使っているのである。それほどにも怒りは深く、強く、内攻的でもあるからである。気の合う友人や元同僚、同じ思想を持ち合う二人の娘婿に囲まれている終(つい)の栖という舞台設定も、同じような仮面、表現をしやすくするための著者の工夫でもあるが、似たような生活場面が著者の日々の暮しの中にあるのではないかと推定される。そうした知的環境の中に生きている老後の「主人公」は幸わせでもある。しかし噴き出す思いは烈しく、正直で、生々しくて、ストレートである。若いときから押し殺してきた感情、官庁勤務で表現を阻まれていた思想、しかしどう考えても世の中一般の観念やメディアの通念が間違っていたことは、次第に歴然としてきている昨今の情勢である。それを考えると、何であんな分り切ったばからしさが社会を圧倒していたのか、不思議に思える。著者は若いときから完全に軽蔑しきっていた人や思想がある。しかし世の中がかつてそれらを正道のごとく担ぎ回っていた歴史がある。思えばその歴史において著者は孤独だった。その孤独感を偲べばこそ今の怒りは鮮烈である。

 その意味で本書の中で私がいちばんリアリティを感じたのは最後のエピソードである。同窓会で亡くなった二名の友への追悼演説が回想されている。早稲田のロシア文学科に行った友人が共産主義の夢から目覚めたのは新聞社のモスクワ支局長になってソ連を実地体験してからであった。「現場を見てからでなくてはほんたうのことが分らないやうでどうするか。我々は文字を持つてゐる。ものを見ずとも、文字、書物により真実を知ることはいくらでも出来る。」と著者は叫んだ。もう一人の物故者には東大の全学連闘士であった。「何が日本にとつてのプラスなのか、人類にとつてのプラスなのかを考へないのか。時の風潮といふやうなものを情状として私は認めない。」

 これでは追悼演説ではなくて弾劾演説ではないか、と本文中に対話者の相手に言われてしまうが、このエピソードはひょっとして実話ではなかろうか。同窓会でこれに似た立居振舞があったのではないか。真相はもちろん知る由もないが、この場面の扱いだけが身内や親友を相手にした室内の気安い対話ではないのである。第三者に向けた公開の口上なのである。

 そのことが何を意味するかを考えた。孤独がここだけ破裂している。

 考えてみれば私のような評論家は社会的にこの「破裂」を繰り返して来ている。第三者に向けたこの手の「公開の口上」を課題とし、職業化している。それだけに同窓会のような場面では決して口を開かない。無駄口を噤んで穏和しくしている。怒りや軽蔑感を気取られぬようにしている。本書の著者にしても平生は多分そうだろう。永年の官庁勤務の社会生活では自己を隠蔽しつづけて来たであろう。

 本書ではその孤独感がいかに重かったかをいかんなく示す。同じ苦渋を内心に深く抱えて生きている人は少なくなく、否、最近は言葉を求めてあがき出している人々がメディアの空文化の度合いに比例して増えつづけていると私は観察している。本書はそういう人々の喝を癒やすカタルシスの書でもある。しかし、ただ単にそういうことに心理的に役立つ一書であるのではなく、戦後の日本の病理学的な「心の闇」がいまだに克服しがたく、ここを超えなければ今後の日本に未来はないことへの倫理的な処方箋を、思いがけぬ裏側の戸口を開いて見せてくれた一書であるといえるだろう。

 尚、文中に出てくる鴎外、漱石、荷風の文学、あるいは乃木大将をめぐる文学談義の質の高さは、本書が高度な趣味をもつ文人気質の知識人の筆になることをも証してくれている。著者が旧仮名論者であり、福田恆存の心酔者でもあることをお伝えしておく。

平成26年9月23日

西尾幹二全集第14巻「人生論集」読後感

ゲストエッセイ
鳥取大教授 武田修志

 九月も半ばになり、ようやく梅雨のような夏も終わろうとしていますが、西尾先生におかれましては、その後いかがお過ごしでしょうか。

 『西尾幹二全集第十四巻 人生論集』を読了しましたので、いつものように拙い感想を述べさせていただきます。

 今回はこの一巻に、「人生の深淵について」「人生の価値について」「男子、一生の問題」と三篇の人生論が収められていますが、対談「人生の自由と宿命について」のお相手、池田俊二氏と同様、私も「人生の深淵について」を最もおもしろく拝読しました。341ページで池田氏が、「心の奥底をこれほど深く洞察し、心の襞をこれほど精緻に描いたものはどこにもないだろう」とおっしゃっていますが、全く同感です。

 「人生の深淵について」は「新しい人生論」と言っていいのではないかと思います。または、「新たに人生論の可能性を開いた人生論」と。

 どういう意味かと申しますと、三、四十年前までは人生論、あるいは人生論風の教訓的文章はよく出版されていましたし、読まれてもいたと思います。私も高校生から大学生の頃、比較的よく読んだように記憶しています。『三太郎の日記』『愛と認識との出発』といった一昔前の定番の人生論からトルストイ、武者小路実篤、佐古純一郎等、古今東西の人生論あるいは人生論風のエッセーですね。こういう文章が今や誰によっても書かれないし、また読む人もいません。言うまでもなく、こういう文章が、このニヒリズム蔓延の時代を生き抜かなければならない読者にとっても、全く無力だからです。

 小林秀雄が、世間から「私の人生観」を話すように求められながら、「観」とはどういう意味合いの言葉かという話から始めて、明恵や宮本武蔵の話をすることで、間接的に自分の人生観を暗示したに留まったのは、昔ながらの「人生論」の無力、ストレートに自分の生き方を語る不可能を自覚していたせいではないでしょうか。西尾先生もその点では同じだと思います。何か自分はもう人間として出来上がっているかのように、高みに立って、読者に教え諭すように語る、そういう人生論は陳腐であり、不可能である、と。

 それでは、現代においてはどういう「人生論」が可能であるか?

 まさに先生の「人生の深淵について」は、そういう問題意識を持って書かれた「新しい人生論」ではないでしょうか。

 「人生の深淵について」というこの標題が、先生のねらいがどこにあるかを語っています。人生の「深淵」、つまり、人が人生を渡っていく時に出会う「危機の瞬間」に焦点をあてて、人間と人生を語ってみようとしているのだと私は理解しました。人の心の奥底、心の襞を描くに実に巧みな焦点の絞り方です。そして、ここに「現代」というもう一つの視点を持ち込むことで、「怒り」「虚栄」「羞恥」「死」といった古典的テーマへ、先生ならではの洞察を折り込むことに成功しています。全編、これは本当に、読んでおもしろく、同感し、教えられるところの多い、名エッセーだと思いました。

 以下に少しだけ、私が特に同感したところを書き写してみます。

「怒りについて」から――

「(現代社会にあっては)本気で怒るということが誰にもできない。・・・怒りは常に何か目に見えないものの手によって管理されている。」(15ページ)

「・・・怒りは、人生においては何を最も肝要と考えて生きているかという、いわば価値観の根本に関わる貴重な感情と言ってよいのではなかろうか。」(20ページ)

「孤独について」から――

「『孤独感』は自分に近い存在と自分との関わりにおいて初めて生ずるものではないだろうか。近い人間に遠さを感じたときに、初めて人は孤独を知るのではないだろうか。」(51ページ)

「理想を求める精神は、老若を問わず孤独である」(57ページ)

「退屈について」から――

「突きつめて考えるとこの人生に生きる価値があるのかどうかは誰にもわからない。われわれの生には究極的に目的はないのかもしれない。しかし、人生は無価値だと断定するのもまた虚偽なのである。なぜなら、人間は生きている限り、生の外に立って自分の生の全体を対象化して眺めることはできないからだ。われわれは自分の生の客観的な判定者にはなれないのである。そのような判定者になれるのは、われわれが自分の生の外に立ったときだが、そのとき、われわれはこの世にはもはや存在しないのである。」(80ページ)

 ・・・・・こんなふうに引用していくと切りがありませんのでやめますが、今回最も教えられたのは「羞恥について」の一編でした。そもそも「羞恥」という感情について反省的に考察したことが一度もなかったので、以下の章句には非常に教えられるものがありました。

 「羞恥」は「誇りとか謙遜とかのどの概念よりもさらに深く、人間の魂の最も秘密な奥所に触れている人間の基本に関わる心の働きである。」(86ページ)

 「羞恥は意識や意図の入り込む余地のない、きわめて自然な感情の一つである。羞恥は自ずと発生するのであって、演技することはできない。演技した羞恥はすぐ見破られ、厚かましさよりももっと醜悪である。しかし、謙遜を演技することは不可能ではない。謙遜が往々にして傲慢の一形式になることは、『慇懃無礼』という言葉があることから分かるが、羞恥にはこれは通用しない。人は謙遜の仮面を被ることはできても、羞恥の仮面を被ることはできない。ここに、この感情が人間の魂の深部に関わっている所以がある。」(87ページ)

「羞恥はより多く伝統に由来している」(92ページ)

 そして、この羞恥という感情が払底しているのが、また現代であると。羞恥心といったものに自分が無自覚だっただけに、なるほどと納得しました。

 さらにまた(これは池田氏が対談の中で指摘されていることでもありますが)この羞恥という感情がなければ、猥褻ということは成立しないという93ページに詳述されている洞察は、実に目から鱗が落ちるような一ページでした。「人生の深淵について」全体の中でも、先生の思考の深さと明晰さが格別光っている部分ではないかと思いました。

 だらだらと長くなりましたが、この『全集第十四巻』の中で、「随筆集(その一)の部の一番末尾に置かれている随筆「愛犬の死」については、是非ひとこと言っておかなければなりません。

 これは、先生がこれまでにお書きになったエッセーの中でも最も優れたものではないかと思います。小品ですが、実にやわらかな、流れるような文章になっていて、しみじみとした味わいがあり、私は三度読み返してみましたが、三度とも涙なしにでは読み通すことができませんでした。ひょっとすると、この一編が読者へ与える、人が生きて行くことについての、また、死んでいくことについての感慨は、残りの六百ページの人生談義が与える感慨に匹敵するかもしれないなあとも思ったりしました。小説をお書きにならない先生の名短編です。

 (私の弟がたいへん犬好きで、今年の冬、愛犬を無くしましたので、この一編を読ませようと思って「全集第十四巻」を一冊送りましたところ、さっそく読んで、「とても感動した」とすぐに返事を寄越しました。)

 今回はまた表面をなぞっただけの雑漠たる感想になってしまいました。ご容赦下さい。
 今日はこれにて失礼いたします。
 お元気でご活躍下さい。

                                          平成26年9月10日

著者からのコメント

 武田さん、いつものような好意あるご評文、まことにありがとうございます。

 「人生論集」ということばで一冊をまとめましたが、仰せの通りこの題は正確ではないかもしれません。「人生論」という語には古臭いイメージがあるのでしょうね。ただ他に言いようがなかったので、こういう題目で一巻をまとめました。

 巻末の随筆集について触れて下さったのは有り難かったですが、『男子 一生の問題』に言及がなかったのは少し残念でした。これは型破りの作品だったので、いつかまたご感想をおきかせ下さい。

 今年は雨が多く、御地も大変だったのではないでしょうか。どうかお元気で。
                                               草々

慰安婦と朝日新聞問題をめぐって

 8月5日に朝日新聞が慰安婦強制連行説の虚報を認めて以来、9月11日の社長の謝罪会見を経て今日までに、私は当ブログにはこれに関連する見解を発表していない。沈黙していたわけではない。沈黙したとしても引き出され、どうしても書かされるのが運命で、以下にまとめると今までに次のような発言をしているので、まとめてみる。旧作の再録もあった。

『正論』10月号―― 「次は南京だ」(これは良い題ではなかった。「朝日新聞的なるもの」に改めたい)

『正論』11月号――「ドイツの慰安婦と比較せよ」

文藝春秋臨時増刊 『朝日新聞は日本人に必要か』――「ドイツの傲慢、日本の脳天気」「朝日論説の詐術を嗤う」(1997年『諸君!』から二篇再録)

WiLL臨時増刊 『歴史の偽造!』――「外国特派員協会で慰安婦問題を語る」

================

 以上のうち『正論』10月号「朝日新聞的なるもの」は近くここに掲示可能となる。

 今後の予定は、
 つくる会編 『史』に「外務省が逃げている戦後最大の外交問題」

 『WiLL』12月号 予定として、戦後の個人補償におけるドイツとの比較論の中で慰安婦のテーマが浮かび上った1995年-1997年頃の朝日の異様な意識操作について考えてみる。

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第二十一回)

(2-42)昔の子供は、大人になるまでに気の遠くなるような数多くの困難を乗り越え、厄介な課題を解決しなければならないことを肌身に感じて知っていた。そして困難な諸条件をクリアすることによって初めて大人になったのですが、今は何もまだ出来ない子供が自分を一人前の大人だと思っています。

(2-43)人間は自由ということに長期間にわたって耐えられない存在なのだといえるでしょう。人間は束縛を欲する存在なのです。束縛からの甘い解放の歌を歌いたがっている人に限って、えてして奴隷になりたがるものなのです。

(2-44)人間は、悪を避けてしまえば善だけで生きられるというような単純なものではないでしょう。むしろその逆です。悪の存在しない理想郷の看板を掲げ、いかなる自己愛も許さない社会では、悪は消滅したのではなく、意識下にもぐり、偽善という悪の形態をもって民衆の道徳感を麻痺させ続けているのです。
 悪を是認しない思想はそれ自体「悪」である。不合理の存在しない社会は、もっとも不合理な社会なのである、

(2-45)非核三原則がいけないのは、汚いもの怖いもの臭いものは全部国の外にしめ出して、目を伏せ耳を塞いでいれば外からは何も起こらずわれらは幸せだ、自分の身を清らかに保ってさえいれば犯す者はいない、という幼稚なうずくまりの姿勢のほかには、いっさいをタブーとする迷信的信条の恐ろしさである。

(2-46)文学者が自己表現をするためには自己を超えた何かを持つことが必要である。神であれ歴史であれ、何かを信じていることが必要である。自己を解消する何かを欠いた自己表現は、空しい心理の断片か、観察の断片かに終わるのが常である。

出展 全集第2巻 「Ⅴ 三島由紀夫の死と私」
(2-42) P525 上段「三島由紀夫の死 再論(没後三十年)」より
(2-43) P538 上段から下段 「三島由紀夫の死 再論(没後三十年)」より
(2-44) P539 上段「三島由紀夫の死 再論(没後三十年)」より
(2-45) P559 上段「三島由紀夫の自決と日本の核武装(没後四十年)」より

「後記}
(2-46) P594 

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第二十回)

(2-38)ドイツ人、フランス人、イギリス人は、ドイツ人、フランス人、イギリス人であることを超えることはできるけれども、ヨーロッパ人であるというもう一つの外枠があるからこそ自国民を超えることができる。しかし日本人にそれはない。日本人が日本人であることを超えることができるような枠が、日本の外にあるだろうか。

(2-39)歴史の中には「狂人の愚行」としか思えない完璧なまでの生気の行動があるのです。

(2-40)私小説は小学生が家庭や学校で起こった出来事をできるだけ正直に表現する「綴方(つづりかた)」の世界に似ているのではないかと思ったこともあります。そして、秀れた書き手の手にかかる綴方や作文は「文学」の域に達するのです。日本文学の伝統に根ざす随筆の分野はそれでしょう。

(2-41)日本人は過去に立ち戻る必要があります。過去における皇室と国民との関係を再興する義務があります。
 再び戦争をせよ、ということではなく、なぜ戦争に至ったのか、日本人のあの開戦の日の解放感の独自性、緊張と恍惚とのこもごものあの不可解な安堵感をあらん限りの知的想像力をもって蘇生させるべきであります。そこを通過しないと日本人は自分を取り戻すことはできません。それには先立つ歴史の研究だけでなく、皇室が持っていた国民に対する位置、皇室の威厳というものの回復が図られなくてはなりません。

出展 全集第2巻 「Ⅴ 三島由紀夫の死と私」
(2-38) P429 上段 「第二章 一九七〇年代前後の証言から」より
(2-39) P489 下段 「第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する」より
(2-40) P496 下段 「第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する」より
(2-41) P508 下段 「第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十九回)/お知らせ

日本人よ、歴史を取り戻せ!
―米国の日本永久占領 
   イデオロギーの根源―

日時:9月26日(金)午後6時30分~
(会場 6時)

場所:アイムホール ファーレ立川・女性総合センター1F
   JR立川駅北口徒歩7分
   立川市明保野町2-36-2
   Tel 042-528-6801

主催:日本会議(立川・国立・国分寺支部)

後援:新しい歴史教科書をつくる会(東京三多摩支部)

協賛:頑張れ日本!全国行動委員会

問い合わせ: 小町 090-8080-5588
         斉藤 090-6310-0354

(2-34)日本列島に住む住民とその文化を愛し、日本の国の歴史を正道に戻そうとする全体的な意思というものを重んじる、その一翼を担い、その一端に列しているということは主人持ちですね。いいじゃないですか。主人持ちでけっこうではないのか。主人のいない純粋芸術派の弱さ、純粋学問の虚しさになぜ彼らは目を醒まそうとしないのか。

(2-35)芸術の純粋性や学問の自立性などというようなものは、薄っぺらな紙切れみたいなものであって、そんなものは全体とか、国家とか、共同体とか、あるいはそれらを越えた歴史というものの前では勝ち目はないんですよ。ましてや全体主義が登場したらさらにも勝ち目はない。

(2-36)われわれが和魂をもって戦い取らねばならないのは洋魂だったんですよ。そして西洋には文明だけしかないのでなく。それを生み、その発展を必然ならしめた文化があるはずだというのです。

(2-37)「知識人」はつねに弱者のねじれた卑屈な復讐心理につき動かされてきています。そして閉ざされた自己英雄視の内部で鬱屈し、健全な一般社会に毒ある言葉を偉そうに上からまき散らしてきましたし、今もなおそうです。

出展 全集第2巻 「Ⅳ 「素心」の思想家・福田恆存の哲学」より
(2-34) P374 下段より
(2-35) P375 上段より
(2-36) P380 下段より
(2-37) P388 上段より

西尾幹二講演会のお知らせ

日本人よ、歴史を取り戻せ!
―米国の日本永久占領 
   イデオロギーの根源―

日時:9月26日(金)午後6時30分~
(会場 6時)

場所:アイムホール ファーレ立川・女性総合センター1F
   JR立川駅北口徒歩7分
   立川市明保野町2-36-2
   Tel 042-528-6801

主催:日本会議(立川・国立・国分寺支部)

後援:新しい歴史教科書をつくる会(東京三多摩支部)

協賛:頑張れ日本!全国行動委員会

問い合わせ: 小町 090-8080-5588
         斉藤 090-6310-0354

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十八回)

(2-30)かくて、歴史は「思い出」だということになる。人間が何かを思い出す。まさしく何かを思い出すのであって、何でもかんでもを思い出すのではない。一番思い出す価値のあるものだけを思い出す。

(2-31)現代は神なき時代である。人間の権力感情は野放しであり、それにけりをつける神が存在しない以上、俗物とそうでないもの、すなわち贋物と本物の区別をつける判定者はどこにもいない。自分の価値は自分で証明しなくてはならない。これは不可能にきまっている。誰もが俗物に陥らざるを得ない所以である。

(2-32)福田恆存においては文学と政治が一体化していた。だから政治と文学を混同するなと言いつづけることも可能だったのである。ある意味で時代が一体化を許していたことは否めない。

(2-33)鋭敏な知性の持主であればあるほど知性の限界というものを知っている。

出典 全集第2巻 「Ⅱ 続編」
(2-30) P278 上段 「行為する思索」より
(2-31) P291 下段 【福田恆存小論六題】「福田恆存(二)」より
(2-32) P311 下段 【福田恆存小論六題】「高井有一さんの福田恆存論」より
全集第2巻 「「Ⅲ 書評」より
(2-33) P341 下段 「竹山道雄『時流に反して』」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十七回)

(2-26)天才の恋愛の仕方は凡人とは異なっていても、恋愛の感情そのものはなんら凡人と変るものではありえない。天才の自殺もまた、要するに一つの自殺であって、その仕方は凡人とは異なるけれども、その相違は主として死に関する省察の質と分量からくるものなのである。
(236頁下段「「死」からみた三島美学」)

(2-27)自由とはそもそも不自由をめざす瞬間にしか自由たり得ない矛盾概念である。これは自由や解放がアナーキーと境を接する外ないわれわれの生きているこの現代社会が孕んでいる矛盾そのものを示している。
(248頁下段「不自由への情熱」)

(2-28)あらゆることが許され、解放されている自由な世界では、自由であることこそが最大の不自由である。人は自由によって生きているのでは決してなく、実際には、適度の不自由と制限によって生の安定と統一を得ている。しかし、自由があり余れば、人間は中心を喪い、自分を不自由であると空想的に設定することに被虐的快感を覚え、その瞬間の熱病によって生を支えようとするものである。
(253頁上段「不自由への情熱」)

(2-29)現代人は幸福の原理を喪ったのである。幸福とは制限のなかの自足であり、不自由のなかの自由である。
(258頁下段「不自由への情熱」)

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十六回)

(2-21)現実を改変する力を文学はもともと持っていないし、また、持つ必要もない。文学は現実に支配される宿命のうちにある。

(2-22)作家は文明の位置の変動の波に乗せられているだけでは駄目である。変動の波に乗せられている自分の位置を対象化して眺めるもう一つの目が必要なのである。

(2-23)作家は社会の裡(うち)に生きているある無言の思想に言葉を与えるのみである。そのために、作家の自己はつねに自分より大きな犠牲を要求されているとさえ言える。

(2-24)かりに今の私たちの生活の場が極度に悪い条件のうちにあると仮定しても、私自身はそこからの脱出は考えない。なぜなら、脱出という行為への情熱は、ただ脱出という行為そのものに終わるからである。いい社会ができてしまって何をするか、という問題はそこには初めから含まれていない。

(2-25)生活人の日常には、文学などに携わっている人の及びもつかないほどの強靭なものが秘められているのが普通なのである。

出展 全集第2巻 「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-21) P184 下段 「文学の宿命」より
(2-22) P199 上段 「文学の宿命」より
(2-23) P206 上段 「文学の宿命」より
(2-24) P218 上段 「文学の宿命」より
(2-25) P223 上段 「文学の宿命」より