「朝雲」(一)

 過去一年間『朝雲』という防衛省の新聞にコラムを書き綴った。新しい日付から旧い日付のものへさかのぼって紹介する。最初は3月17日付であるが、3月11日午前中に送稿していて、地震の日だが、この稿を書いたときはまだ震災を知らない。

日本復活のシナリオは?

 ある雑誌の座談会に招かれて、標題を尋ねると「日本復活のシナリオ」であると知り、どこでも最近はこういう題が出されることに押しなべて今のわが国の不安と危機感が偲ばれる。民主党政権交替以来あっという間に国の格が下がっていく「日本没落」の感覚は目まいのような恐怖すら伴うが、問題の根はじつは深い。

 私の若い頃から一流の人間は政治家を目指さなかった。この国は政治家は三流でも官僚がしっかりしているから何とか持ったのだ、といわれていたものだが、最近はそうも言えなくなった。政官財のリーダーの国家意識の喪失は今や目を蔽うばかりである。

 吉田茂は憲法改正をしなかった。佐藤栄作は非核三原則などと自分から言わないでもいいことを持ち出して自分で自分を縛った。中曽根康弘は靖国参拝をとり止め、歴史教科書問題で中韓にすり寄った。小泉純一郎は靖国参拝をしたから偉いという向きもあるが、拉致問題で毎日のようにテレビのぶら下がり発言において、「ご家族のためを考えます」とは言ったが、「北朝鮮のしたことは主権侵害だ」とはただの一回も口にしたことはない。安倍晋三は慰安婦問題で何を勘違いしたかブッシュ大統領に謝罪した。終戦直後に日本人慰安婦が群をなして米兵の腕にとりすがった姿を忘れていないわれわれは、慰安婦問題は世界の軍隊の至る処にあり、アメリカはむしろ振り返って日本に謝罪すべきだ、となぜ言えなかったのか。

 最近米国務省日本部長メア氏の沖縄発言が問題になり、「ごまかし」と「ゆすり」が沖縄人侮辱と騒がれたが、米国政府が平謝りしメア氏を即座に更迭したのは、彼の発言中の「日本は憲法9条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなり、米国にとってかえってまずい」というアメリカの本音、日本永久占領意思がばれて、物議をかもすのを恐れたからで、沖縄人侮辱発言のせいではない。日本列島はアメリカ帝国の西太平洋上の国境線であって、日本に主権はない。アメリカはここを失えばかつてイギリスがインドを失った場合のように世界覇権の座から滑り落ちる。だからアメリカが必死なのは分るが、それゆえにこそ日本も真の独立をめざして必死にならなければ「日本復活のシナリオ」は生まれてこない。日本の政治が三流に甘んじてダメなのはあらゆる点で主権国家であることを捨てているからである。

 かつて日本はアメリカと戦争をした。がっぷり四つに組んで三年半も近代的大戦争をくり広げた。日本は立派な主権国家だったのである。

東北沖地震(四)

最悪の中の最悪を考えなかった

 ≪≪≪ 許されぬ「想定外」の言い訳 ≫≫≫

 原発事故下にあえぐ福島県の地域住民の方々、ならびに原発現場で日夜を問わず国の破綻を防いでくれている多くの勇敢な方々に、まず、心から同情と感謝を申し述べたい。これから後は、いよいよ指導者たちが政治的勇気を見せる番ではないかと考える。

 今度の福島第一原発の事故は、原子力技術そのものの故障ではなく、電源装置やポンプや付帯設備(計器類など)の津波による使用不能の事態が主因である。防止策として予(あらかじ)め小型発電機を設置しておくべきだったと批判する人がいたが、福島では非常用ディーゼルが用意されていて、しかも、それがちゃんと動いたと聞く。しかしディーゼルを冷却するポンプが海側にあって流され、冷却できなかった。これがミスの始まりだったようだ。電源が壊れ、原子炉への注水機能がきかなくなった。Aの電源が壊れたらBの電源・・・・C、Dと用意しておくほど、重大な予防措置が必要なはずではないか。

 東北は津波のたえない地域である。設計者はそのことを当然知っていた。東京電力は今回の津波の規模は「想定外」だというが、責任ある当事者としてはこれは言ってはいけない言葉だ。たしかに津波は予測不能な大きさだったが、2006年の国会で、共産党議員がチリ地震津波クラスでも引き波によって冷却用の海水の取水停止が炉心溶融に発展する可能性があるのではないかと質問していた。二階俊博経産相(当時)は善処を約していたし、地元からも改善の要望書が出されていたのに、東電は具体的改善を行わなかった。

 同原発は原子炉によっては40年たち、老朽化してもいたはずだ。東電が考え得るあらゆる改善の手を打っていた後なら、津波は「想定外」の規模だったと言っても許されたであろう。危険を予知し、警告する人がいても、意に介さず放置する。破局に至るまで問題を先送りする。これが、日本の指導層のいつもの怠惰、最悪の中の最悪を考えない思想的怠慢の姿である。福島原発事故の最大の原因はそこにあったのではないか。

≪≪≪ 「フクシマ」に国家の命運かかる ≫≫≫

 作業員の不幸な被曝(ひばく)事故に耐えつつも日夜努力されている現場の復旧工事は、今や世界注視の的となり、国家の命運がかかっているといっても過言ではない。何としても復旧は果されなければならない。230キロの距離しかない首都東京の運命もここにかかっている。決死的作業はきっと実を結ぶに違いないと、国民は息を詰めて見守っているし、とりわけ同型原子炉を持つ世界各国は、「フクシマ」が日本の特殊事情によるものなのか、他国でも起こり得ることなのか、自国の未来を測っているが、日本にとっての問題の深刻さは、次の2点であると私は考える。

 第一は、事故の最終処理の姿が見えないことである。原子炉は、簡単に解体することも廃炉にすることもできない存在である。そのために、青森県六ヶ所村に再処理工場を作り、同県むつ市に中間貯蔵設備を準備している。燃料棒は4、5年冷却の必要があり、その後、容器に入れて貯蔵される。しかし、フクシマ第一原発の燃料はすでに溶融し、かつ海水に浸っているので、いくら冷却してもこれを中間貯蔵設備に持っていくことはできないようだ。関係者にも未経験の事態が訪れているのである。

≪≪≪ 見えて来ぬ事態収拾の最終形 ≫≫≫

 殊に4号機の燃料は極めて生きがよく、いくら水を入れてもあっという間に蒸発しているらしい。しかも遮蔽するものは何もない。放射性物質は今後何年間も放出される可能性がある。長大で重い燃料棒を最後にチェルノブイリのようにコンクリートで永久封印して押さえ込むまでに、放射線出しっ放しの相手を何年水だけを頼りにあの場所で維持しなければならないのか。東電にも最終処理までのプロセスは分らないのだ。

 それに、周辺地域の土壌汚染は簡単には除染できない。何年間、立ち入り禁止になるのか。農業が再開できるのは何年後か、見通しは立っていない。当然、補償額は途方もない巨額になるだろう。

 問題の第二は、今後、わが国の原発からの撤退とエネルギー政策の抜本的立て直しは避け難く、原発を外国に売る産業政策ももう終わりである。原発は東電という企業の中でも厄介者扱いされ、一種の「鬼っ子」になるだろう。それでいて電力の3分の1を賄う原発を今すぐに止めるわけにいかず、熱意が冷めた中で、残された全国48基の原子炉を維持管理しなくてはならない。そうでなくても電力会社に危険防止の意志が乏しいことはすでに見た通りだ。国全体が「鬼っ子」に冷たくなれば、企業は安全のための予算をさらに渋って、人材配置にも熱意を失うだろう。私はこのような事態が招く再度の原発事故を最も恐れている。日本という国そのものが、完全に世界から見放される日である。

 手に負えぬ48個の「火の玉」をいやいやながら抱きかかえ、しかも上手に「火」を消していく責任は企業にではなく、国家の政治指導者の仕事でなくてはならない。

産経新聞20113.30「正論欄」より

東北沖地震(三)

 地震・津波の心配はいつの間にか原発事故への心配ごとに変わってしまいました。余震はまだつづいていて、東京でも日に一回か二回かは軽く揺れていることに気づくていどの余震を体感していますが、そのことへの不安よりも、原発事故がうまく収まるのかどうか、それがもっぱら気懸りです。19-21日の連休は街に賑わいがありません。みんなひっそり家でテレビの事故解説に暗い顔で向き合っているのかもしれません。

 技術による問題は当該技術のより一層の進歩によってしか解決し得ないというのが原則です。技術は走り出すと引き戻すことができないからです。同じ路線の上をいっそう早く走って、立ち塞がって押さえるしか制御のすべがないからです。原子力も恐らく例外ではないでしょう。

 たゞ原子力の利用は「選択」のテーマが先行しています。「選択」しないという道があります。フランス以外に積極的な国はありません。アメリカもドイツも消極的です。事故がこわいからです。恐らく日本も今後、撤退の方向へ少しづつ進み、原子力消極国家へ変わっていくでしょう。経済的にいかに有利でも、原子力エネルギーへ世論をもう一度よび戻すことは今後難しいと思います。

 そうなると原子力発電を外国に売るという産業政策も恐らく立ち行かなくなるでしょう。それよりもなによりも電力の約三分の一を原子力に依存している今の国内の体制をすぐに中止することはできず、維持しながら、少しづつ減少させていくのは至難の技です。また国内各地に存在する54の原子炉の安全確保、ことに今度問題になった電源装置を万一に備え複数用意することなどの事故再発防止策が急いで求められねばなりません。

 私は原子力発電については今度新たに知ることが少くありませんでした。簡単に解体することも廃炉にすることもできない厄介な装置だということは知っていましたが、使用済核燃料は水につけて冷却し、再処理するまでに10-50年も置いておくのだということは今度はじめて知りました。

 重くて長い使用済みの、放射線出しっ放しのあれらの数千本の棒を最後にコンクリートで永久封印して抑え込むのに、何年にもわたって、「水」だけが頼りだというのはあまりにもプリミティブすぎて、可笑しいくらいです。焚火の跡に危いから水をかけておくのと同じで、人類の考えつくことは恐しく単純ですね。

 自衛隊が水をヘリコプターで空から撒いて、青空に白い水しぶきが衆目にさらされました。あれじゃあダメだとみんな思いました。東京消防庁がホースで放水し、うまく行ったようですが、水が壁に当って飛び散ったり、うまく入らないケースもあったようで、放射能漏れが心配されています。関係者のご苦労には頭が下がりますが、暴れ出した巨獣を小人(コビト)が取り巻いて取り抑えようと四苦八苦している様子にもみえ、どんなに進歩した技術社会でも、思いつくことは子供のアイデアと同じです。

 今度の事故ではっきり分ったことは、事故の正体は原子力の制御と活用の技術そのものの故障ではなく、電源装置やポンプや付帯設備(計器類など)の津波による使用不能という事態だということです。これを防止する保護措置を幾つも用意しておかなかったのは大失敗だといわざるを得ないでしょう。核燃料そのものは幾つもの防壁で守られていて、そのうち鋼鉄の圧力容器と格納容器は今でも安全です。熱を出しっ放しの使用済核燃料が悪さをしつづけているのです。それを抑える水、水を送るポンプ、ポンプを動かす電源、これらが使用不能になったことが事故のすべてでした。

 私の記憶に間違いがなければ、ポンプはたしか海側にありましたね。外部電源の取り込み設備が使えなくなったことが最大の問題のようです。Aの電源がこわれたらBの電源・・・・・C、Dと用意しておくほど重大な予防措置が必要なはずでした。福島では非常用ジーゼル発電機が用意されていて、今回はそれが動いたのでした。しかしこれを冷却する必要がやはりあり、海側のポンプが流されて冷却できなかった、ここに致命的ミスが起こったのでした。設計ミスといわれても仕方がないでしょう。

 津波のたえない地域です。今回は1000年に一度という規模の地震で、「想定外」だったことは分りますが、50年に一度、あるいは100年に一度の規模の地震がくりかえされる地域です。最悪の中の最悪を考える思想は果して存在したでしょうか。

 原子力発電はどの地方でも怖がられ、地元の人は逃げ腰です。やっと設置を許してくれた地域に企業側は過剰期待し、あれもこれもと押しつけ、バランスを欠くほど無理が重なっていなかったでしょうか。福島第一原発は昭和42年スタートで、老朽化していなかったのでしょうか。

 原子力発電は東電という企業の中でも荷厄介扱いされ、一種の「鬼っ子」であったということを聞いたことがあります。福島の事故が切っかけになって、日本の電力エネルギーの方向が少しづつ原子力から離れていく趨勢は避けられないと思います。そうなったときの安全確保は今まで以上に難しいといえるでしょう。なぜなら、企業は安全のための予算を渋り、人員配置を手薄にすると考えられるからです。各地方はさらに逃げ腰になるでしょう。国全体が「鬼っ子」に冷たくなれば、残された原発を安全に維持し、運転する情熱もしだいに衰えていくからです。しかし危険なものを抱えていく情勢は変わりません。

 私はこのような未来にいちばん不安を抱いています。福島原発を抑止し、今の危険を解決するのは可能だと思っています。しかしこれから手に負えぬ50個の「火の玉」をいやいやながらどうやって抱き擁えていくのか、これが問題で、電力会社のテーマではなく、一国の政治のテーマです。

 今の政治にその力のないことは歴然としています。現政権は東電という一企業に責任を丸投げして、無力をさらけ出しています。半年前に那覇地検に責任を押しつけたのと同じ手口です。

 現政権に期待しないとしても、原子力から他の新しい何らかのエネルギーの開発に成功するまでの長い道のりを、危険な「火の玉」をあやしながらこれを利用し、しかも上手に「火」を消していく安全な道程としなければならないのですからこれは大変です。私どもはいずれにせよそんなことのできる新しい政治力の成立に夢を託さざるを得ません。

東北沖地震(二)

 十四日(日)も終日テレビを見ていました。仕事に手が着かず、落ち着かない一日でした。

 私は判断を間違えていました。犠牲者は予想外に少いように見えると書いたのは、押し寄せてくる水の前を走り逃げまどう人々の姿が初日のテレビの画面にほとんど映らなかったからです。避難はかなり成功したのかと思っていました。

 南三陸町というところの人口は1万7千人で、うち1万人が行方不明だと聞いてびっくりしました。宮城県警が宮城の犠牲者数は1万人を越えるとの予想を立てていると公表しましたので、逃げられずに家ごと水に流された人の数がおびただしく、あの粉々にされた木材の破片の山は犠牲者の隠された悲劇の証拠で、想像を絶する恐怖のドラマが展開されたことが分りました。

 公表される100人単位の犠牲者数は誤解を生みます。被害の総体はまだまったく掴めていないのだと思います。

 地震学者が1200年前の平安時代に東北でほゞ同規模の地震があったことが学会の総意で推定されていたという話は印象的でした。携帯電話が不通になったのは驚きでした。クライストチャーチから富山県に携帯が通じていたのに、今回は不通で、被害地は情報遮断を強いられました。超近代社会の無力は、原発事故でたちまち国内の電力不足が現実のものとなった点にも現われています。電話が通じないというようなことは戦争中にもなかったことで、情報化社会の盲点です。電力不足で電車が間引きされる今朝からの事態も、戦後の65年間ずっとなかったことでした。

 どういうわけか戦時中をしきりに思い出したのは、決して私だけではないでしょう。テレビは全局同じになり、BSも同じで、コマーシャルが消されて、どこのチャンネルも地震情報で画一化され、世界からその他の新ニュースを知りたいと思ってもそれはなく、ムード的に「挙国一致」があっという間に出現しました。「国難」という言葉が、普段はそんなことを言いそうもない菅総理と女性某大臣の口から出ました。

 「未曾有の大地震」と「壊滅的被害」はテレビキャスターや報道記者の常套句となりました。やむを得ぬ交代制の「計画停電」が告知され、途方もない不便が予想されますが、誰ひとり異を唱える者はなく、国民はこぞって粛々と「運命」を引き受ける様子です。急にガラっと空気が変わりました。あるキャスターは国民は今こそ落ち着いて我慢して行こうと訴え、ほとんど私はむかしの「欲シガリマセン勝カツマデハ」を思い出しました。

 管理された「停電」は私に戦時中の「ローソク送電」を連想させました。暗い夜に「懐中電灯」を用意せよ、のテレビの指示ににもなぜか私には昔の暗い夜への懐かしさを抱かせました。そういえば陸前高田という町の、壊滅した広々とひろがる大地に駅舎がポツンと残る光景は、あの懐かしい空襲後の焼跡にそっくりです。一晩中燃えつづけた気仙沼市の夜景は夜間空襲の惨劇を思い出させました。

 このような国民的記憶を喚起する事件はたしかに65年の戦後社会にはこれまでになく、阪神大震災のときとはだいぶ異なります。日本人が「国難」を本気で意識し、「復興」を叫ぶことばがメールやネットで飛び交っているのは悪いことではなく、原子力発電の重要性(なかったら大変なことになる)が広く分るのも無意味ではありません。

 自然災害の忍耐強い国民性はもともとのもので、そこに今度のような危機感、この国のもろさ、弱さ、頼りなさへの不安、いったい明日どうなるのだろうかという急激な変化に対する心もとなさが加わって、国民的緊張感が高まることは、それ自体久し振りの感覚で、国家としての「めざめ」に多少とも役立つことになるのかもしれません。

 けれども、さて、どうでしょう?いつまでつづくのでしょうか。少くともテレビの世界は遠からず元へ戻り、地震関連のニュースは激減し、本当はもっと解明されるべき悲劇のトータルな総体を地道に追及するパワーは、お笑いタレントなどのあのバカバカしい映像に席を譲ることに再び立ち戻ってしまうのではないでしょうか。

 コマーシャルを消した「挙国一致」の危機意識が地震以外の他のあらゆる方面においても一般的になって欲しいと思います。

東北沖地震

 心配して下さった方々からお電話をいただきましたが、私は大丈夫です。それよりも、被災なさった方には何よりもお見舞いを、不運にも命を落とされた方々には哀悼の意を捧げたいと思います。

 昨日からテレビの画像を見つづけています。映画のセットなら考えられるようなシーンが現実に次々とくりひろげられ、言葉もありませんでした。大きな家が川面にプカプカ浮かんで流れていく光景は、子供時代に茨城の那珂川の洪水で見た覚えがありますが――あのころは台風シーズンのたびに川の決壊にはよく出合った――、今度のように商店街が一瞬のうちに河川に替わり、車だけでなく船がとりどりの店の前を平然と流れていく光景や、まるで巨獣が地を這うように黒っぽい濁流がビニールハウスの並ぶ広い畑地をゆっくり呑食していく有様に、私は正直息を呑む思いでした。

 東北はまだ寒い。雪も降っている。日本では情報が早く流れ、避難も素早い方で、東南アジアの国々の例よりも被害は少いように思えますが、寒い中での避難生活は予想以上に厳しいでしょう。私ならきっと避難所で命を落とすことになると思います。寒さには弱く、意気地がないのです。

 わが家では本が書庫の棚から落ち、額が外れ、花瓶が倒れましたが、その程度です。戸棚の開き戸はみな自動的に開いてしまいました。

 大揺れの瞬間に、あちこちのドアの鍵を開け半開きにしておくことを心掛けました。閉じこめられるのを恐れたからです。けれども、同時に犬が外へ飛び出すのも恐れました。大急ぎで犬に紐をつけ、じっと抱いていました。犬ははじめオロオロしていましたが、ほどなく安心して身を任せました。

 皆さまのご無事とご健勝を祈ります。

西尾幹二全集の刊行について(二)

 いま私は西尾幹二全集の編集に追われている。今どんな段階かを説明する前にもう一度全巻の表題を出しておきたい。

西尾幹二全集・二十二巻構成と表題・頁数概要

第一巻   ヨーロッパの個人主義 

第二巻   悲劇人の姿勢 

第三巻   懐疑の精神 

第四巻   ニーチェ 

第五巻   光と断崖――最晩年のニーチェ 

第六巻   ショーペンハウアーの思想と人間像 

第七巻   ソ連知識人との対話 

第八巻   日本の教育 ドイツの教育 

第九巻   文学評論 

第十巻   ヨーロッパとの対決 

第十一巻  自由の悲劇 

第十二巻  日本の孤独 

第十三巻  全体主義の呪い 

第十四巻  人生の価値について 

第十五巻  わたしの昭和史 少年篇 

第十六巻  歴史を裁く愚かさ 

第十七巻  沈黙する歴史 

第十八巻  決定版 国民の歴史 

第十九巻  日本の根本問題 

第二十巻  江戸のダイナミズム 

第二十一巻 危機に立つ保守 

第二十二巻 戦争史観の革新 

 ずいぶんたくさんあるように思われるかもしれないが、これでも自分の書いたすべての評論を入れることはできない。相当カットしなければならない。今そのむつかしい作業をしている。

 5月に出る第1回目は第五巻「光と断崖――最晩年のニーチェ」で、これはすでに校正がどんどん進んでいて、初校から再校の段階に入るところである。570ページ前後になる。

 8月に出る第2回目は第一巻「ヨーロッパの個人主義」で、収録作品は確定した。11月に出る第3回目第二巻「悲劇人の姿勢」で、これも内容はほゞ確定した。そこで上記の三巻の目次をここに掲げることにする。

西尾幹二全集 第五巻 光と断崖――最晩年のニーチェ

Ⅰ 最晩年のニーチェ  
    光と断崖
    幻としての『権力への意志』
    ニーチェ『この人を見よ』西尾幹二訳
    著作を「作る」ことを排した決定版ニーチェ全集の出現
         ――イタリア人学者の実証について
    Zweifel über die Authentizität des neu ersetzten Abschnittes im ‚Ecce homo‛
der kritischen Gesamtausgabe

Ⅱ ドイツにおける同時代人のニーチェ像  
  フランツ・オーヴァーベック/フランツ・リスト/フリードリヒ・リチュル/ウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ/ハインリヒ・ハルト/フリードリヒ・マイネッケ/フーゴー・フォン・ホーフマンスタール/クリスティアン・モルゲンシュテルン/ハリー・ケッスラー伯/ゴットフリート・ケラー/フリードリヒ・パウルゼン/ヤーコプ・ブルクハルト/ハンス・フォン・ビューロー//エルヴィン・ローデ/カール・グスタフ・ユング/アルノルト・ツヴァイク/ジークムント・フロイト/ルー・アンドレーアス=サロメ/ヘルマン・ヘッセ/シュテファン・ゲオルゲ/デートレフ・フォン・リーリエンクローン/ヘルマン・バール/モーリス・バレス/アルトゥール・シュニッツラー/ローベルト・ムージル/カール・クラウス/テーオドール・フォンターネ/ブルーノ・バウアー/カール・オイゲン・デューリング/カール・ヒレブラント/ハインリヒ・フォン・シュタイン/ゲルハルト・ハウプトマン/レーヴェントロ伯爵夫人フランツィスカ/ヨハネス・ブラームス/アルフレート・デーブリン/ルードルフ・シュタイナー/リヒャルト・デーメル/マックス・ハルベ/ゲオルク・ブランデス/グスタフ・マーラー/リヒアルト・シュトラウス/マルティーン・ブーバー/アルベルト・シュヴァイツァー、ほか
 
Ⅲ 日本におけるこの九十年の研究の展開  

    一 わが国最初の論評と研究書はドイツとほぼ同時代だった
    二 姉崎嘲風のドイツ留学が果たした小さくない役割
    三 澤木梢のオスカー・エーヴァルト紹介――初の形而上学的主題の発見
    四 和辻哲郎の『ニイチェ研究』の着眼の先駆性と叙述方法の限界
    五 翻訳の展開――生田長江、金子馬治、登張竹風ほか
    六 ヒントに富む内村鑑三の片言と〝ニーチェ小説〟の流行
    七 「ニーチェと学問」が問題の核心だと初めて指摘した三木清
    八 西谷啓治の神秘主義的アプローチは戦前日本の理解の最高水準を示す 
   
Ⅳ 掌篇 
【研究余滴】
    人間ニーチェをつかまえる
    高校■ギムナジウム■教師としてのニーチェ
    手製の海賊版
    ニーチェ/ローデ往復書簡集
    「星の友情」の出典
    「バーゼル大学教会史講座をめぐる応答戯れ歌」由来
    裏面史の一こま――ボン大学紛争
【ニーチェと学問】
    私にとっての一冊の本――『悲劇の誕生』
    フロイトとニーチェの出発点
    アポロ像の謎
    「古典文献学■フィロロギー■」ということばの使われ方
    「教養」批判の背景
【方法的態度】
     ニーチェと現代
     実験と仮面――ゲーテとの相違
    批評の悲劇――ニーチェとワーグナーの一断面
    ニーチェのベートーヴェン像
    自己欺瞞としてのデカダンス
    言葉と存在との出会い
    和辻哲郎とニーチェ

後記

西尾幹二全集   第一巻 ヨーロッパの個人主義

Ⅰ ヨーロッパ像の転換  
  
   序 章   「西洋化」への疑問
   第一章  ドイツ風の秩序感覚
   第二章  西洋的自我のパラドックス
   第三章  廃墟の美
   第四章  都市とイタリア人
   第五章  庭園空間にみる文化の型
   第六章  ミュンヘンの舞台芸術
   第七章  ヨーロッパ不平等論
   第八章  内なる西洋 外なる西洋
   第九章  「留学生」の文明論的位置
   第十章  オリンポスの神々
   第十一章 ヨーロッパ背理の世界
   終章   「西洋化」の宿命
   あとがき
 
Ⅱ ヨーロッパの個人主義  
   まえがき
   第一部 進歩とニヒリズム
    < 1>封建道徳ははたして悪か
    < 2>平等思想ははたして善か
    < 3>日本人にとって「西洋の没落」とはなにか
  
   第二部 個人と社会 
    < 1>西洋への新しい姿勢
    < 2>日本人と西洋人の生き方の接点
    < 3>自分自身を見つめるための複眼
    < 4>西洋社会における「個人」の位置
    < 5>日本社会の慢性的混乱の真因
    < 6>西欧個人主義とキリスト教
  
   第三部 自由と秩序
    < 1>個人意識と近代国家の理念
    < 2>東アジア文明圏のなかの日本
    < 3>人は自由という思想に耐えられるか
    一九六八年版あとがき
  
   第四部 日本人と自我
    < 1>日本人特有の「個」とは
    < 2>現代の知性について――二〇〇〇年新版あとがきに代えて
 
Ⅲ 掌篇

【留学生活から】
    フーズムの宿
    クリスマスの孤独
    ファッシングの仮装舞踏会
    ヨーロッパの老人たち
    ヨーロッパの時間
    ヨーロッパの自然観
    教会税と信仰について
    ドイツで会ったアジア人
【ドイツの悲劇】
    確信をうしなった国
    東ドイツで会ったひとびと
【ヨーロッパ放浪】
    ヨーロッパを探す日本人
    シルス・マリーアを訪れて
    ミラノの墓地
    イベリア半島
    アムステルダムの様式美
    マダム・バタフライという象徴
【ドイツ体験回顧】
    ドイツ大使館公邸にて

後記

西尾幹二全集   第二巻 悲劇人の姿勢
Ⅰ 悲劇人の姿勢  
 アフォリズムの美学
   小林秀雄
   福田恆存
   ニーチェ
    ・ニーチェと学問
   ・ニーチェの言語観
   ・論争と言語
政治と文学の状況
文学の宿命――現代日本文学にみる終末意識
「死」から見た三島美学
不自由への情熱――三島文学の孤独

Ⅱ 続篇  
行為する思索――小林秀雄再論
福田恆存(文学全集解説)
福田恆存小論
 ・その一 現実を動かした強靭な精神、福田恆存氏を悼む
 ・その二 時代を操れると思う愚かさ
 ・その三 三十年前の自由論
高井有一さんの福田恆存論
三島由紀夫『宴のあと』
三島由紀夫『裸体と衣裳』
竹山道雄『時流に反して』
むしろ現代日本への批評――竹山道雄『ビルマの竪琴』
竹山道雄氏を悼む
田中美知太郎先生の思い出
 
Ⅲ 「素心」の思想家・福田恆存の哲学 
一 知識人の政治的言動について
二 「和魂」と「洋魂」の戦い
三 ロレンスとキリスト教
四 「生ぬるい保守」の時代
五 エピゴーネンからの離反劇
六 「眞の自由」について

Ⅳ 『三島由紀夫の死と私』
はじめに
第一章 三島事件の時代背景
第二章 一九七〇年前後の証言から
第三章 芸術と実生活の問題
第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する
あとがき

Ⅴ 憂国忌 没後四十年

三島由紀夫の自決と日本の核武装
憂国忌没後三十八年記念講演より(抜粋)

後記

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その七)

 三島が見ていた「敵」

 北朝鮮が韓国・大延坪島への砲撃を行った。その前には韓国の哨戒艦を撃沈させた。にもかかわらず、韓国は憤激もぎりぎりのところにきていながら、忍耐している。それはアメリカが忍耐させるからである。アメリカは東アジアで戦争する気がない。アメリカは逃げている。

 北朝鮮の行動は中国と組んで行われている。だから、韓国の島が攻撃された事件と尖閣の事件は全く同じで、一体化していると見たほうがいい。中国は北朝鮮に制裁を加えるどころか、韓国への攻撃以来、両国間の輸出入が増えている。中国はだんだんのさばってきて図々しいことを考えているが、もし何かが起こっても、アメリカは日本に対しても、韓国にしたように何もしない可能性が高い。

 こういう状況がきたときに、はじめて今の民主党政権に対して国民の声は「自衛隊よクーデターを起こせ」との気持ちが高まるだろう。実際にするかどうかはわからない。クーデターをするような勢いのある中心の人物、田母神空将は追い出されてしまった。

 クーデターは現実的ではないが、しかし三島由紀夫が40年前にクーデターということを自衛隊に呼びかけ、そして先程示したように、NPT体制に対する不安を明確に檄文の中で述べ、あと二年しかないと叫んでいたのを思うと、時を経て三島の絶叫はにわかにリアリティを帯びてきたようにさえ思う。

 明確な敵がいたのではないか。hostile enemyはいなかったというドイツのシュタンツェル大使の解釈はいかにもそうと思えていたが、しかし、実ははっきりと敵がいた。

 内省的、内面的、自虐的な三島では決してなかった。敵は日本をたぶらかそうとしているアメリカ。広島長崎がトラウマになって核武装後の日本の復讐に内心おびえ、日本にたしかな現実の道を歩ませることを封じ込めている。

 そして、そのアメリカに乗せられっぱなしの死んだような日本。具体的にはソ連や中国ではなく、大きな轍(わだち)の中に閉じ込められている今の日本の、そして今日まで動かないこの世界の状態、核状況の現実ということではなかったろうか。

 死をもって現実を動かす

 文学と国家のことが三島の問題であった。国家のことを先に考え、文学のことなど疑えと言い出した文学者は、三島の前に二葉亭四迷がいた。二葉亭四迷は文学を疑え、国家が先にある、文学を疑わないような文学は文学ではないというようなことを高い批評意識をもって語った人だが、二葉亭の場合には常にロシアという具体的な脅威が目の前にあった。そういえばすぐ国士、二葉亭の意気込みがわかる。

 三島と二葉亭がよく似ているのは、国家という意識が文学よりも先にあるべきだというこの自覚に加えて、小説の中に国家や国民をいれない。小説はあくまで市井のささやかな男女の心のひだを描くという点では両作家は同じであり、小説の中に政治や国家の問題をストレートに入れず、現実と美を切り離す。

 その点で非常に近代小説的で、三島と二葉亭は似ている。違うのは、二葉亭の場合は国家を語るときにロシアという具体的なものが目の前にあったのに、三島の場合は具体的なものがなく、戦後という米ソの谷間にあって、敵がはっきり見えない、まるで霞のような、あるいはまたぼんやりして正体不明なふわふわしてよく見えない現実の中で、文学は二の次だという二葉亭と同じような現実への覚醒の意識を維持するために、困難が倍化していたように思う。

 それが、三島のあがいて穴の中に入っていく形で、最後は文学が政治と一体化して錐(きり)もみのような形になっていた所以であり、シュタンツェル大使に外敵もいないのに戦ったと言われた所以である。

 そういう意味での現実が捉えにくかった時代に生きたのが、三島由紀夫の運命だった。それゆえ、多くの人があの檄文を読んで、なんだろう、なんで自決したのかわからないと言ったのであるが、非常にはっきりと彼には世界の現実が見えていたんだと、私は本論でそのことを論じたのである。

 世界と日本の中に置いてみてこのことがわかった。彼には現実がすぐには見えなかった。わからない、二葉亭のようにロシアと簡単にいえなかった時代を生きた。それでも国軍の創設ということを言い、皇室への信仰の復権という具体的な政治のテーマを掲げ、しかし実際の小説はそういうものに感情的に紛らわされることなく、しっかりした明晰(めいせき)な輪郭のある小説を書く。文学と現実を切り離していた。

 しかし現実というものはロシアのようにはっきりしていなかった。それが三島の苦しいところであったし、彼の文学を規定している背景であったと私は思うのだが、しかし三島は全く空想を現実にしていたのではない。現実に立っていた。NPT体制を見ていた。

 三島は日本の現実的な政治をしっかりと見て、それを突き破り、死をもって現実を動かそうとしたリアリストであった。


(『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その六)

 周到な受賞工作

 私は、日本の保守政権を堕落させてきたのは靖国参拝とり止めの中曽根内閣からだと言ってきたが、佐藤栄作からなのではないか。彼から国家の「第二の敗戦」は始まった。彼はノーベル平和賞をもらう代わりに、アメリカに日本国を売ったのではないか。これは決して空想を述べているのではなく、論証が可能なのである。

 ノーベル平和賞自体を佐藤本人は寝耳に水だと驚きのポーズをみせたが、周到な受賞工作の結果であった。その功労者のひとりが、前年に同賞を受賞したキッシンジャー国務長官であった。佐藤はキッシンジャーにこの点で頭が上がらない。

 1974(昭和49)年にフォード大統領が来日した際、国務長官が同行団の中にいて、佐藤栄作は日本国内に彼を訪問した。総理の座を離れて二年半経っていた。訪れた理由は、ノーベル平和賞授賞式におけるスピーチの草案について、キッシンジャー国務長官の了承を取ることであった。

 佐藤は核保有五大国(米、ソ、英、仏、中)に対し、核兵器全廃を訴えようと立案していたが、キッシンジャーの了解は得られなかった。当時西側は、通常ミサイルに関してソ連に後れをとっていたので、ソ連を牽制するには核兵器の抑止力が不可欠だった。

 「何をとぼけたことを言い出すのか」と、キッシンジャーは憮然たる面持ちだったそうだ。ノーベル平和賞をもらったとたん核廃絶論者、絶対平和主義者づらをするのが許せなかったのだろう。

 国務長官に一蹴され、佐藤は文言を削った。彼はスピーチを報じる新聞の報道を後日キッシンジャーにわざわざ送り、約束どおり核廃絶を訴えることはしなかったと、身の証を立てたそうだ。キッシンジャーは彼の前に立ち塞がるアメリカの「意志」そのものであり、ノーベル平和賞とはアメリカの政治意志の一道具であることがここからもいえる。

 佐藤が五大国の核廃絶を訴えたのは大江健三郎の平和主義からではなく、日本を核大国の仲間に入れないのならお前たちだけ勝手なことはさせたくない、と一発かましたい思いからだったのかもしれない。切ない抵抗だったのかもしれない。真意は分らない。

 沖縄返還後の核再持ち込みの密約の存在、「核抜き本土並み」返還がウソだった事実が、後にアメリカの公文書公開で明らかになったように、佐藤が核廃絶論者であり得るはずはないのである。

 キッシンジャーに会った半年後、佐藤栄作は脳溢血で倒れ、この世を去った。

 以上はミシガン州にあるフォード大統領図書館の機密公文書の公開によって明らかにされた史実で、これの発見と報告は春名幹男元共同通信ワシントン市局長(現名古屋大学教授)の月刊『現代』(2008年9月号)の論文に負うている。

自壊に近づく日本

 いろいろ忖度(そんたく)してみても、佐藤栄作の核をめぐる安全保障観はどこまで合理的かつ現実的であったのかは本当のところは分らない。しかし彼の内心の思いが何であれ、日本の核開発放棄とNPT調印が評価されての平和賞受賞であり、そのとき「持たず、作らず、持ち込ませず」が平和日本の国家的標語として高らかに打ち上げられ、内外に広まり、国是になったことは疑えない。

 広島で毎年8月6日に行われる平和記念式典に登壇する総理大臣は、たとえ保守志向の総理であっても、世界の人類の永遠の核廃絶をバカの一つ覚えのように口にする。私は、安倍元総理がこの常套句(じょうとうく)を語ったときにエッと驚いた。ひとりぐらい違うことを言う人があってもいいはずだ。「北朝鮮や中国の核脅威には核でしか対抗できない。諸君!われわれは坐して死ぬわけにはいかないではないか!」と、広島の壇上で語りかける総理が出てきてもいいはずだ。

 非核三原則がいけないのは、汚いもの怖いもの臭いものは全部国の外にしめ出して、目を伏せ耳を塞いでいれば外からは何も起こらずわれらは幸せだ、自分の身を清らかに保ってさえいれば犯す者はいない、という幼稚なうずくまりの姿勢のほかには、いっさいをタブーとする迷信的信条の恐ろしさである。

 NPTに署名するに先立ち、これをためらい、唯々諾々(いいだくだく)と従っていては国が危ないと苦慮していた声がたしかにあったはずなのに、それに蓋をしたのが佐藤首相であることは紛れもない。

 それなら、国連などで核廃絶提案がたとえばスウェーデンあたりから出されたとき、日本政府は賛成案を投じるかといえば必ずしもそうではなかった。記憶に残る562件の国連決議において、日本の賛成派冷戦時代で40%、その後も平均55%となっている。

 なぜ、唯一の被爆国日本が核廃絶に関する決議に賛成できなかったのか。二hんの国連大使がネバダの核実験場にアメリカから呼ばれて、スウェーデンなどの提案に賛成するな、と説得を受けたこともあるという。

 日米安保という「核の傘」の下にあるのだから仕方ない、と日本政府はそのつご棄権と反対を繰り返し、なぜ日本が?と不思議がられた。佐藤栄作がキッシンジャーに一蹴され、文字を削ったのと同じケースである。

 それなら日本は逆にアメリカとしっかり組んで、西ドイツのような現実的な道を選べばよかったのではないだろうか。1960年代のNATOにおいて開始された「核シェアリング」のような合意が、日米間でどうして可能ではなかったのだろうか。ソ連の巨大な通常戦力の陸上での攻撃に、射程の短い核兵器の発射をアメリカから任せてもらうのである。この企てに参加したのは西ドイツのほかにイタリア、オランダ、ベルギー、およびトルコであった。

 射程の長い核兵器、砲、ミサイル、航空機の爆弾の三種はアメリカが保有している。ソ連による攻撃が核なくしては防げない事例にのみ、西ドイツの場合には150発を上限に核弾頭がアメリカから譲渡され、アメリカに頼らず自らの判断のみでこの爆弾を使用することが許されていたのである。

 核廃絶は空想である。旧社会党や大江健三郎の思想である。だから、これにアメリカが同意しないというのは十分に理に適っている。キッシンジャーが佐藤栄作の受賞のスピーチの内容に異を唱えたのは、むしろ当然であった。

 しかし、それなら日本の保守政権は60年代のNATOで始まっていたこの「核シェアリング」のような現実的な方策をなぜ取り入れようとしなかったのだろうか。なぜ空想に走るか、さもなければ不承不承のアメリカ追随に逃げるか、この二軸の間をウロウロ揺れ動いただけで、自らこうするという政策なしに終わっているのか。

 国連で他国が核廃絶の提案をすると、棄権する日本は何をやっているんだと見なされるらしい。つまり、左翼にもなりきれない。旧社会党のようなことを口では言っておきながら、それにもなりきれず、現場ではアメリカに調子を合わせる。そしてそれなら西ドイツのように「核を持ち込ませる」方針を積極的に選ぶのかといえば、そんな空気もないし、議論もしない。つまり何もしない。

 このぶざまな二分裂が今までの日本であり、今の日本でもあり、そしてその揚げ句、ついに民主党政権を誕生させてしまったのである。

 もうこれ以上待てるか。はたして大丈夫か。日本はじりじりと後退し、自壊に近づいているように思える。

 国是となった佐藤栄作の「持たず、作らず、持ち込ませず」に依る自縄自縛は、次第に自己硬直の域に達したといっていいだろう。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その五)

 核を持ち込ませた西ドイツ

 その発見を説明する前に、NHKが2010年10月3日夜「スクープドキュメント“核”を求めた日本」で報じられた、佐藤政権で密かに日本の外務省が西ドイツ外務省に、アメリカから離れ、両国共同で核開発を行うべきではないかと相談を持ちかけ、西ドイツに退けられたという話について、私の知るドイツの政治的並びに心理的実情とあまりに違うので、一言述べておく。

 番組は核開発を嫌った西ドイツ政府は平和主義で、秘密にこれを画策した日本政府を悪者のように扱っていたが、とんでもないことである。

 西ドイツは戦後NATOに加盟する際、核を開発しないことを約束させられた。しかし、核の保有を断念したわけではない。ことにアデナウアー首相が強い意志で核を持つという政策を掲げていて、圧倒的多数の国民に支持されていた。アデナウアーの流れの保守政権から社会民主党系の政権に移っても、基本の姿勢は変わらなかった。

 日本が非核三原則と言っている間に、西ドイツは核は作らなくても、持ちたい。それがダメなら、せめてアメリカの核を持ち込ませたい。切実にそう願っていた。自国の安全のためである。非常に強いリアリズムとしてドイツ人はそう考えていた。

 冷戦時に、西ドイツ国防軍には有事に際しアメリカの核弾頭が提供される仕組みになっていた。NHKの番組が取り上げた一件で西ドイツ外務省が日本提案を断ったのは、日独共同で開発することの拒否にすぎない。西ドイツが日本風の平和主義であったからでは決してない。

 ドイツ人が一貫して、何とかしてアメリカの射程の短い戦術核を持ち込ませたい、そうしなければやっていけないという危機感を抱いたのは当然である。そう考えない日本人が異常なのである。

 保守政権から交代したシュミット政権になったときに周知のとおり、ソ連が配備したSS-20という中距離核弾頭に対応してアメリカのパーシングⅡと巡航ミサイルを西ドイツが率先して受け入れ、かつヨーロッパ各国にそれを説得して配備させることで末期のソビエトと対決し、これを屈服させるという一幕があった。はらはらさせたが、しかし断固とした措置であった。これに似た対応がなければ、日本はおそらく、中国と北朝鮮の連合軍による核の威嚇をはねのけて、自由で平和な今のような祝福された国土と国民生活をこのまま維持し続けることはできなくなるだろう。その意味で60-70年代の佐藤政権が「持ち込ませず」まで宣言したのは、どう考えても大失策であった。

 原因は、単なる彼の性格的ひ弱さだろうか。唯一の被爆国というマスコミへの媚(こ)び諂(へつら)いだろうか。アメリカの政策にすり寄りたい点数稼ぎだろうか。それとも、結局は彼の頭脳も旧社会党型平和主義者のそれなのだろうか。

 日本を売った佐藤栄作

 三島由紀夫の自決は、もとより半分は文学的動機によるものであり、政治的動機であの事件のすべてを説明はできない。文学者としての思想的理想がなければ、あのような極限的行動は起こらなかった。しかし、ドイツ大使シュタンツェル氏が言ったように、国の外にhostile enemyを見ない、自閉的で幻想的な行動、世界の政治現実をいっさい映し出していない、リアリティから隔絶した自虐的な行動だったのだろうか。

 私は過日、「檄」を読み直してアッと驚いた。三島由紀夫はNPTのことを語っているのだ。今まで気がつかず読み落としていた。彼が自衛隊に蹶起(けっき)を促すのは、明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵を意識しての話なのである。このままでよいのかという切迫した問いを孕(はら)んでいる。

「この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこかへ行かうとするのか。

 繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停止条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。・・・・・・(以下略)」

 六年前に中国が核実験に成功し、核保有の五大国として「核停止条約」(NPTのこと)で特権的位置を占め、三島が死んだこの年に台湾を蹴落として国連に加盟、常任理事国となるのである。「五・五・三の不平等条約」とは、ワシントン会議における米英日の主力戦艦の保有比率であることは見易い。

 三島は、NPTに署名し核を放棄するのは「国家百年の大計にかかはる」と書いている。NPTの署名を日本政府が決断したのは1970(昭和45)年2月3日で、同じ年の11月25日に三島は腹を切った。

 そして、NPTの署名と核武装の放棄を理由に、佐藤栄作はノーベル平和賞の名誉に輝いた。佐藤は三島の最期を耳にして「狂ったか」と叫んだ。政治家の穏健な良識がそう言わせたのではなく、自らの虚偽と欺瞞と頽廃と怠惰と痴愚と自己愛とが三島の刃に刺されたがゆえに、全身を襲った恐怖が言わせた痛哭(つうこく)の叫びだったのだ。

 文中にある「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である」は、すごい一言である。私もずっとそのように認識し続け、またそのように書き続けてきた。

 親米保守に胡坐(あぐら)をかく自民党の軍隊は「村山談話」に屈服して、田母神空将を追放し、ついに民主党の軍門に下った。今の自衛隊を風水害対策班にし、別の新しい「真の日本の自主的軍隊」を創設すべき秋(とき)は近づいている。

 「あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう」の「あと二年」とは1972(昭和47)年を指す。沖縄返還が72年に実現した。その頃から準備と工作を続け、74年にノーベル平和賞である。三島の死んだとき防衛庁長官は中曽根康弘だった。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その四)

 アメリカに保護された平和

 最近の政治家、官僚、学者言論人が、いつ終わるかもしれないぬるま湯のような“アメリカに保護された平和”に馴れ、日本はIAEA(国際原子力機関)に事務局長も送り出しNPTの優等生ではないかなどと呑気な顔をしているのは愚かもいいところで、自国の置かれた最近の一段と危険な立場が見えていない証拠である。

 たしかに、その後今日までにイスラエル、インド、パキスタン、そして北朝鮮が核保有国になり、NPTは半ば壊れているかもしれないが、中国と北朝鮮が日本列島にミサイルを向けている情勢は変わっていない。それどころか、近年にわかにキナ臭くなっている。中国と北朝鮮の対日敵性国家としての連帯は次第に年ごとに露骨になってさえいる。

 三島由紀夫が自決したのは周知のとおり、1970年11月15日であった。右に見てきた諸情勢のちょうど真っ只中において起こった事件だった。

 佐藤栄作が日本に対する核攻撃に対し、必ず日本を守ると言ってほしいとジョンソン大統領に頼み、口頭の確約を得たのが先述のとおり1965(昭和40)年1月であった。この日米会談に先立って、佐藤は沖縄の本土復帰を強く意欲していた。同年8月には那覇空港で、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国の戦後は終わらない」という有名な声明を発した。

 核実験の成功から国連加盟へ向けて国家的権威を高める共産中国の動向を横目に見ながら、アメリカから不確実な「核の傘」の約束をとりつけ、沖縄の早期返還を目指した佐藤長期政権の政治的評価は、今日的意味が非常に高いと思われる。

 論評も数多くあることを私は知っているが、その詳しい跡づけをするのがここでの私の課題ではない。返還までの過程で、佐藤は例の非核三原則、有名な「持たず、作らず、持ち込ませず」を言い出した。1967(昭和42)年のことである。

 そして72年には沖縄の完全返還も達成し、7年8ヶ月に及ぶ首相の座を退いた後の1974年秋にノーベル平和賞を授与されたことはよく知られている。授賞の理由は「日本の核武装に反対し、首相在任中にNPTに調印したこと」などとされている。

 しかし、彼はもともと核武装論者であったはずである。沖縄の合意の際に、返還後の核再持ち込み密約交渉があったことは、佐藤の「密使」とされた若泉敬氏の著書の中で明らかにされている。私はこのような密約の存在は、なんら驚くに値しないことと思っている。

 民主党の岡田前外相のように、軍事問題で密約そのものの存在を追及し、暴露するなどはまったくナンセンスなことである。そうではなく、核武装の必要を知っていた佐藤が「持たず、作らず」はともかくなぜ「持ち込ませず」のような、日本を反撃力の完全な真空地帯にしてしまう愚かな宣言に走ったのか、そこが不透明で分らないと言っているのである。否、「持たず、作らず」を含め、非核三原則など自ら言い出す必要はまったくなかったはずだ。

 すべてを玉虫色にしておくのが、国家安全のための知恵である。NPTの署名から批准に至るまで、6年間もためらい続けたあのフリーハンドへの関係者のこだわりは、なぜ見捨てられ、まるで旧社会党か学生が喜ぶような単純な三原則が掲げられたのか。

 三島由紀夫が自決した報を聞いて、佐藤栄作の第一声は「狂ったか」であった。私は若い時分にそれを聞いていて、政治家が文学者の行動に理解が及ばないのは普通のことで、政治家らしい反応だと思い、深く考えることはなかった。佐藤首相を責める気持ちもなかった。責任ある立場であればそのように考えるのは当然だろうと思った。しかし、三島の「檄」を最近読み直してそうではないことに気づいた。今の時代が新しい読み方を私に教えた。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)