「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(五)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 国民上下はなべて維新後の忙殺の時間を生きていたとも思われ、狂人走れば不狂人も走るといった模様を想像します。国民国家の黎明とは言え、先生にいつか教わったように、明治前期はまだ日本人は「江戸時代」(の余韻)を生きていたのではないでしょうか。幕府のほかに皇室というものがあったんだ、というのが庶民の感覚ではないかと思います。そこへ、いきなり「神」が国から生活のレベルにまで降りてきた。

 副島伯が「愛国心を育むより自国を侮蔑に導く」といった深意はわかりませんが、その副作用というか逆作用はわかるような気がします。偉人伝を小学校から読ませよう、という運動も一概には否定しませんが、かの人が偉人かどうかはわからないではないか。坂本竜馬が偉いかどうか、誰が決めるのか。司馬遼太郎に感化されてどうだ偉いだろうと言うような大人が偉いわけがないではないか、とへそ曲がりの自分は言いたくなるのであります。

 よく引き合いに出される福沢諭吉にしてもそうである。それはお前の人物趣味だと言われれば仕方がないが、教えるということに対する過信がすぐれて保守の人にあるのではないか。私はこんなところに「硬直」の弊があると見ているのであります。偉いかどうかはジッと自分で見つめていくしかありません。今生きている人についてもそうであります。

 明治のはじめ頃は、混血でも何でもして西洋人を受容し、気に入られなければという「社会改良主義」という極端な思想が息づいたり、森有礼といったどこから見ても侮日派インテリ国際人が当路の位置に坐ったりしています。新旧混淆、清濁混淆、東西混淆のまさに狂人奔れば不狂人もまた奔るという呼吸の荒さを思います。

 大正の蠱惑的空気にも見舞われたあと、それの掃除もしなくてはならず、赤色と同時にダーウィニズムも静かに浸透しています。大衆思潮のレベルではもう十分、「神聖」一本槍というものは落剥していたので、白鳥庫吉、山田孝雄の出現というのは無理ならぬ成り行きだったように私には感じられます。平泉澄の本は読み込んだ時期がありました。中世に魂を置いてみなければ自らの姿が映せない、行動が取れない。古事記や日本書紀には「清明」はあるが、「忠魂」(君臣の足跡)は歴史のほうにあります。

 ギリシャ人は「血」の上では消滅し、祭祀は遠くに途絶えています。日本には人皇百二十五代天皇が現に居られ、祭祀は伊勢、宮中でかわりなく続いています。山田孝雄は民族の帰郷すべきところを求めた学者で、『国體の本義』は時の国家の要請に応じて書いた“道標”にすぎないと私は思っていました。あの人はたしか小学校しか出ていなかったと思います。こういう人は今は居りませんが、また次の山田孝雄は現われるのではないでしょうか。平泉澄が「それでは戦えない」と思ったとしたら、山田孝雄は「日本人が帰る故郷を示してやらなければ青年たちは死ねない」と考えたのではないでしょうか。これは自分の想像です。方向は違いますが、平泉澄と両輪のように思えます。

 民族と国家について心配しているなら自分が真剣に考えたところを率直に語らなくてはならない、といわれる西尾先生は「皇室のことは語ってはならない」という日本会議に連なる人々とご自身を対比されました。けれど、私は別の見方をしています。

 「硬直した皇室崇拝をいう保守」と「西尾先生」という対比は成り立たないように思いました。日本会議の人たちのいわゆる「天皇や皇室については語ってはならない」という態度はどこから出ているのか。意外と平俗な心のはたらきから来ているのではないかというのが私の推測です。硬直はしているが山田孝雄に似ていない。

 なぜか、この種の人たちは同じ態度になる。「皇室を語ることは憚られる」。かつて美濃部達吉が天皇機関説を唱えて学府を騒がしたとき沈黙を守った学者がたくさんいました。ほとんど黙して語らなかった上杉慎吉もその一人だと思われますが、「天皇は神聖にして侵すべからず」というあの一言を残しています。

 ただ上杉には自分はこれだという節度と自制が感じられる。黙して語らないのも一つの態度です。けれど、先生が指摘する日本会議派といわれる人たちのそれは、節度や爽やかさという感じがない。むしろ一種の臭気さえある。この臭気がどこから来るのかと考える。これではないかと思い当たるのは「君側の臣」の自尊心であります。

 「天皇」「皇室」については常に多弁でいる人たちである。そして統一見解のような空気を有している。けれど、いついかなるときも「君側」について物を言っているように聞こえる。「君側の臣」と「一般の日本人」とがある。一般の日本人には教えてやらねばならない。知らず知らずそのように振る舞っているのかもしれない。倨傲がわからないのかもしれない。

文責:伊藤 悠可

つづく

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(四)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 天武天皇以降、対外緊張感は薄れこの列島には何と明治維新まで「国際社会」はなかったというお話に目が覚める。この視点を携えること極めて重要だとしみじみ思う。

 西洋との距離もはかりながらの「沈黙とためらい」の長い時代のなかで、例外的宰相は豊臣秀吉でしょうか。先生も『国民の歴史』で一項をさいておられたが、秀吉だけは他の絶対権力者と類を同じくしない。突き抜けた力の信奉者。けれど、キリシタンには迷いなくシャットアウトしてまったく迷悟の尾を引いていない。

 「国際社会」という頭痛を伴う感覚はもっていないが、「世界」は標的として持っていた人物として断然面白い。秀吉没後、清の乾隆帝は「秀吉が若し存命であったなら支那も取られていたことであろう」と『通鑑項目明紀』に親しく述懐したとされています。湿気がなく単純で力に対して明朗な信じ方をしている秀吉のスケールは群を抜いている。あらためて秀吉という存在に興味を抱きます。

 明治政府は「古代神話」に求めた。平泉澄は「中世」に求めた。

 講義の最後のこのお話こそ、聴講した人たちが一番深く考えさせられ、かつ一番自分の言葉にして語るとすれば、どこか理路が漠然としてしまいそうな重要な問題であると感じました。前もって認識をただせば、「皇室を語ることは憚られる」という日本会議派は、山田孝雄の古代神話への信奉者に似ているが、実は非なるものであって西尾先生と対比することはまちがいという気がしてくる。私には平泉澄の冷静な時代認識と、山田孝雄の存在論的な帰郷意識とは両方に魅力が感じられます。順を追って書いてみます。

 明治天皇は自らを「人格」ではなく「神格」として振る舞われていたところがあります。ある事を片付ける必要があって、侍従が「このことは皇后陛下にご相談にならなくてもよろしいか?」と問うたところ、明治天皇は「皇后は神ではない」(別に訊ねる必要はない)と答えたエピソードがあります。明治帝には「再びの開闢」や「神武東征」ほどの意識があったのかもしれません。

 明治四年に官幣大社・国幣大社といった社格制度を用いて、律令下の延喜式を呼び戻しています。それに先立ち神仏分離、廃仏毀釈の号令がかかっていましたから、いわゆる過激でヒステリックな破壊活動と無茶苦茶な合祀が全国に広がります。(やがて南方熊楠・柳田国男たちが憂慮し抗議運動を起こしています)

 明治期にはこうした古代(神話)回帰が押し出されていましたが、頭を冷やせと風潮を戒める人も出てきました。副島種臣伯爵などもその一人です。

 明治のはじめには大教院というものを設置して、「古事記を以て国家の教典とする」という論が沸き上がりました。副島種臣はこれを許さず、この教育はオジャンになったことがあります。大教院の幹部は「国史の知識を普及することが愛国心を育む」という考えでしたが、副島種臣は「国史の知識を一般に広げるなどという魂胆は愛国心を起こさせるよりは自国を侮蔑に導く害のほうが大きい」と言っています。

 ちょうど、ギリシャ人がナポレオンに蹂躪されたヨーロッパの改造に、自国復興の義軍をつくろうとしたようなもので、「今の日本人に日本の古事記を読ませたなら、この世界改造の先頭に立ってどのような使命を有し、如何なる勤めをしなければならないかということに思い至るとでも考えているのだろうか。愚かなことだ」というようなことを言っています。このことは長井衍氏の回想で読みました。

 もっとも副島種臣は国史や古事記を軽んじていたわけではなく、「古事記や書紀を学校において修身的に利用して小さな愛国心でも起こそう」という浅はかさを批判したようです。徹底して記紀などの神典はただ帝室のためにあるもので、国民が座右にして感動させられるような書物として作られたものではないというわけです。

文責:伊藤 悠可

つづく

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(三)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 講義で感じたこと気付かされたこと
 
 歴史家・歴史学者の多くはいつも列島内で重箱をつつくような詮索主義である。先生が講義で触れられたが「俯瞰の眼識」が欠けている。狭く近視眼的で細かい事蹟や国内のせめぎ合いなどの足跡だけは調べあげるが、時代の意志が見えてこない。生きた人間が出てこない。先生の『半鎖国状態で深呼吸している』という表現で、初めて臍落ちするようなことが歴史にはもっとあるはずです。

 それにしても、平安宮の元旦「朝儀」の荘厳な絵巻物のような光景がすばらしい。しかし「礼」がまつりごとそのものであると教えられれば、儀式の見方は一変する。限りなく格式は高く、規模は盛大でかつ雅びで、式次第は一寸の狂いもない厳粛等をもって「王」の極大の権威を内外にとどろかせる。その頃(特に遡って天武帝の頃など)心地のよい緊張感はこの列島にあったのだろう。現代はその意味でもっとも不幸な時代に相当するという気さえする。日本人は息の詰まる平成を生かされている。当時はさぞ初日の晴れやかな空気が列島に満ち満ちていたという感じがしてきます。

 歴史というものは「他」に対する「我」が深く考えられるようになってはじめて湧いてくる。編纂しようという意識がめばえる。朝儀に最澄や空海までも参列していることを想い合わせると圧巻であります。そこで思い出しますが、帰朝した空海がなぜ二年間も筑紫の地で足止めさせられたのか、最澄はさっさと上京が許されたが、なぜ空海は警戒されたのだろうか、と考えたことがありました。

 推古朝あたりから、朝鮮との軍事的交渉がおもくるしいものになっている。この朝儀の頃(もう少し前の時代でしょうか)、唐が侵攻してくるという切迫感は相当なもので、九州、四国、近畿まで要塞が築かれていたことでわかります。最澄は官製的秀才だが空海は異端的鬼才で、唐から何を持ち込んでくるかわからない。

 得たいが知れないという評価があって信任されなかったのではないか。最澄は秀才だったが警戒される人ではなかった。空海は密教の奥義を授けられ帰朝したが、反面怪しい。国を根本から揺さぶる「宗教」の怖さは骨身に滲みている。その後の空海の超人的伝説的な活躍は知られている通りですが、いずれにしろ対外緊張度の高さという点からこの話を思い出します。

 “赤ちゃんの即位”のところでは自問自答させられます。無理やりにでも必死に、どんなことをしても皇統護持をなさしめる。このことを考えると、『保守の怒り』で主張された平田文昭さんの持論「統帥権をもつ国家元首」としての天皇。それは排除される。平田さんは明治大帝をイメージされているかもしれない。二百年、三百年後、さらに五百年後を思ったとき困難である。方今直下の危機はそんな間延びした話ではないと言われるだろう。が、先生の言われた「京都へのお帰り」が正しい道筋ではないだろうか、と思ったりする。

 王がなくなると民族はなくなる――日本国民の所業を見ていると、日本民族など真っ先に地上から消え失せてしまう。“赤ちゃんの即位”ほどのぎりぎりの切迫感をどれだけの今の日本人が感じられるだろう。

 「道鏡」「将門」「尊氏」「義満」など、いずれも皇位を脅かし皇位を奪ってしまうというところまでいった危機である。だが、現代のような「皇室そのもの」を無くしてしまえ、というような強制的水平化の空気はなかった。今なおかまびすしい“女帝”容認論議を押し進める保守の人たちがいる。風潮に乗じて道鏡的なものが生まれるスキはないのか、その油断はないのか、物言う人はもっとまじめに考えてもらいたいと思うことがある。

文責:伊藤 悠可

つづく

日本をここまで壊したのは誰か(五)

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日本をここまで壊したのは誰か
書評:花田紀凱(『WiLL』編集長)

自国への痛憤、警告の書

 昭和23年、中学一年生の時、授業で偉人と思う人間をあげよと言われ、西尾少年は豊臣秀吉をあげた。

 先生は恐ろしい表情でニラみつけ、秀吉は何人もの女性をものにした独裁者、大嫌いだと全否定した。

 その日の西尾少年は先生を断乎(だんこ)許さないと誓ってこう書く。日記は毎日先生に提出することになっていたから当然、先生が読むことを見越して書いたのである。

僕は先生がどうだろうとも、僕は僕の信じる道を押し通した。(中略)封建時代の人間は、封建主義が正しいのだと思い込んでいるのだから、そのときの偉人なら偉人としておいても良いと思う。民主主義でも現在は最上主義とされていても、あとにはどうなるか。それは誰にだって見当のつくものではない

 今の言葉で言えば、現在の基準で過去を裁けないということだろう。

 その同じ年、東京裁判の判決が下る。西尾少年は、新聞記事を切り抜いて貼(は)ったノートに被告の名前、量刑を全(すべ)て書き写し、こう書いた。

日本が勝っていたらマッカーサーが絞首刑になるんだ

 中学一年にしてこの言。栴檀(せんだん)ハ双葉ヨリ芳(かんば)シ、とはまさにこのことだろう。

 それから60年たって、今、西尾さんは日本という国が心配でならない。

 国家として自立自存とは逆の方向へ向かい、明確な国家像もなく、茫々(ぼうぼう)たる海洋をひたすら漂流している幽霊船のような日本が、我慢ならない。

 たとえばトヨタ・バッシング。

 西尾さんは、これを「アメリカの日本に対する軍事力を使わない軍事行動」と見る。

 たとえば外国人参政権。

在日韓国朝鮮人に地方参政権を認めることは、政治的破壊工作の手段を彼らの手に渡すことにもほぼ等しい

 こんな簡単なことさえわからない日本の政治家、財界人。

言論のむなしさと無力を痛切に実感

しているが、それでも

自分と自分の国の歴史を見捨てる気にはなれない

西尾さんの、これは日本に対する痛憤、警告の書である。

産経新聞6月20日より

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(二)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

6.義満の強大無比
  こうした皇位継承の型が続けば、おのずと天皇は「象徴天皇」に向かう。「摂政」が不可欠になる。室町・足利義満は存在自体が皇位をおびやかすまで権力が強大だった。病死しなければ彼に天皇の位は奪われていた。諡号まで用意されていたのだから。「偶然」がはたらいて皇位が守られた例である。

 [閑話休題]皇室の危機について思い返す。誰もが知っている皇室の危機、皇位継承の危機を招いた主役は「道鏡」「将門」「尊氏」「義満」であるが、坦々塾の畏友・平田文昭さんなどはたしか新井白石の『余論』を引いて、足利尊氏を古い固定観念で逆賊と決めつけることを排している(『保守の怒り』)。楠公は四百年悪逆の徒の烙印を押されてきた。楠公を忠臣とするのは光國などの顯彰の影響も大きいが、主として昭和初期の急進的国家神道イデオロギーの産物とみる人も出てきた。私にとっては新しい人々である。高山樗牛は菅公をボロくそに言っている。保守や日本主義もこうしてみると、やはり常に揺れ動いているとみるべきか。

7.王がいなくなると民族がなくなる
  満洲、そしてモンゴルの興亡をみる。「王と民族」の消失劇である。オイラードのように男系でない民族は王が続かない。王がなくなると民族がなくなる。前出の赤ちゃんの即位の意味の重さをあらためて思う。

8.もう一つの「ためらい」
  明治、大正、昭和に出てきたもう一つの「ためらい」。明治政府は皇室皇統の原点を「古代神話」に求めた。それに対する「ためらい」はその以前から、水戸学からも発せられていた。神代と人代とは明確に分けるという考えで、さかのぼると山崎闇斎や新井白石の立場も同じである。明治の硬直した古代神話重視が、津田左右吉や西村真次ら解明主義者の台頭を招いたとも言える。萩野貞樹先生から言わせると幼稚な科学主義者の主張にすぎない。しかし、次項に挙げた理由からも神勅派へのためらいは道理でもあった。解明主義派、神勅派、そして神勅ためらい派ともいうべき人たちが現われる。解明主義派の勃興に対する昭和初期からの「国体論」(白鳥庫吉、山田孝雄)については、「『国體の本義』の本質」を以前、先生の坦々塾講義で教わっている。

9.「それでは戦えない」という平泉澄の姿勢
  平泉澄は神官の家に育ちながら、古代神話信奉の道を歩かなかった。ヨーロッパをよく見てきた人で、彼我の中世に精神支柱を求めた。クローチェにも会っている。ホイジンガの「秋」(『中世の秋』)も読んだのだろう。したがって平泉は日本の歴史といえども国際社会の真っ只中に生きているという感覚を失っていないし、唯ひたすら神話を奉じるといった国体堅持派の主張では「わが国は戦えない」と考えた日本人の一人である。

10.現代の図式にあてはめると
  先生は山田孝雄、そして平泉澄を現代に照らしてみられた。皇室皇統にいくつもの問題が兆している。この日のお話の中にも皇統の曲がり角といえる歴史的局面は数多くあった。例えば保守統括を自認する日本会議は「ありがたや天皇崇拝」で固まり、また固めようとしている人があまりに多い。皇室に関することは基本的に発言してはならないという硬直した姿勢。これは何なのか。とりわけ図式化すれば「山田孝雄」と「平泉澄」は、今の「日本会議」と「西尾幹二」に対比することができるのではないかと、先生は相違を明らかにされた。
 

文責:伊藤 悠可

つづく

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(一)

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(当日の手書き資料、西尾メモ)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 3月6日(土)の坦々塾に出られなかった私に、西尾先生のご講義(音声記録)を聴く機会を与えてくださいました。「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」という題には大いに惹かれ、予告に「日本列島は半鎖国をしながら深呼吸をしてきた」とありましたから、『江戸のダイナミズム』に通じる先生の“眺め方”に興味は尽きません。期待どおりじっくりと先生の文明史的な日本観をうかがうことができました。

 以下は、私自身がご講義のここが急所だと感じて書き留めたメモと先生にご送付した自由感想文です。先生が語り、刺激されたら自分の考えを走り書きするといった断片で、起承転結は欠いています。

 現実に起こっている物事の底面にふれ、虚と実、本流と支流を教えて下さる先生の仕事にハッとさせられますが、それとは異なる仕事、目前の対象からすっと離れて眺めた後、文明や民族を思惟される世界に静かな興奮が沸いてきます。

 一時間二十分、漏らさず拝聴しました。日本民族は童心が過ぎるのでしょうか。それとも単細胞で運命の舟にまかせて、小さな田園と山村で四季を生きることが何より好きなのでしょうか。外界に接触し緊張するときは過呼吸に陥り、生命も簡単に捨てますが、本来は「できるなら放っておいてほしい」という内向きの世界遮断を感じます。「沈黙とためらい」を楽しく思考致しました。
 
 私が思った先生のご講義の急所

1.「礼」は政治そのもの
  新年の「恭賀の儀」というもの。それは単なる豪華絢爛なお祝いごとではなかった。国家意志の表現であった。「礼」は「政治」そのものであり「政治」が「礼」であった。こういう捉え方があるのかと驚く。内外の賓を迎え、文武百官、律令官人といった群臣が朝庭を埋めつくして色の波となる。唐における朝賀も荘厳だが、平安宮大内裏の元旦も引けをとらない。「礼の張り合いをしていた」という先生の説明がすっと入ってくる。

2.苦難を経たのちの頂上の安定期
  権力と権威を集中していたのは天武天皇。7世紀後期に「潜龍体元存雷応期の徳を以ち給ふ」と仰ぎ見られた帝。古事記を阿礼に口授した人皇天四十代天皇であり、四世紀以降の対外緊張と進出を経て、壬申の乱を戦い抜き、天皇を頂点とする中央集権的支配体制を確立している。苦難を乗り越えて迎えた“頂上”の御代。先生の説明にあったように帝室のターニングポイントに当たる。「大王(おおきみ)は神にしませば」の歌は天武天皇を讃えたものとされる。偉大な天皇を仰いだ幸福な時代。

3.「国際社会」の喪失
  天武天皇以降、この対外緊張感は希薄になってくる。唐の崩壊は決定的で、大がかりな元旦儀礼は完全になくなる。ふつう、彼我の緊張がなくなれば周囲を気にせずに元旦から大宴会を開いて楽しむのでは、と考えるのはあさはかな現代人の頭か。やはり先生のいわれる「礼」は「政治」そのものということになる。国際社会に生きているという感覚の喪失がはじまる。

4.沈黙とためらい
  西洋が近づいてくるのが15世紀から16世紀。近づいてきたから開く、積極交渉に出るというものではないので先生のいう「沈黙とためらい」が続いていくことになる。対外関係・対外意識というものが、こちら側を変える。(こういう認識が今に至るまでわが国の歴史家には乏しい)。

5.皇位継承は苦肉の策の連続
  天皇はどうして続いてきたか。「偶然」と「必然」の両方を認めなければならない。万策尽きた後の一策。女性天皇もその一つである。その恃みとする最後の一策がまたつけ込まれる。例外的継承の失敗(道鏡事件)を学んで、「幼帝」という一策を立てる。柔軟構造にする。さらに(天皇が)世を乱すということがあっても出家すればセーフという収め方まで認める。泣き叫ぶ赤ちゃんにお菓子(干し柿など)を与えての「即位の礼」のお話を初めてうかがう。これほどの綱渡りなのか。とても意味深く興味深い。

文責:伊藤 悠可

つづく

第17回坦々塾勉強会講演要旨(五)

平成22年3月6日(土) 第17回坦々塾勉強会 報告文

講師 西尾幹二先生
演題 「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」
浅野正美文責

 講義の冒頭、続漢書に描写されている九世紀唐の元会儀礼(新年元旦の宮中儀礼)の部分が西尾先生によって読み上げられた。続けて「日本古代朝政の研究」(井上亘著)から、我が国の同様の祭祀である、平安宮大内裏における元旦儀礼について書かれた部分が朗読された。当時の日本は中国に対抗して礼の競争をしていた。政治は形式化し、律令国家にあっては形式が政治そのものであった。礼は政治であるとともに戦いでもあり、諸国から使者を宴に招待する国家意思の表明であった。この時代の両国政治が、パノラマ化、劇場化していたことを表している。

 この時代の古代日本と東アジアを振り返ると、4世紀に朝鮮出兵しミナマに日本府が置かれる。百済と新羅を助けて高句麗と戦った。5世紀、倭の王が宋に使者を送り、世紀を通じてこれは10回におよぶ完全な朝貢国であった。6世紀589年、隋の統一がなり、7世紀大化の改新が成り、白村江の戦いでは唐・新羅連合軍に敗れ国内に大きな衝撃が走る。唐の攻撃を避けるために、都を近江に移すなど、国際社会との張り合いが必要な時代であった。

 天武天皇は中国皇帝にもっとも近い権力を掌握し、その存在は神そのものであった。壬申の乱を制して即位すると、中央豪族の政治干渉を廃し、大臣も置かず専制君主制を確立した。こうして唐に倣った立派な儀式を行う体制が整ったが、それは東アジアに我が国の国家意思を表明し、大国を標榜するためにも不可欠な行為であった。当時の日本は紛れもなく国際社会の一員であった。にもかかわらず、やがてこうした国家権力を目に見える形で表現する必要性を失っていく。

 894年、遣唐使を廃止、907年唐が崩壊する。これは東アジア社会にとって劇的な出来事であった。これ以降国家間の緊張を失い、大国たる威儀を誇る必要がなくなっていく。

 10世紀前半、我が国は事実上の半鎖国状態となり、王権は小さな世界に変化し、中国文明からも離脱する。これは中国文明からの離脱であり中国を中心とする東アジア世界を不要とする流れであった。これ以降、我が国は深く静かに国風文化を熟成させていくという見方もできるが、それは、この間の我が国が国家の体をなしていなかったということでもある。

 平安から明治維新にいたる10世紀前半から19世紀は、国際社会のない列島文化であった。日本の歴史、文化を考える上でこのことは非常に大きな意味を持っている。元寇、秀吉の朝鮮出兵も、国際社会がないゆえの事件ということもできるのではないか。国家間の緊張と軋轢のない、また必要としない時代であった。

 我が国の歴史において、平安末期から応仁の乱にいたる時間は、歴史のブラックホールであった。天皇家は武家と手をつなぎ、宗教的権威となっていった。

 我が国は大化の改新と明治維新において、外国から文明の原理を輸入した。古代中国と近代西洋はこの国を大きく揺さぶった。

 日本語には千年に近い沈黙の歴史があった。漢字が入ってきてから、それを受容するまで800年の時間を要している。これは我が国が無知蒙昧だったせいではない。新しく入ってくるものに対するためらいと、ひそかな抵抗がそうさせた。15世紀末から16世紀には西洋と触れ合うが、19世紀までためらい続け簡単には近づけなかった。長い沈黙とためらい、それが列島の文化であった。半鎖国状態のままに深呼吸している文明であった。二つの文化原理の輸入によって革命的な変動が起こったが、長い時間をかけて違うものに変えてしまった。

 こうした歴史を経験しながらも、天皇家という歴史の連続性だけはつながっている。なぜ天皇家は生き延びたのか。

 道鏡危機のとき女帝の危うさが刻印された。それ以降幼帝が即位するということが起きた。皇統断絶の危機に対しては、女帝よりも幼帝を立てた。幼帝が即位すると摂政の家柄が必要となり、後の藤原家の台頭を招く。幼帝が大嘗祭をお勤めになる際には、摂政が抱きかかえて殿中を回り、むずかるときには当時のお菓子であった干し柿をしゃぶらせたという記録がある。これはとりも直さず天皇が権力から離れて宗教的権威になっていったことをあらわしている。なぜ、そんなことが可能であったのか。

 武家と天皇家は持ちつ持たれつの関係にあった。この時代の権力構造を見ると天皇、武家、寺社、公家という四つの勢力があり、武家の権力だけでは国は治まらなかった。幼帝が成り立つということは権威と権力が分離していることを表す。国際社会の中で、東アジアの嵐の中で張り合っていた儀礼は国の威信をかけた戦争であった。唐が崩壊した10世紀以降、その必要がなくなった。幼帝の存在、権・権分離という二重構造が許されたのは、鎖国に関係があるのではないだろうか。

 西洋も大陸も戦乱につぐ戦乱の歴史であった。それは強力な国王が国家を統一し、強力な国王と国王が戦うものである。戦争に敗北するということは王権の消滅であるとともに、民族の消滅でもあった。仮に我が国がこうした国際社会の争いに巻き込まれていれば、幼帝を戴いて戦うことはできず、武家から王を出さざるを得なかっただろう。ところが我が国は鎖国状態にあったために、外国との戦争には巻き込まれなかった。国内では激しい内戦が続いたが、天皇家はそうした争いの外にあって、信仰と権威によって武家に対して官位を授けていた。武家はこの官位を後ろ盾に戦を戦った。天皇家に対する信仰、鎖国という必然があったために天皇家は残ったのであろう。

 また、足利義満による皇統簒奪の企みもあったが、彼が若くして病死するという偶然にも恵まれた。このように天皇家が残った所以には偶然と必然があったにせよ、この間わが国が半鎖国状態にあったということが何よりも幸いした。国際社会の軋轢に巻き込まれていれば、強い国王の下で外国の軍隊と戦わなければならなかったであろう。常に強い天皇が即位しているとは限らず、その場合武家の棟梁が王位について戦争をした可能性もある。 
 
 天壌無窮の神勅、天照大神から天孫降臨の御子孫としての天皇の御位を繋ぎたもうた、という日本人の神話への信仰へのためらいは、すでに大正、昭和の知識人も持っていた。戦後の歴史思想と同じ思想が、すでに戦前に出ていた。明治国家は支配の正統の根拠を、古代日本神話に置いた硬直史観で押し通した。戦前の日本は西洋思想との葛藤にあった。合理主義、開明主義、科学主義に基づく神話解釈はそうした明治国家の崩壊を意味する。神話に根拠をおいた歴史観に基づいて「国体の本義」は書かれたが、昭和になると国民が忠誠を尽くすに値する道徳観、倫理観を高める意識を強めない限り戦争は戦えないという考えの下、国体に関する激しい論争が沸き起こった。

 今日の講義は序論である。次回以降この国体論の出現を巡る論及を深めていきたい。

文責:浅野正美

第17回坦々塾勉強会講演要旨(四)

「ナホトカ日本人墓地墓参の余韻-抑留の思想戦と知識人の妄言」  (2)粕谷哲夫

 60万人の日本将兵を不法に拘束しシベリアの移送し、捕虜として自由を奪い過酷な強制労働を課し、さらに参謀、憲兵、通訳などは国際ブルジョワジー援助の罪など戦時刑事犯人に仕立て20~25年の重刑を課し囚人とした、シベリア抑留という大罪は、スターリンないしはスターリニズムの責任である。これは議論の余地はない。

 事実、スターリンの死によって、遅ればせながら抑留者は日本に帰還している。また、スターリンはソ連共産党にとって正式に否定されたし、赤の広場から遺骸も撤去されている。ゴルバチョフは、シベリア抑留を遺憾とし、エリツインは謝罪している。さらにペレストロイカ以後の情報公開で、シベリア抑留の悪夢の内情が、ソ連側資料で、徐々に知られるようになってきた。いかに弁護しようともシベリア抑留にソ連にいささかの正当性はない。むしろこのことは、この事件に心得のある日本人より、ロシア人自身が認めているところである。

 問題は、このような残虐非道、暴虐のスターリンと共産主義を賛美、崇拝したインテリ階層がいかに多かったかである。同調、理解する幅広い支持者が、日本の知識社会を支配したということである。スターリンの大粛清は、細部はともかく、子供の私でもある程度匂いは嗅いでいたし、共産主義とスターリンに心酔してソ連に行っていた日本共産党員すらも多数、スターリンの毒牙の犠牲となった。そんな事実は 当時の共産党員なら誰でも知っていたはずである。

アンドレ・ジイド 『ソヴィエト紀行』から

 アンドレ・ジイドは、1936年にソ連訪問した。僚友ゴーリキイの病篤しという報に接して、モスクワにジイドが到着した翌日ゴーリキイの生涯は終った。ジイドは「赤い広場」での葬儀に出席する。その後、二ヶ月間、ソ連各地を訪問し、観察を記録したのが、『ソヴィエト紀行』である。

 ジイドが書いた、革命後のソ連の実情の描写は、国内外に異常な反響を呼んだ。当時世界の知識社会をほぼ席巻していた、革命礼讃の政治家、学者、文化人、ジャーナリストの、あるものを当惑させ、あるものを震撼させた。そしてあるものは激しいジイドに批判の矢を向けた。

 『ソヴィエト紀行』を読むと、ジイドは決してソ連で行われている諸悪や誤謬を暴露するために行ったのではない。ジイド自身、ロシア革命が人類のユートピアに至るファイナルアンサーであると心から信じており、その成功をこころから祈っていたのである。今流にいえば、共産主義革命にコミットしていたのである。

 ジイド自身の言葉をいくつか引用しよう。

ソ連は一つの「人類の模範」であり、「先導者」であり、われわれのユートピアが現実のものになりつつある国がであった。

 「われわれのユートピアが現実のものとなりつつある国」としてソ連に憧れていた。ジイドにとって、彼らの大きな成功は、われわれの心の中にさらに多くの要求を注いだのである。

 

すでに最も難事とされていたことが成就していた。そして我々は、すべての悩める民衆の名においてソビエットとともに契った誓約の真っただ中に隠然として突き進んでいったのである。

 アンドレ・ジイドはロシア的なものをこよなく愛し、ロシアの文士たちと友好を温め、ロシア革命に大きな夢を膨らませていた。ところが、実際にソビエットに来てみるとどうも様子が違う。その違う様子を少し長いが、そのまま引用する。

あふれるような人間愛、少なくとも正義を欲する烈しい欲求が、人々の心を満たしてくれればと、そのことを私たちはどんなに希ったであろう。が、一度革命が成就し、勝利を得、さらに革命の業が固定してから、そうしたものが問題にならなくなった。そうした革命の先駆者たちの心を動かしはげましていた感情は、次第に五月蠅くなり、厄介者となってしまった。あたかも最早役に立たなくなったもののように。

(中略)

今日ソビエットで要求されるものは、すべてを受諾する精神であり、順応主義 (コンフォルミズム) である。そして人々に要求されているものは、ソビエットでなされているすべてのものに対する賛同である。のみならず、為政者たちが獲得しようとして努めているものは、この賛同が諦めによって得られた受動的なものではなく、自発的で真摯なものであり、さらにそれが熱狂的なもののように望まれているのである。そして、何よりも脅威に値することは、この要求が達せられていることである。

また他方、ほんのわずかな抗議や批判さへも最悪の懲罰を受けているし、それに、すぐに窒息させられているのである。

私は思う。今日いかなる国においても、たとえヒットラーのドイツにおいてすら、人間がこのようにまで圧迫され、恐怖におびえて、従属させられている国があるだろうか。

 スターリンおよびスターリニズムの人権侵害、人民抑圧は、悪名高きヒットラーのそれをしのぐ!とすら言っているのである。当時とすれば驚くべき発言であると見なければなるまい。

 ジイドは、万が一にもその共産主義の理想が幻想に終わるとすれば、それにコミットした自分たちの責任はきわめて大きい。しかし、ロシア革命の希望まだ捨てない。

 ソ連の現実に完全に絶望して、フランスに帰国したのなら、ジイドはこの『ソビエット旅行記』など書くことなく沈黙を守ったであろうとすら言う。希望があるから、ソ連に誤謬を改めてほしいという、祈るような気持ちで期待をつないだのである。

 この辺の事情は、訳者の小松清の、ジイドは誠実な人で、黒いものを白いということは言えない誠実な人である。いまのスターリンの誤りは誤りとして、いずれ改善するだろう。自分もジイドのようにロシア革命の完全成功を祈っている・…というホンネを披歴している。

 ロシア革命の完全成功とそこからのユートピア実現を祈った、フランス文学者はじめ、われわれの青春時代の文学全集に名を連ねる学者や知識人に共通のものであろう。桑原武夫などその最たるものである。それは後述する。

 ジイドの観察した内容は、ソ連時代のロシアから北朝鮮他共産国に、そのまま残り続けた。ジイド批判を得意げに書いた、宮本百合子はそれのンの崩壊をどう弁明するのか? シベリア抑留も彼らの信じたものの、典型的な被害例である。

ジョージ・オーウエル 『動物農園』の序文

 スターリンとスターリニズムの内情に警告を発したもう一人のジョージ・オーウエルを見てこう。

 彼が 『動物農園』の序文で述べた文章は、ジイドから遅れること約十年、1945年ごろのイギリスの、知的空間を支配していた共産主義幻想を的確に描写したものである。そのようなものは早晩、消滅するであろうと、鋭いメスを入れて渓谷としている。オーウエルはジイドのように共産主義への期待も希望も抱くことはまったくない。

Orwell’s Preface to Animal Farm の要点

 1945年、無批判なソ連賛美は、イギリス国民の常識になっている。
 ほとんどの国民はこの「常識」に基づいて、行動している。
 ソ連邦批判の文章や、ソ連の嫌がる真実の暴露本は、印刷してもらえない。
 ソ連批判は許されないのに、英国を批判するのは当たり前のこととして、自由なのである。
 このソ連に対する寛大さは、決して圧力団体によって強制されたものでなく、イギリス人の内発的なものである。
 1941年以来、イギリスの知識人が、無批判にソ連の政治宣伝受け入れるという、卑屈な態度は驚くばかりでありだ。
 現在のイギリスのソ連崇拝熱は、西欧自由主義の伝統が全般的に衰弱したことの一つの現れである。
 ソ連への無批判の忠誠こそが正しく、ソ連の利益になる事なら検閲はおろか、故意の歴史の歪曲も大目に見るしまつである。
 このような態度は、ロシア礼讃以上に重大なことである。
 ロシア礼讃の流行は長くは続くまい。
 おそらく動物農園が出版される頃には、私の見方は、広く社会に認められるのではないか。
 400年間のわれわれの文明は、思想と言論の自由のない体制を認めない。われわれの文明はこの考えの上に築かれたものである。
 わたしは、ソ連の体制は基本的に「悪」であると、この10年間信じてきた。
 たとえ戦争でソ連が同盟国であっても、わたしのこの信念は変わらない。
 ミルトンかいみじくも言った「古くからの自由の よく知られた 習わしによって」のように。「古くからの」を強調するのは、知的自由が深く伝統に根ざすものであるからである。これが否定されれば、西欧文明は存在さえ危うい。
 イギリスには、あれだけ雄弁な平和主義・非戦論者がいながら、ソ連の軍国主義賛美に対して抗議の声は聞かれない。
 イギリスの戦争は大罪であるが、ソ連には自衛権があるからソ連の戦争は問題ないと考えているらしい。そのような考えは、イギリスよりソビエット社会主義共和国連邦のほうに愛国心を抱いている大多数の知識人、その彼らの臆病な欲望のもたらすものである。
 イギリスの知識人が、かくも臆病で不正実を自己正当化する理由は、(よく聞くので)私の口からも簡単に言える。だが、そういう口実を言うのなら、少なくともナチのファシズムに対して自由を護るというなどというナンセンスは止めようではないか。
 いやしくも自由というものに意味があるとすれば、それは相手が聞きたがらないことをあえて相手に言う権利だからなのである。
 一般国民は、知識人とは違って、いまでも、漠然とではあるが、そのような考えで、行動しているのである。
 自由を恐れているのは自由主義者たちであり、知性にドロを塗りたがるのは、知識人自身である。というのがわが国の状況である。
 私がこの序文を書いたのは、このことをイギリス国民に注目してもらいたいからである。

 この文章の「1945年のイギリス」を「2010年の日本」に置き換え、「ソ連」の代わりに「◎◎」を入れ替えても、そのまま通用する。

 20世紀の歴史は、ジイドのソ連観察もオーウエルのソ連批判もまことに正しかったことを証明されている。この事実を受け入れたくない人は、想像よりはるかに多く、この歴史に目をつむって死んでいった著名人の1945年当時の考えで書かれた「名著」の多くは、現在でも聖書として、学界、思想界には脈々と生きている。共産主義の本山ではすでに廃棄されたカビだらけの思想も・・・・。

 ジイドもオーウエルの観察、警告はシベリア抑留と無関係ではない。それどころか、シベリア抑留の90%以上同じ文脈の中にある。

第17回坦々塾勉強会講演要旨(三)

 去る6月5日に第18回坦々塾が開かれたのに、いろいろな事情でいまだに第17回(3月6日)の坦々塾勉強会の報告が遅れがちに行われているのをお詫びしなければならない。

(1) 佐藤松男氏 福田恆存の思想と私
(2) 粕谷哲夫氏 ナホトカ日本人墓地墓参の余韻
         ――抑留の思想戦と知識人の妄言
(3) 西尾幹二 「鎖国」の流れと「国体」論の出現

 以上三つが報告された。(1)と(2)は各講演者のご自身による要約文が提出され、すでに(1)はここのブログに掲示され、修了した。今日から(2)が掲載される。

 (3)は浅野正美氏が上手にまとめて下さったもので、粕谷さんの掲載が終ったら、それにつづけて提出するようにしたい。

 第17回の報告についてはもうすこし時間をいたゞきたい。

「ナホトカ日本人墓地墓参の余韻-抑留の思想戦と知識人の妄言」  (1)

粕谷哲夫

 昨年(平成21年)8月、宮崎正弘さん、高山正之さん、鵜野幸一郎さんと極東ロシア(ウラジオストック、ナホトカ)の旅をした。 その余韻はなかなか消えないどころか、ますます膨れる。

■ナホトカの哀愁

 極東ロシア、沿岸部の中心はウラジオストックである。ウラジオはソ連の極東艦隊の基地で長く外国人の立ち入りは禁止されていた。その時期には、ナホトカは極東ロシアの入口として、そして商港として重要な役割を果たしていた。日本からの旅行者はナホトカのお世話になった。

 東西冷戦の終結で、1992年にウラジオストクが対外開放されると、ロシアの極東地域への投資や開発は、ウラジオストック地域に集中して行われるようになった。極東ロシアの最大のイベントAPEC2012もウラジオストックの先端にあるルースキー島で行われる。

 韓国の現代グループのやっているウラジオストックの<ホテル現代>はまずまずの賑いを見せていたが、ナホトカの<遠東大飯店(ユンドァン)>は、建物は立派で、ナホトカ港を一望する素晴らしい立地にもかかわらず、泊り客はほぼゼロで、営業しているのかいないのかもわからない。

 いまのナホトカにはほとんど見るべきものはほとんどない。うら寂しさだけが残されている。

 ナホトカは狭い町で展望台に登ると港湾全体が見下ろせる。港には、材木輸出船が接岸していた。ナホトカはこの湾を囲む約15kmの湾岸道路が走り、そこから内陸に向かう道路に沿って住宅が展開する構造である。

 湾岸道路から丘側にゴルヤナ通りを登っていくとナホトカの日本人墓地があるはずである。ガイドはこの辺に間違いないというが、墓地はなかなか確認できない。

 在ウラジオストック日本領事館のHPによると、ナホトカの日本人墓地について、「ナホトカ市の日本人墓地(同市ナゴルナヤ通り)では、2004年6月から8月まで4回に亘り厚生労働省が同地にて遺骨収集作業を実施し、524柱が収集された。2004年8月、谷畑厚生労働副大臣(当時)がナホトカ市を訪問し、厚生労働省による遺骨収集作業現場等を視察した。区画内には日本国政府により石碑が建立されている」とある。

 遺骨はすでに3年前に収拾を終わっていたためか、墓地は草ぼうぼうのまま放置され、しかもせっかく建てた石碑も台座も荒らされ、チェーンは切られ、信じられない荒廃ぶりだった。廃墟のようであった。これは一同にとって、大変なショックだった。このショックは長く尾を引いた。

 ナホトカは、シベリアに抑留されていた60数万人の日本将兵が日本へダモイ(帰還)する最終関門である。すべての生存者はここに集められた。ここから舞鶴に帰還した。ナホトカにきてもなお帰国の保証はないが、ナホトカに来られなければ、帰国は絶望的である。ナホトカはいわばダモイという漏斗の先端のような港である。

 岡崎渓子氏の 『シベリア決死行』 にはこうある。「・・・日本人捕虜たちが憧れ続けて果たせなかった夢、『ナホトカから船で日本に帰る!』。ナホトカは凍土に踏み込んだ日本人全員の希望の地であった。あのネーベルスカヤラ、ノボチェンカの墓場もなく草むらに無念の思いで眠る日本人の霊たちに私は約束したのだ。「私について来て! 必ずナホトカに行き、日本海を見せてあげる」と。死霊が相手でも約束は必ず守る・・・」。

 彼らにとってナホトカは、地獄の出口にして天国への入口であった。ナホトカは世界中で最も重要な港であり、もっとも重要な地名なのである。シベリア抑留記を読めば読むほど、単なるナホトカではない。ナホトカの意味は膨らんで哀愁は強まるばかりである。

 ナホトカの最終帰国審査で病気とされた兵士は強制的に入院させられる。ナホトカ日本人墓地はその病院で亡くなった兵士たちの墓地である。百里の道を九十九里まで来てあと一里が足りずに帰国が果たせなかった者たちの痛恨の墓である。目前に日本海を見ながら、船に乗れなかった無念の兵士たちの墓である。

■丸山国武氏のナホトカ590病院の追想

 そういう地獄を生き抜いて日本に帰ることが出来た、丸山国武という、大正15年生まれの小学校出の当時22歳の若者のナホトカでの体験記録を偶然ネットで見つけた。ナホトカの事情をよく書いているのでエッセンスを引用する。

* ナホトカには日本人捕虜を集団帰国させるための業務を扱う四分所あり、帰国審査の第一分所から、週国体木の第四分所に移される。第四分所までくれば帰国は保証される。

* 民主化されていないと判定されれば、ここには入れず、反動としてシベリア再送になる。

* この収容所の勤務員は、いわゆる日本人積極分子(アクチーブ)でソ連の虎の威を借りる狐で、威張り散らしていた。

* ナホトカに来る直前のウオロショフの零下20度以下の作業で両手両足が凍傷にかかった。シベリアでの凍傷は手足を切断しないと助からないケースもあった。それでも日本に帰りたい一心で凍傷そのものは恐れなかった。ソ連兵の監視を逃れるために戦友と戦友の間に肩を借りながら十一文半の大型編み上げ靴をはいて各分所をごまかして通過できた。

* 第一分所、第二分所と通過して第三分所に移されたとき、ソ連憲兵の調査が入った。「凍傷患者がここに紛れ込んでいる」「そんな患者を帰国させたら米国にいい口実を与えてしまう」「早く患者を探せ」「見つからなければ全員帰国取りやめだ」と拳銃をかざしながらわめきたてた。

*自分の問題で、隊全体の帰国が遅れてはいけないと思って、「凍傷患者は自分だ」と丸山は名乗った。戦友たち全員は乗船帰国が出来た。

* 自分は第一分所に逆送され、そこで診察の結果、即刻、市内の第五九〇病院に入院させられた。病院はナホトカ港から10キロ離れた丘陵地帯のふもとにある。病院といっても建物も古く、医療施設というより収容所の一種であった。

* 戦勝国である旧ソ連は何をするか、わかったものではない。国際条約を無視して殺されることもある。

* ここで死んではならない。 「死んではならない。何としても生きて祖国の土を踏まねばならない、何とか生きよう」

* 病院は人手不足で、病人にも使役が命じられた。足が痛く作業に出されたらたまらない。両足腐敗で切断の可能性もある。軍医の診察のたびに「イタイ イタイ」と大声をあげて使役や作業は回避することができた。

* その甲斐もあって、退院できた。退院後ハラを決めて、この病院で働くことを決心する。どんなに嫌な仕事でも積極的に先頭に立った。おもに死体運搬埋葬に従事した。

* 同病院では開院以来約500人の日本人捕虜が死亡したそうだが、ほとんどが栄養失調、赤痢、下痢、肺結核などで、作業中の転落事故死体もあった。

* 墓地は、病院から2キロの丘の中腹にあり、ナホトカ港がよく見えた。海が見えれば望郷の念が募るが、戦友の供養にもなると困難な埋葬作業にがんばった。

* 墓は、死んだ同僚が安らかに眠れるように、自分が実際に横になって苦しくないか試しながら、掘っていった。

* 病院で死者が出ると、かならず解剖が行われた。午前中の墓掘りを終わって、待機している自分に埋葬指示がくる。

* 死者は丸裸のまま埋葬するが、これはソ連という国の習慣なのか、捕虜だからなのか?病院長と交渉して、旧軍隊の軍衣袴を分けてもらって着せて埋葬することが出来るようになった。遺体を担架で墓地まで運ぶ途中で、よくソ連の市民と出逢ったが、われわれが泣きながら担架を担ぐのを不思議そうに見ていた。なぜ泣くのか?と聞かれた。こちらの説明には納得いかないふうだった。「死んでしまえば強制労働から解放されるので泣くことはないではないか、なにも君たちが泣くことはないではないか」ということだった。何事もなかったように彼らは知らぬ顔で通り過ぎて行くだけだった。

* 「たとえ肉体は滅びても、魂だけは日本に飛んで帰って肉親のもとに傍に行ってください」と祈るのである。

* ソ連兵にも信頼されるようになり、港まで生活物資の受け取りに行くこともできた。監視も緩んだ。「お前は若いのでソ連の女性と結婚してはどうか」と勧められたりもした。ナホトカ港には多数の日本人捕虜が岸壁や道路で作業をしていた。

* 平和なこの病院にも民主グループの一団が乗り込んできて共産主義の学習が始まったことにも嫌気がさし、許可を得て病院船・高砂丸で帰国した。昭和23年9月11日に舞鶴に到着した。

 ナホトカの哀しさは、ウラジオストックに「繁華」を奪われただけではない。60万人のあってはならない苦しみは凝結しているからである。

 丸山国武さんが遺体を運んだという日本人墓地は、われわれが墓参に訪れた、ナホトカ港を見下ろす丘の中腹にある、ナゴルナヤ通りのもののことであろう。

 ナホトカの日本人墓地はたとえ遺骨が回収された後でも、スターリンの暴虐と日本人の受けた史上最大級の不条理な恥辱を、そしてシベリアの極限状況で起きた日本人による日本人いじめを、そして日本海の身に危険のまったくない、安全な此岸で抑留者たちを当然の報いといって冷淡な視線を浴びせた、今は亡き学者や進歩的文化人の無知と誤謬を忘れてはならないのである。

 極東ロシアの旅から帰って、ナホトカを考えることは、いつの間にかシベリア抑留を考えることと同義になってしまっていた。

(つづく)
 

日本をここまで壊したのは誰か(四)

宮崎正弘氏の書評

 最新刊の拙著『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)について、宮崎正弘さんがメルマガで次の書評を寄せて下さいました。謝して掲示させていたゞきます。

西尾幹二『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)
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 『犯人』を逐一列挙せずとも西尾ファンなら明瞭である。それにしても日本をひどく劣化させ、国家の体をなさないほどに破壊し尽くした政治家とは福田赳夫、中曽根康弘、後藤田正晴、宮沢喜一、河野洋平、小泉純一郎、鳩山由紀夫、小沢一郎ら。

 財界人は奥田トヨタ元会長にして経団連会長、御手洗富士夫前会長、小林陽太郎に北城格太郎もリストにのぼる。

 いずれもささいな目先の利益のためには北京への土下座も辞さない、こざかしい商人(あきんど)らである。かれらのうちの何人かは「商売の邪魔になるから靖国神社へ行くな」と首相に進言したりもした。
 
 平林たい子は生前に中曽根康弘を評して「鉋屑(かんなくず)より軽い」と言ったか「鉋屑ほど軽い」と言ったか。

 ただしくは「鉋屑のようにぺらぺら燃える」と言ったらしい。

 青年将校として青雲の志を抱いて政治家となり「改憲」に政治生命をかけると放言した中曽根は、やがて左翼とくんで構造改革なる日本破壊をやってのけた。
 
 ともかく中曽根大勲位は中国に巧妙に脅されるや、ある日突然、靖国神社参拝をやめた元凶であり、その権力中枢にいた後藤田は日本破壊謀略まがいの政策を実践し、外国を裨益させた極左官僚である。後藤田を『カミソリ』とかなんとか、ほめるやすっぽい評論家もいるが、いい加減にしろ、と怒鳴りたくなる。

 保守陣営がともすれば誤解しがちな、高い中曽根評価を根底からひっくりかえす著者の抜刀した白刃は、河野洋平などの雑魚はともかくとして、やはり保守陣営に人気が高い小泉政治をばっさりと切って捨てる。

 西尾氏は小泉純一郎を「狂人宰相」と比喩した。保守期待の安倍晋三への評価も低かった。

 それぞれ具体的にどこが、どうおかしいかは本書に当たっていただくにして、本欄では次の紹介をしておきたい。

 「私が小泉政権時代に一番おそれていたのは、日本人の金を積んで北朝鮮の開国に突っ走るのではないかということでした。核開発の可能性を捨てない国家に巨額援助をするのではないかということでした。彼は皇室の祭祀も『行政改革』の対象と考えていた節があり、女系天皇にも平然と道を開こうとした」、まるで「デタラメな人物でした。それが強権を発動することができた。同じことがいま、小沢を中心におこっているのです」(本書97p)。
 
 「(ながい歴史を通じて培われてきた日本人の)アイデンティティが徐々に徐々に無自覚の形で失われてきている。現在の権力喪失状態、さきほどいった砂の真ん中から穴があくような、何となく活性化しない無気力状態になった。物を考えなくなってしまった。戦おうとしなくなった。自分たちのアイデンティティを本当の意味で政治権力まで高めなければ自分たちが守れなくなる、自分を守れなくなるという自覚がなくなってきた」(226p)。
 
 したがって、現代日本は「清朝末期」のごとし、と西尾氏は比喩する。
 
 そうなった時限爆弾はいつ仕掛けられたか。それはGHQが置きみやげの焚書、占領政策の洗脳により、日本人が日本人としてのアイデンティティが徐々に徐々に喪失したのである、と分析されるのである。