Will 4月号・「岸田外相・御厨座長代理の器を問う!」を読んで(2)

ゲストエッセイ:吉田圭介

 さて、岸田外相が日韓合意を発表した時、「軍の関与」という致命的な文言が入っていることに即座に反応したメディアは、産経新聞を含め余り無かったように思います。私は思わずニュース画面にスリッパを投げつけてしまいましたが(笑)。

 「10億円の拠出」や「不可逆」の文言ばかりが取り沙汰されている印象でした。

 西尾先生だけは合意発表直後からその文言の危険性を指摘していらっしゃり、我が意を得た思いが致しました。

 あの河野談話ですら「軍の関与」の範囲として(慰安所の)「設置」と「移送」という一応の限定を付けていたのに、岸田氏はそういった配慮も一切なく実にあっさりとその文言を使ったため、慰安婦問題の最大の焦点である(慰安婦の)「募集」についても軍の積極的関与を認める形となってしまったのではないかと考えます。河野談話より悪化していますね。

 河野談話をめぐる交渉の時も、韓国側は「軍の関与」という文言を入れろ、と執拗に要求したと聞きます。彼らのほうが日本の外交官よりも余程この文言の重大性を理解していると言わざるを得ません。「軍の関与」はすなわち「国家意志」と見做されるということを、岸田氏は認識しているのでしょうか。

 かつて西尾先生は「歴史認識ではドイツを見習え」という主張への反論の中で、「国家犯罪」と「犯罪国家」との違いを定義されました。戦争や内乱といった混乱状態の中で国家が犯罪行為を犯す「国家犯罪」はどこの国でも行い得る。しかし、始めから犯罪を国家意志として実行する「犯罪国家」は極めて特殊であり、ナチス・ドイツやポル・ポト政権といった稀なケースだけである、と。

 韓国にとっては、慰安婦問題がどこの国でも行い得る「国家犯罪」では困るのでしょう。なぜならその基準で測れば自国も被告に立たされ得ることになり、日本と立場が相対化してしまうからです。日本に対して絶対的上位に立つためには、日本が「犯罪国家」でなければならない、そのために必要な文言が「軍の関与」である、という韓国側の狙いを日本側がきちんと理解していれば、あれほど安易にこんな重大な文言の使用を許すはずがないと思うのですが・・・。

 優秀極まりないはずの外務官僚たちがどうして度々重大なミスを犯してしまうのか?

 彼らの思考形成や心理形成の背景にまで深く思いを巡らし、何とかその原因と改善の道を探ろうとする先生のご論考に、胸が苦しくなる思いが致しました。

 先日、先生が御欠席になった坦々塾研修会で、中村さんが宮内庁内部の破壊分子、特に外務省からの出向組の危険性をお話になったのですが、それに対して別の会員の方から「外務省には友人も居るがそこまで確信的に伝統破壊の意図を持っている者が存在するとは思えない。みんな伝統や祭祀は大事だと思ってはいるが人員も予算も不足気味なだけなのだ」という反論が出る、面白いディスカッションがありました。

 祖国に尽くす意志に満ちた外務官僚も沢山いらっしゃると思いますし、その中には西尾先生の発言を注意深く見ている人も必ずあると信じて居ります。

 最終章第七章を読むと、切迫する危機の余りの多さに焦燥感を覚えます。昨年の夏、軽井沢からお帰りになった先生をお迎えして別の会合までご一緒した折、山手線の中で「どうしてみんなこんなに呑気な顔で居られるんだろう!」と先生が大きな声で嘆かれたのを覚えていますが、私も街を歩きながら同じ思いに囚われて居ります。自由民主主義の勝利によって歴史は終焉した、などと能天気に喜んでいた時代は去り、再び全体主義的国家が(少なくとも部分的に)ヘゲモニーを握る世界が到来するのではないかとさえ思います。

 韓国の自滅は、反日という不条理極まりない病理(西尾先生の表現をお借りすれば「とぐろを巻く自家中毒」とでも言うべきでしょうか)による自業自得であって何ら同情する必要もありませんが、仮に北主導による統一朝鮮が出現した場合、日本は否応なく、自らの「力」を行使して自己の運命を切り開くことを強いられるでしょう。問題は日本人が物理的・精神的にそれに耐えられるかということになりますね。

 常識を以て現実を分析し、論理的帰結として得られた結果から目をそらさず、感情論や非思想性の穴倉に逃げ込まない。月並みではありますが、そう腹を決めて物事に臨んでいくより他にないと結論致しました次第です。

 西尾先生は既に25年前の『朝まで生テレビ』で、「統一し核武装した朝鮮半島と日本が対峙することが一番の悪夢であり、そうなった場合我が国の憲法論議は軍事が極めて強いウェイトを占めたものになってしまうかもしれない。そうなっては却って危険だから、冷静に議論ができる今のうちにきちんと軍事力を規定した憲法改正をすべきだ」と発言されています。

 向かい側に座った色川大吉氏、まだピースボートの代表だった辻元清美氏、『インサイダー』の高野孟氏らが嘲るような笑い声を上げましたが、どちらに将来を見通す知性が有ったかは言うまでもありませんね(笑)。真にフラットな視点で世界を見、勇気を持って真実を語っているのは誰なのか。「人物の真贋」の洞察の重要性もまた、今回のご論考を拝読して強く感じました。本文中の「人間がすべてなのです」というお言葉を肝に銘じたいと思います。

つづく

Will 4月号・「岸田外相・御厨座長代理の器を問う!」を読んで(1)

ゲストエッセイ
坦々塾会員・吉田圭介

 最新のご論考への感想を書かせて頂きます。若輩者が甚だ僭越ではありますが、「もっと自分の考えを言葉に出せ!」という、坦々塾会員に向けた西尾先生の年頭の檄に背中を押され、率直に自分の思う所を書いてみた次第です。先生並びに会員の皆様のご高覧を賜れば幸甚に存じます。
 
 では、ご論考の展開に従って述べさせて頂きます。

 冒頭の、沖縄で市街地を回避して不時着したオスプレイの操縦士に対する心無い非難の見苦しさは、私も痛感して居りました。そして、事あるごとに米軍を悪し様に罵りながら、それでいて米国防長官の「尖閣に安保適用」の一言には朝野を挙げて喜ぶ節操の無さも、およそ常識の有る者なら到底居たたまれないような恥ずかしさを覚えるのが当然でありましょう。

 ただ、西尾先生はそういった常識的感覚の欠如の問題よりも更に一歩奥にある日本人の感情に分析を加えていらっしゃると感じました。本文中の、「米軍に守られている自分がじつは本当の自分ではないという不本意な感情、後ろめたさが伴っていることがつねに問題です」という部分です。

 不本意な状況に置かれた者は、確かに卑屈になるものですね。それも不満や怒りを含んだ卑屈さですからタチが悪い(笑)。不貞腐れた状態、とでも言うべきでしょうか。「アメリカの庇護」を有り難がる森本敏氏的右派論客も、「どうせ中国には敵わない」と嘯く孫崎享氏的左派論客も、決して自己の言葉に確信を持った明るく前向きな表情で語ってはいないように思います。存外、両者の心の奥底にのしかかっている不安は共通のものなのかも知れませんね(笑)。

 もっとも、ホリエモンや辻元清美といった人たちの世代になると、現在の日本が「不本意」な状況に置かれているという認識も無さそうで、アメリカや中国の言う通りにすることに何の屈託も感じないかも知れず、それはそれで深刻な問題ではあるのですが・・・。

 さて、その左右問わず全ての日本国民の心を冷え込ませている不安を解消するには、自らの「力」を行使して自己の運命を切り開く、ということへの躊躇を克服するしかないのだと、これはもう論理的帰結として明らかだと思うのですが、それをハッキリと明確な言葉で主張なさっているのは例によって西尾先生だけです。

 卑屈な人間、不貞腐れた人間はイヤなことを考えなくなるものです。自己に都合の悪いことを目にするのさえ厭うようになります。私のような弱い精神の人間にはよく判ります。

「和」という美名に隠れたひ弱なご都合主義を、「無風型非思想性」と一刀両断される西尾先生の一喝に、冷や汗の出る思いが致しました。そういう、容赦なくかつ的確に相手の欠陥の核心を一言で言い表す絶妙の造語(?)も、西尾先生の文章の大きな魅力です。

 「波風が立つほうがよほど生産的で、未来を動かす」という一文にも心を打たれました。どこか暗くて、卑屈に用心深く、それでいて不貞腐れたように投げやりな感じのする当代の論客たちの姿勢に比べて、実に明るく前向きな力強さのあるお言葉だと思いました。思えば我々坦々塾会員も知らず知らずの内に世の風潮の影響を受け、少々「無風型非思想性」に浸食されていたかも知れません。反省して居ります。

 次に、御厨貴氏に関してなのですが、私は不勉強で御厨氏の著書を全く読んでおりませんので余り申し上げるべき所見も思い浮かびません。ただ、TV等での発言を見る限り戦後の国家観・歴史観から一歩も出ない思考の持ち主としか思えず、思想云々以前にその新味の無さ、退屈さから敬遠して居りました。

 御厨貴氏、内田樹氏、加藤陽子氏といった方々が、昨今、政治や歴史に関する議論の場で引っ張りだこの大人気ですが、私にはどこが魅力なのかよくわかりません。彼らの主張は丸山真男や鶴見俊輔といった方々の主張と何も変わらないもので、時代の変化に伴う新しい知見やそれに基づく新たな考察が全く感じられないからです。

 もし彼らに何か新味が有るとすれば、これまでの所謂進歩的知識人に比べ多少「分析的」なところでしょうか。例えば戦前の指導者の書き残した文章や発言、当時の新聞や雑誌の記事、選挙の結果、外交交渉の記録、各種の統計データ等々、実に様々な資料を引用して論考する点が、新しさと感じられなくもありません。

 しかしどうにも理解に苦しむのが、それら様々な資料を分析していけば、戦前の日本が(最善とは言わないまでも)それなりに必然性の有る合理的選択をしていった結果があの戦争であり今日まで日本国と日本民族が歩んできた歴史であることは解るはずなのに、彼らが相も変わらぬ戦前暗黒史観・日本悪玉史観に凝り固まっていることです。

 そして近年国民の中に湧き上がってきた、保守系言論誌からインターネット空間での草の根言論に至る「右寄りの言論」の勢いに対しては、感情論的罵倒を並べるばかり。トランプ現象に対しても、「そんなはずはない」程度のボヤキしか言っていませんね。アメリカ庶民の怒りを正確に分析していた藤井厳喜先生や、その怒りの源を「自由世界を守るために不利益に耐えてきたルサンチマン」だと喝破した西尾先生の深い人間洞察と比べて、その浅薄さ、粗雑さは驚くほどです。

 トランプ当選を伝えるNHKのドキュメンタリーの中で、今は閉鎖され廃墟と化したかつての自分の勤務先の工場を前にアメリカ人らしい筋骨隆々の大男が男泣きに泣きながら昔を懐かしむ映像を見て、「ああ、アメリカ人もこんなに苦しみ怒っていたんだなァ」と、粛然とした気持ちになったのを覚えています。

 「無風型非思想性」で目を覆われた日本人は、このようなアメリカ人の心の底に溢れていた怒りというものに気付いていなかったのですね。油断であり怠慢であったと思います。

 このような人物が皇室の在り方を決める有識者会議の実質的座長とは・・・。文中の引用文の中で御厨氏は天皇を「国の臍」と言っていますね。臍は生まれるときには必要ですがその後は不要でムダなものになります。そういうことが言いたいのでしょう。

 「主権在民」というドグマの中から一歩たりとも視野を広げようとしない硬直性。それでいて、「伝統を尊崇する民意」や「自国優先を支持する民意」は平気で無視する独善性。

 古い古い前時代の左翼と何が違うのでしょうか。

つづく

岸田外相、御厨座長代理の器を問う!」(WILL2017年4月号)を読んで

ゲストエッセー 
坦々塾塾生 仲小路昌備(なかしょうじ まさよし)

 中国・北朝鮮・韓国という“悪友”に囲まれるだけでなく、近年“悪友”の一部が我が国内にじわじわと浸み入りつつある日本国の将来への不安と憂いの思いは尽きません。

 かつて福澤諭吉は、“悪友”への深情けを国益ならず「我は心に於て亜細亜東方の“悪友”を謝絶するものなり」と突き放し、力の行使もやむなしと論陣を張り、陸奥宗光は、“悪友”の身勝手で傲慢な振る舞いに敢然と立ち向かい、結果、日清戦争を勝利に導きました。当時の福澤の時事新報の社説や陸奥の外交記録「蹇蹇録」を読むと、往時の日本人の国益を求め懸命に“悪友”や欧米列強に立ち向かった姿が眼前に見て取れます。

 その日清戦争から50年後に敗戦。一旦緩急あれば自ら義勇公に奉じることのできぬ国となり下がり、敗戦後70余年経っても敗戦国イデオロギーは払拭されず“悪友”との付き合い方は真にさま変わりです。身勝手で傲慢な“悪友”に仲良くしてと自ら妥協に妥協を繰り返し、“悪友”からの提案を待って自らのゴールポストを“悪友”に近づける。そこには、国益を背負った責任も矜持も感じられません。

 “悪友”に国民を拉致され、南京大虐殺や慰安婦強制連行など身に覚えのない難癖をつけられ、大量の密漁船に領海のサンゴ漁場を破壊され、領土・領海・領空を侵犯されても、まともな反論や対抗措置を行使できない日本政府に一般国民がもどかしさや頼りなさを感じて半世紀以上たちます。西尾さんの当論考の岸田外相、御厨座長代理の例を含め、安倍政権の内も外も、内部も周辺も動脈硬化ですが、外務省の動脈硬化はさらに悪性です。

 外務省の動脈硬化対策は、平成になってから少なくとも3回は実施しています。平成11年、外務省機密費流用事件では、曽野綾子女史や平岩外四翁を有識者として改革案をまとめ、平成14年の鈴木宗男事件では、船橋洋一、吉永みち子、岡本行夫各氏等を招いて外務省を「変える会」を、また民主党政権では、岡田克也外相が旗振り役で平成22年に「活力ある外交」を、と外務省改革を夫々実施しています。しかし、実効の程は推して知るべしです。

 動脈硬化罹患の外務省の現行採用試験制度、研修制度、人事制度、そのいずれも同質の外交観を持つ省員を養成するためにあるかと思うほどです。いわば「外務省村社会」の「アジア太平洋局集落」ないし「北米局集落」の中では、課長と言えども既存の政策方針を否定することは難しいでしょう。あえて上司の課長時代の業績を否定し、自身の人事評価を貶めてまで政策変更をする可能性は極めて低いと思われます。

 西尾さんのおっしゃるように外務省改革は喫緊の課題でしょう。
 現在の日本の外交に欠けている国際情勢に対する怜悧なリアリズムと精神-機略、豪気、判断力、気概-。その回復を期して実現困難な荒療治を含めてアイデアベースで挙げると下記でしょうか。

・新人採用試験の抜本的見直し(国家とはなにか、外交および戦争についての識見を問う試験や論文提出の追加等)
・研修カリキュラムの見直し、とりわけ歴史教育の充実。(なお、外交政策、外交に特化した歴史、政治学、国際情勢に関しての講義回数は数多ですが、一般的な歴史教育は寡少です。)
・国際的恥辱問題(南京大虐殺、慰安婦強制連行、端島等)解決タスクの予算・人員倍増
・専門職は同所属原則3年未満勤続制限を解除、専門スキルを深化
・大使館・領事館のインテリジェンス作業強化。他国の機密機微情報の蓄積強化
・イギリス等外交戦略に長けた国のお抱え外交顧問およびお抱え研修講師の招聘
・外務省の若手の自衛隊訓練、ないし米、英、スイス、などの外国兵役訓練に参画、等

 上記に関しては、外務省の現況を憂う保守系OBでは、馬淵睦夫元ウクライナ大使や加藤淳平元ベルギー大使などに外務省現役を紹介いただくなどして現況を確認しつつ、課題解決のフィジビリティスタディを試みるのはいかがかと。

 なお、内閣官房に日本版NSC(国家安全保障会議)という組織が2014年にできました。NSCの中核となるのは総理大臣、官房長官、外務大臣、防衛大臣による「4大臣(機密情報共有)会合」です。米国CIAのようないわばスパイ組織(対外情報機関)は未設置で懸案事項です。この対外情報機関の設置を含め、インテリジェンスの機能増強も日本国の国益および存続の必須要件だと思います。

蛇足:
つい先だって2月17日のトランプ政権下で初めての米中外相会談があり、ティラーソン米国務長官は王毅外相に北朝鮮の核・ミサイル問題について「あらゆる手段を使って北朝鮮の挑発を抑制するよう促す」と圧力強化を求めたとの旨、各メディアにて報道されました。それに対して王毅外相は、「中国に責任を押しつけず、米国みずから対応する必要がある。」(NHKBS1 18日13:57)とオバマ政権時代の対応と異なりトランプ政権の国務長官からの要求に反発の態度を示してのさや当てが始まっています。この二国の交渉結果により半島の情勢が急展開する可能性があります。それに応じた受動的な外交対応を日本国は強いられ、さらに米中・米露が水面下で結託するなど雲行きが怪しくなった時、自主的・能動的な外交ができるのか、石像が外務省の敷地にある陸奥宗光のような外交官を見出しえない昨今、これから先が思いやられます。

落ちこぼれ塾生

ゲストエッセイ
坦々塾塾生:西 法太郎

 サボってばかりの落ちこぼれの塾生ですが、このたびゲストエッセイを求められ、背中がむず痒い思いです。(苦笑)

 そもそも塾長の西尾さんに初めて会ったのは、いつだったろうと思い返しました。
 たしか場所は麹町の弘済会館で、そこで生長の家出身の伊藤哲夫氏の講演があった。
 最前列にいる西尾さんをみとめて、「しなの六文銭です」とあいさつしたら「もっと高齢かと思っていました」とおどろかれました。 

 しかし、還暦を過ぎましたからもう若くはありません。でもまだまだ洟ったれ。
 まず私の近況から。ここ数年三島由紀夫論を書くことに沈潜していました。

 国会図書館に通い資料を漁り、三島と交流があったさまざまな方や三島事件の関係者に会い、それらを学士会館に籠ってPCに打ち込む日々でした。

 その成果(?)を原稿用紙換算で駄文1000枚余に書き上げました。
 そして一昨年一旦ある版元から昨年上梓することになりました。
 ところが紆余曲折があり、原稿が熨斗(うん十万円)をつけて戻ってきました。
学士会館とは春日通りを隔てた至近に移ってきた花田さんにご挨拶に行って、そのことを話したら、「そんなことはめずらしい。もらえるものはもらっときゃいいんだ」と。(笑)

 上梓が延期になったおかげでそのあと「花ざかりの森」の直筆原稿を発掘し、このことも原稿に盛り込むことができました。
 あと四年で三島事件、つまり没後五十年になります。私の三島論はそれまでに世に出せればよいと悠長にかまえています。
 一方霞を食べては生きてゆけないので、今月から何回か「表現者」にその一端を披露します。

 さて、ここからが本題です。私は思いついたことを都度フェイスブックにアップしています。
 そのなかから最近のものを敷衍して述べたいと思います。

 それは今上陛下の退位問題です。
 以前から皇統(天皇制という日共用語は使いません)について関心がありました。
昨年末久々に、坦々塾に参加したのはその関心が私の背を押したからでした。
 幸い講演された斎藤吉久氏と懇親会でじっくり話を交わせました。
 そもそも、ああいうかたちで陛下の意向が漏れたことに不自然さを覚えました。
 そしてそれが「生前退位」という妙な用語で広められたことに違和感を持ちました。
 大騒動になり、陛下のお気持ちに沿い、そうしてさしあげるべきとの国民世論が形成されました。

 そこでヤスバイ政権は半可通たちを〝有識者〟として掻き集め、諮問し、一代限りの特別法で対処する方針に民意を導きました。
 しかしこれは陛下の本当のお気持ちに沿っておらず、政府は陛下が異を唱えることに戦恐としています。
 陛下はご自身だけでなく、今後の皇統においても自由に「譲位」できるようにしたいと思われていると忖度されるからです。
 そこで、私は思うのです。
 明治維新で成った薩長藩閥政権が皇室典範で皇統を縛ったのがそもそも不敬の極みで大過誤であったと。

 権威を権力にむすびつけて国政や外交に利用したことは日本の歴史における大きな過ちだったのです。そして巨きな歪みをうんだのです。
 日本帝国が先の大戦で滅亡し、おおやしまを外国に蹂躙されたのも必然のなりゆきでした。

 藤原(中臣)家、平家(清盛は皇族でしたが)、足利家、織田信長、徳川家なども皇統に容喙してきました。
 薩長政権もそれに倣ったのですが、法律で縛ったことは千載の憾みとなりました。
 そして戦後、戦勝国も皇統を恣にしました。
 かくなるうえは、このたびの今上陛下のご提言を奇貨として、いままでの悪弊にピリオドを打つべきと考えます。
 皇室以外の者が、皇統に口を差し挟むことを止め、その決定を皇室にお返ししするのです。
 つまり特別法の制定や皇室典範の改定ではなく、〝皇室典範の廃止〟です。
 そうすることが陛下の本意に沿うことになるのでしょう。
 今上陛下個人のお気持ちをそこまで汲み取ることに異論はあるでしょう。
 しかし「皇統を皇室に委ねる」ことが日本の歴史にかんがみて本質的な対処だと考えます。

 そうした場合、日本国憲法の第2条、5条を廃止しなければなりません。
 第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
 第五条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
 そして、政府は皇室の独立性確保のため、これまでの皇室への財政援助、人的支援を引き上げるべきです。
 これには憲法の8条を廃止しなければなりません。
 第八条  皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。

 そのままで皇室は立ち行かなくなりますから、戦勝国が不当に奪った皇室財産(主にスイスの銀行口座の資金)の返還を求めます。ヤスバイ政権は戦後皇室が放棄し国有林にしたものを返還しましょう。

 GHQが作成した資料によると以下がその明細です。(単位:円)
現金 33,045,960
有価証券 311,098,337
土地 393,974,680
木材 592,865,000
建物 312,208,475
その他 32,074,621
合計で約十六億七千五百万円(昭和20年9月1日現在)

 これで明らかなように皇室資産の三分の二は木材、土地、建物でした。なお絵画、陶芸品、宝石などは含んでいません。
 明治政府は現在同様、当初は国家予算から皇室経費を出していました。しかし帝国憲法発布のころ予算外の資産をつくりました。
 政府保有株が皇室に移されました。決定的だったのは御料地創設でした。北海道の広大な山林、長野県の木曽川、静岡県の大井川一帯が皇室資産に移されました。

 戦後GHQの意向を受けて、皇室は森林など76万ヘクタール、農地4万ヘクタール、建物4500坪、現金と有価証券2億5800万円を手放しました。
 現金は2%でしたが、ほかに銀行名義のものをもありました。それがスイスなどの銀行にありました。
 これらで皇室はみずからを存続していってもらいます。
 薩長藩閥の後裔たるヤスバイ首相のなすべきことは「皇統を皇室にゆだねる」ことに復することです。そのための改憲です。

 伊勢神宮、春日大社、出雲大社などが民間からの浄財で、数十億から数百億円の遷宮を行っています。皇室にもそういう民間の援助が自ずからあるでしょう。
 陛下が皇統を自由にされたいなら、国民から徴収された税金の投入はできません。それをよしとするご覚悟があったうえでのお気持ちと拝察します。
 日本国政府が皇室をコントロールしていることは、日本政府をコントロールしている同盟国をはじめとする戦勝国のコントロール下に皇室、皇統を置いていることになります。

 皇室を戦前、いえ、明治維新以前の状態に復し、まったき独立性を持たせることが日本国の彌栄になると信じます。以上天下の暴論です。

気が付けば「つくる会」の周りは敵ばかり(4)

ゲストエッセイ
坦々塾塾生・つくる会会員・石原 隆夫

10)「学び舎」はつくる会潰しの刺客だったのではないか

「つくる会」の20年にわたる歴史を振り返りながら、周辺で起こった事なども縷々述べてきたのだが、昨年の採択で公立学校ゼロ採択という「つくる会」が存亡の危機に追い込まれた原因について、私の考えをに明らかにしておきたい。

第一に、会員が忘れてならないのは、20年前世間の熱い注目を浴びて発足した「つくる会」が、十二分の準備を経て世に問うた最初の教科書が、検定の段階で検定審議会の委員であった元インド大使による謀略であわや潰されそうになった事件である。外務省の「つくる会」潰しの謀略は新聞報道で暴露され失敗に終わったのだが、これは「つくる会」の歴史認識が自虐史観の外務省にとっては都合が悪かったために、国家権力を振るってまで「つくる会」を潰そうとした事件だったのだ。謀略がバレて「つくる会」潰しを外務省が諦めたと考えるのは早計である。日本の省庁では、一旦決めた方針は、それが成就するまではその方針を堅持するのはよく知られたことである。例としてあげれば、文科省の「ゆとり教育」の方針があれほど批判を受けたにも拘わらず、方針の白紙化の徹底は行われることなく、つい最近までその影響を残し細々ながら生き延びてきたし、外務省の例を挙げるならば、日本政府は東京裁判の扱いについて、judgments(個々の判決)を「裁判」と解釈し、日本は東京裁判全体を受諾したとし、永久にハンディキャップ国家であるべきだと考える外務省の東京裁判史観はいまだに確固として受けつがれていて、日本外交の隘路となっている。言うまでも無く今ではjudgmentsが個々の判決の意である事は、世界の国際法学者が等しく認めているところである。(佐藤和男監修「世界が裁く東京裁判」p247)

実は従来から歴史教科書について外務省は中韓と国内左翼から責められ続けてきた。例えば教科書誤報事件と言われる1982年の「第一次教科書問題」では、中韓に配慮した「近隣諸国条項」という屈辱的な検定基準を文科省は定めざるを得なかったし、1986年の「新編日本史」という高校の教科書がやり玉にあがった「第二次教科書問題」では、政府は中韓の圧力に負けて真っ当な発言をした藤尾文科大臣を罷免してしまった。当時、外務省が日中韓三国の力関係を冷徹に分析しかつ東京裁判史観に汚染されていなければ、国益を主張して政府をバックアップし、このような内政干渉を排除することは容易であった筈である。歴史教科書問題で常に日本が中韓の言いなりになってしまう原因は、そうした外務省の自虐史観から来る不作為にあると言っても過言ではないのだ。

長年にわたって「南京事件」や「慰安婦問題」を否定する活動を継続し、教科書運動にも反映しようとした「つくる会」は、中国・韓国からは歴史修正主義者だとして攻撃の的となり、それ故に常に中韓の矢面に立たされてきた外務省に取っては、一昨年の検定で明らかになった、南京事件については一切書かず、実際にあった中国兵による日本人虐殺事件である「通州事件」を書き、さらにマッカーサーの東京裁判批判談話を書くにいたった「つくる会」の教科書は、我慢の限界だったのかも知れない。そして中韓が長らく日本に対し外交交渉を通じて、南京虐殺と慰安婦を教科書にきちんと記述するよう求めていたことへの決着を付けるよいチャンスだと思ったに違いない。そして、外務省は20年前の「つくる会」潰しの謀略を完成させることにしたのだろう。

今回は20年前のように外務省が表に出て直接「つくる会」を叩くような馬鹿な作戦ではなく、
GHQが生みの親であり東京裁判史観を信奉する日教組や、「近隣諸国条項」に縛られる文科省の一部勢力など、反「つくる会」の勢力を合法的に利用し、事なかれ主義の採択関係者の心理をも巧みに利用した「つくる会」潰しが行われたと見て良いだろう。そして、「つくる会」潰しの刺客になったのが「学び舎」である。学び舎の教科書は、数年前から日教組の元教師達が退職金を持ち寄って作ったと言われているが、本当だろうか。日本史として系統立った記述ではなく、前後の脈絡もなくエピソードを積み重ねただけのような、とても歴史教科書とは思えない手抜き教科書に、それほどの時間と金が掛かったとは思えないのだ。だが、そんな学び舎の教科書が、結果的に「つくる会」潰しの刺客として効果を発揮したことは事実である。

学び舎が刺客として使われたのは、採択戦突入直前に朝日新聞が一面を使ってデカデカと報じた、直前まで文科省検定審議官だった人物とのインタビュー記事である、文科省の基準に合っていない学び舎を合格させるために自由社を貶めたあのインタビュー記事である。全国の採択関係者の殆どがこの記事に注目したに違いない。そしてこの記事は、「つくる会」の教科書を採択候補から外してもよい理由を採択関係者に提供したのである。微妙なこの時期に、朝日新聞にこのような人物を起用させてインタビュウー記事を書かせた黒幕は誰なのか?文科省基準を逸脱した学び舎の教科書と言いながらそれを検定合格させたのは、明らかに文科省の自殺行為だが、それを敢えて公表したのはなぜなのか? その結果、「つくる会」の教科書が公立学校から消滅したのはまぎれもない事実なのである。

ところで、学び舎の出現は「つくる会」潰しの刺客となっただけではない。恐ろしいことに、将来的に歴史教科書業界を一気に更なる左傾化へ転換させる布石となったのではないだろうか。何処の国の教科書かと言われるほどの「学び舎」の反日自虐教科書を挙って採択したのは、奇妙なことに、官界、法曹界、学会に多くの卒業生を送り込むエリート校と言われる国公立の附属中学校であり、反日ネットワークとも言うべき日教組の影響が大きい学校だった。この流れは、高校・大学への受験勉強に学び舎の教科書の存在感を増し、今後無視できないことになるのではないのか。私には、外務省と文科省と日教組がほくそ笑みながら、「つくる会」の今後に注目している姿が見えるのだ。そして符丁を合わせるかのように、昨年暮れに慰安婦日韓合意が突如成立し、外務省の不作為が原因で中国の思惑通り、南京事件があっさりとユネスコの記憶遺産に登録されたのだ。この一連の流れを全くの偶然とは私には思えないのである。

昨年の採択戦の結果としてはっきり言えるのは、子供達の教育環境がますます自虐史観の毒に染められていくだろうという予感であり、そこには国家権力が介在しているに違いないという怖れである。我々はこれをはね除けなければ子供達に顔向けができないのだ。より良い教科書作りの継続は勿論だが、国家権力の介入を排除し、国民に見える採択システムの構築を文科省に要求していくことも重要である。まだまだ戦える道はあるに違いない。

戦後、アメリカに良いようにされてしまった日本と日本人の教育を見直し、本来の日本人の歴史を取り戻そうとする「つくる会」の教科書改善運動は、東京裁判史観にどっぷり漬かり目的を見失なった末に、事なかれ主義と個人主義に漂よって太平楽を楽しむ世情に対し、危機感を抱いた無名の人達に支持されてきた。だが「つくる会」発足後20年にわたって、目に見えるような実りを得られなかった運動にもかかわらず、初心を忘れず運動を継続してきた会員の情熱と使命感には唯々頭が下がる思いである。ある会員が言った次の言葉が忘れられない。『結果が出るに越したことはないが、戦後70年の間染みこんだ垢を落とすには70年かかると思うべきだ。こんな壮大な運動に関わることが出来るだけでも幸せだと思うし、孫のためにも頑張らなければならないと思う。戦後、経済一辺倒で無為に過ごし、チャンとした日本を子供や孫達に残すことが出来なかった我々老人には、やらねばならない老後の仕事だと思っている』。願わくば、この老人のように残りの人生を有意義に過ごすことを望み、その手立てとして「つくる会」運動の灯を絶やすことなく、次の世代に手渡すまで戦い続けることができれば、これほどの幸せはないだろう。

気が付けば「つくる会」の周りは敵ばかり(3)

ゲストエッセイ
坦々塾塾生・つくる会会員・石原 隆夫

9)つくる会教科書潰しの朝日新聞記事と文科省の不作為

ざっと「つくる会」の辿った道を振り返ってみた。波瀾万丈の道のりだったと言っても良い。
そんな「つくる会」の主な目的は、我々(自由社)の教科書で出来るだけ多くの中学生が歴史や公民を学び、子供達が将来誇りある日本人として振る舞うことである。そうなれば、70年にわたって続いてきた「戦犯国日本(東京裁判史観)」の国民意識をも払拭することもできると思うからだ。何処の国の歴史にも光と影がある。日本だけが光の部分を隠し影の部分だけを日本の歴史として教える。かつてイギリスの教科書も植民地の贖罪意識で酷い教科書だったが、サッチャー政権で「誇りあるイギリス」史観が復活したという。イギリスでは教科書改善ができて、なぜ日本はできないのか。答えは簡単である。国民の意識の問題であろう。巷間よく言われることだが、外国の左翼は他国からの非難には保守と一致団結して反論するという。国内の議論では保守と対抗していても、国益が絡むと熱烈な愛国者に変身するのだが、日本はといえば、外国に通じ祖国を誹謗中傷することが愛国者だと思い、そうすることがかつて日韓を併合して植民地にし、中国を侵略し、遂にはアメリカ様に刃向かった「罪深く馬鹿な日本人」を糾弾する「良い日本人」であると思い込んでいるのであろう。「良い日本人」とは端的に言えば、「罪深く馬鹿な日本人」の一人が自分の先祖である事にすら気付いていないのであり、世界標準から見れば、売国奴であり根無し草の愚か者に過ぎないのである。日本が今歴史戦で苦戦を強いられている、南京問題にしろ慰安婦問題にしろ、全てが日本人が捏ち上げた嘘から始まっているのだが、それを利用して日本を攻撃する中韓の人達から見れば、彼らは売国奴であり嘲笑の的である。日本にとっては彼らは「内なる敵」であるが、彼らの思いの根底には「東京裁判史観」に基づいた長いあいだの反日教育があるのだ。エリートを輩出し国家の官僚に送り込んでいる東京大学をはじめとする主要大学や歴史学会では、牢固として日本悪玉論である「東京裁判史観」を遵奉している現状を考えれば、「内なる敵」の増産に歯止めを掛けるのは容易なことではなく、国民の意識が変わるような余程の奇跡が起こらない限り、売国奴は日本の教育を危機に陥れ続けるだろう。

「つくる会」はそのような日本に歴史教育を通じて一石を投じようとした。だがそれは言論、出版の自由や結社の自由が憲法で保障されていることが前提であり、まさか最初の検定で外務省が「つくる会」潰しを仕掛けるなどとは思いもよらないことだったし、再びそのような事が起きるとは思ってもみなかったのだが、現実は我々の認識は甘かったようである。

平成27年4月24日、朝日新聞にとんでもない記事が載った。直前まで検定調査審議会の歴史小委員長だった上山和雄氏が、『教科書検定「密室」の内側』というインタビュウ記事に登場したのだ。朝日の記事のタイミングは、文科省の検定結果発表の直後であり採択戦突入の直前であった。インタビューでは上山氏は問題発言を連発しているが、「つくる会」にとって見逃せないのは以下の発言である。(記事引用)『検定が厳格になったとは思っていません。むしろストライクゾーンが広がったと感じます。日本のいいところばかりを書こうとする「自由社」と、歴史の具体的な場面から書き起こす新しいスタイルですが、学習指導要領の枠に沿っていない「学び舎」。この2冊とも、いったん不合格になりながら結局、合格したのですから』、『自由社の方は、これまでも同じ論調の別の教科書を合格にしているので、【×】にすると継続性の点で問題がある。では、もう1社の学び舎を【×】にするかですが、基準を一方に緩く、一方に厳しくするのはまずい。結果として(両方を合格にしたことで)間口が広くなったと感じています』
詳しくはURLを参照して欲しい。http://digital.asahi.com/articles/DA3S11721215.html?rm=150
このインタビュー記事から採択権者が受けた印象は、「自由社」は日本のいいところばかりを書こうとする偏向した教科書であり、それ故に一旦不合格になったこと、「学び舎」は学習指導要領には不適格な教科書だったこと、最終的に両者を合格させたのは、「自由社」を合格させるなら「学び舎」も合格させないとバランスがとれないという妥協の結果だったこと等だが、致命的だったのは、「自由社」も「学び舎」と同じく学習指導要領に不適格な教科書だという印象を与えてしまったことだろう。我々から見れば、これは「学び舎」を合格させるために「自由社」を貶めてだしに使ったという証言であり、まことに際どい内容である。上山氏は直前まで検定に関わった人物であり、退職したとはいえ一定期間の守秘義務があるにも関わらず、敢えて採択戦の直前に「自由社」だけを取り上げて貶める報道をした朝日新聞と上山氏の狙いは一体何だったのか。当時、「つくる会」が何もしなかったわけではない。記事が出た翌日には文科省に厳重抗議したが、何ら返答は得られなかったのだ。

私は正直なところこの記事を見て、採択戦の敗戦を覚悟した。自分が採択権者であれば「自由社」と「学び舎」は採択しない。もし「自由社」を採択すれば、反対派からこの朝日新聞の記事を示されれば、全く反論は出来ないであろう。一方、学習指導要領から外れた教科書という認識があるにも拘わらず、文科省の根本権限とも言える検定制度を自ら否定したに等しい違反行為をしても敢えて「学び舎」を合格させた文科省と、朝日新聞の際どい記事が示す一連のながれを考察すると、いわゆる「つくる会効果」を良しとしない反「つくる会」勢力のなり振り構わない「つくる会」への反撃の姿が、私には見えてきたのである。

ところで、上山和雄氏とはどんな人物なのか?
上山 和雄(うえやま かずお、1946年-)は、日本の歴史学者。國學院大學文学部教授。専門は日本近現代史。博士(文学)(東京大学、2005年)とある。
上のインタビューで述べている中から、いくつか上山氏の歴史観がよく判る下りを上げてみよう。東京裁判については『日本人から、自分たちが学んできた歴史への誇りと信頼を失わせました』などの記述が問題になり、私を含む何人かが批判しました。『歴史研究のイロハを踏まえてない』『教科書としてのバランスが崩れている』と」、「戦勝国の行為を裁かなかったことや、平和に対する罪を過去にさかのぼって適用したことの不当性など東京裁判の問題点ばかりを取り上げ、民主化や戦後改革がなぜ必要になったかなどを十分記述していなかった点です。」、「教科書には、守るべき最低ラインがあると思うんです。戦後の日本は、太平洋戦争を引き起こした仕組みの否定、つまり東京裁判を受け入れ、民主化を進めるところから出発したわけです。これは政府見解というより国民の共通認識でしょう。そこを否定するのは戦後の日本を否定するものと言わざるを得ません」、「歴史の見方には、いくつかあると思います。お国自慢をする『花のお江戸史観』、その反対の『自虐史観』。もっとも、自虐史観と非難される人々が日本を愛していないわけではない。愛しているからこそ過去の誤りを率直に認め、二度と起きないようにする考えもあるでしょう。三つ目としては戦前の皇国史観のように国民を動員するのを狙うものもある」、「教育の最大の目的は、子どもたちがきちんと生きていけるようにすること。一面的な考え方しかできない。近くの国と仲良くできない。そんな人間をつくっていいとは誰も思わないでしょう」などと述べている。また別の場所ではhttps://www.youtube.com/watch?v=OBaj2Mzk2ZQ「領土問題で考慮すべきは、単に日本固有の領土というような政府の言いなりではなく、領土問 題には相手がある事なのだから中国や韓国、ロシアの言い分も子供達に教えるべきだ。そうで なければ子供達は納得しない」、「良い教育とは何かといえば、戦前の「日本が一番」「天皇・国家のために死ぬ」という最悪の 教育の反省として戦後の教育があるのであり、それを自虐的とかいうのは当たらない」などという。上山氏がまさに東京裁判史観にどっぷり漬かっている事が判るコメントであり、これでは自由社の教科書を目の敵にするのも無理はないだろう。検定の過程を見れば、文科省の検定調査審議会は上山氏のような東京裁判史観しか見えない浅薄な歴史観をもつ委員が多いのではないかと思う。上山氏のコメントは、東京裁判を否定するコラムを書き、南京事件に触れず、逆に中国の国際法違反が明確な通州事件を書いた「新しい歴史教科書」を念頭に置いた「つくる会」潰しの露骨な謀略的批判であったと思う。

それを確信させたのは、産経新聞平成27年5月7日の【日本の議論】という記事で学び舎を取り上げ、これは一体どこの国の教科書なのか…新参入『学び舎』歴史教科書、検定前“凄まじき中身”という記事だった。(URL参照)
http://www.sankei.com/premium/news/150507/prm1505070008-n1.html
これは検定合格前の「学び舎」に関する記事だが、その内容はまさに今までの自虐史観教科書の存在が薄れるほどの凄まじさである。修正した検定合格後の中身は判らなくとも、今までとは全く異なる教科書であることは十分想像できた。何度も言うが問題は、学習指導要領から外れた「学び舎」の教科書を、なぜ文科省は検定合格にしたのかということである。一字一句にまで注文をつける検定の厳しさは何処に消えたのか。「学び舎」を特別扱いする理由があったのではないか。一方で自由社は今回の検定でもいつもと同様にかなり厳しい対応を受けた。一旦不合格になった理由は内容よりも主に誤字誤植を指摘され、それの修正に時間が掛かったために慣習的に一旦不合格になったにすぎないのである。その証拠に、他社の検定合格日は3月31日付けで自由社は4月6日と1週間違いに過ぎないのだ。上山氏が言うように内容的に記述が偏っていたからなどでは決してない。上山氏の発言には自由社を貶める意図が明確に見えるのだ。

ここから先は私の仮説ではあるが、決して根拠がないわけではない。過去20年の「つくる会」運動の歴史を振り返ることから見えてくる事実をつなぎあわせれば、朧気ながらも「学び舎」の必然的出現とその意図が見えてくるのである。

気が付けば「つくる会」の周りは敵ばかり(2)

ゲストエッセイ
坦々塾塾生・つくる会会員・石原 隆夫

6)「つくる会」の分裂騒ぎとは何だったのか

保守が大同団結して始まった「つくる会」は、第1回と第2回の採択で思わしい成果を上げることが出来なかったことから、参加者の思惑の違いが表面化し、平成18年4月組織は分裂した。
当時会長だった八木氏と日本会議に所属する理事や学者が一斉に「つくる会」から退場した。
八木会長の退場は、理事会に諮ることなく中国社会科学院と会談したことが原因だった。中国社会科学院といえば、「つくる会」の教科書に反対し、日本政府に是正を要求した中国政府の反日の司令塔であり、歴史戦の尖兵である。後に、八木氏が立ち上げた教育再生機構の機関誌の対談で、中国社会科学院のメンバーが、日中戦争は日本の侵略である事を認めろ、と日本側に迫っていたことを思い出す。分裂騒ぎでは、露骨な採択妨害の韓国に代わって密やかな中国の影が垣間見えるようになった。平成18年6月、八木氏が教育再生機構を立ち上げた際に、「朝日新聞に文句を言われない教科書を作る」とコメントしたが、これは「つくる会」の教科書のように、自虐史観教科書に対抗するものではなく、左翼の牙城である朝日新聞さえ納得する教科書を作るという宣言だったのだ。この言葉を聞いて、分裂の本当の原因と意味が理解出来た。「つくる会」の教科書では中国や韓国の内政干渉を誘い、その結果、採択数も伸びず商売にならないのであり、朝日新聞が文句を言わない教科書とは当然、中国も韓国も容認する教科書と言うことだったのである。あくまでも設立時の「趣意書」に書かれた理念を守り、誇り有る日本人たれとの思いを子供達に伝えようとする教科書作りをめざす「つくる会」にとっては、八木氏との協同はあり得ない選択肢であった。分裂で「つくる会」は産経グループのバックアップと扶桑社という出版社を失い、一部の会員も失った。それにも拘わらず、「つくる会」と残った会員は意気軒昂だった。「つくる会」発足時に掲げた「趣意書」に沿ってより良い教科書を作り、いずれは教育界から自虐史観を一掃しようと決意を新たにしたのである。だがこの分裂は、当事者間の微妙な路線や歴史観の違い、バックアップする企業の思惑、更に言えば垣間見える中韓の巧妙な工作が、あれほど盛り上がった教科書運動という大義名分や理念を簡単に忘却させ、変質させてしまう現実を国民の前に晒した事件であり、この結果、「つくる会」は孤高の道を歩まざるを得なくなったのだ。

7)「つくる会」の絶頂と混迷

平成19年5月、分裂前に教科書出版社だった扶桑社は「つくる会」に関係解消を通達し、教科書業界から撤退した。扶桑社を失った「つくる会」は新たに出版社として自由社を設立し、フジサンケイグループは新たに3億円を支援して扶桑社の子会社として育鵬社を立ち上げた。
平成21年4月、第3回目の採択戦を迎えたが、横浜市の中田宏市長の下で「つくる会」教科書の採択が実現した。横浜市側は完璧な情報封鎖であったので「つくる会」にとってはサプライズであった。継続採択も含め、この3回目の戦いは、初めて採択率1%を突破した記念すべき採択戦だった。採択率50%超のガリバー出版社である東京書籍から比べれば微々たる実績だったが、首都圏の東京都一貫校に続き横浜市で取ったのは、今後の「つくる会」の教科書運動に光明をみる思いであった。ただ、杉並区の場合と同様に、横浜市も東京都も時の首長自身の「つくる会」教科書の採択に賭ける強い思いが結果をもたらしたのであり、会員の働きかけが直接功を奏したわけではなかったのだ。だからこそサプライズなニュースであった。

平成23年4月、「つくる会」の歴史と公民の教科書が無事検定合格し、第4回目の採択戦に突入した。分裂後初めての教科書作成と出版を経験したが、扶桑社に依存していた出版の細部のノウハウを短期間に吸収確立するのが困難だったこともあり、年表盗用というとんでもないミスが発生してしまった。ルーティンワークとして誰かが責任を持って年表のチェックを怠らなければ、起こりえなかったミスである。本来、年表には著作権が認められていない。従って、出版社の編集者が従来の書式を使って作成するのが慣習であり、余程のことが無い限り大幅に書き換える必要の無い作業である。従って教科書作成に携わった誰もが、出来上がった年表が従来通りに出来ていると思い込み何の疑問も抱かなかったのである。現実は、編集担当者に参考としてわたされた某社の年表を編集担当者が完成品だと誤解し、そのまま教科書に載せてしまったのである。
5月に、育鵬社を応援する人達が、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」が「朝鮮侵略」と書かれていることに気付き、某社の年表盗用だとして大々的にネットに発信し大騒ぎになった。その後、反「つくる会」の組織が非難声明を出し、8月1日には全ての新聞が取り上げた。8月は採択戦の山場であり「つくる会」は混乱を極めた。発覚と同時に「つくる会」は謝罪表明をし、文科省に年表の差し替えを申請したのだが、「つくる会」の年表盗用として広まった負のイメージはいかんともしようがなく、横浜市や東京都は次善の選択として育鵬社の教科書を採択したのである。
「つくる会」のオウンゴールとも言える大失態だった。我々のミスに乗じて採択戦の早い時期から、育鵬社が「つくる会」の年表盗用を喧伝して回ったことを知ったが、すべて後の祭りだった。
採択結果は『新しい歴史教科書』が0.08%、『新しい公民教科書』が0.05%と惨敗だったが、育鵬社は歴史が3.9%、公民が4.1%と大躍進だった。「つくる会」の敵失を奇貨として利用した育鵬社は昨年の採択で大きな躍進を遂げ、反対に「つくる会」はどん底を見ることとなったのだ。その後、年表は新しい工夫を盛り込み使いやすいものに改善され、盗用年表と差し替えられたが、この事件が「つくる会」教科書を採択しないもう一つの言い訳を採択権者に与えてしまったことは確かである。

8)採択惨敗で再認識した「つくる会」の存在意義

昨年は5回目の採択の年だった。4回目の惨敗を挽回するために「つくる会」に残された道は、
「つくる会」発足時の趣意書にあるように、『世界史的な視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写することで、祖先の活躍に心踊らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語を語り合える』教科書作りに愚直に邁進することだった。
以前からの中韓による歴史改竄と謀略に満ちた日本への誹謗と中傷は、慰安婦問題や南京事件を通じて日増しに強まり、いわゆる歴史戦の様相を呈し、国民の間にも中韓に対する疑問が抱かれるようになった。その結果として嫌韓・嫌中本が本屋のベストセラーになったのである。「つくる会」は以前から歴史戦がもたらす危険に気付き、南京問題や慰安婦問題に対応する組織を立ち上げ、シンポジウムや出版物を通じて国民への啓蒙を図ってきたが、このような運動は教科書関係の保守団体としては「つくる会」が唯一の存在であった。教科書は次世代の子供達を育てる手段だが、歴史戦への挑戦は、今の日本と日本人の国益と誇りを守るとともに、次世代を担う子供達をも守る重大な使命を帯びた活動である。その活動を通して、『新しい歴史教科書』が世に問うたのは、日中関係では無かったことが証明された「南京事件」を記述せず、逆に歴史的事実である「通州事件」を記述し、日米関係ではマッカーサーの東京裁判を否定した談話を、コラムという形ではあるが、記述したことである。幸いにしてこの試みは、文科省の検定をパスすることができ、「つくる会」の教科書執筆陣は教科書記述の可能性が大きく広がったと喜んだのである。歴史戦の最中にあってこれは教科書業界にあっては特筆すべき事であった。このような「つくる会」の先進的な試みが、必ずや「つくる会効果」として、次の各社の教科書に影響を与え、結果として各教科書から自虐的表現が無くなっていくことを我々は期待していたからである。

ところが期待していた採択は、1)「つくる会」の惨敗に終わった5回目の採択戦で述べたように公立学校ではゼロ、私立が僅かばかり採択という信じられないほどの惨憺たる結果に終わったのだ。一方で、売れる教科書を目指した育鵬社は前回を大幅に上回る6%の採択率を確保し、経営的に安定といわれる5%の大台を超えたのである。一部の「つくる会」会員の間からは、「つくる会」から別れた同じ保守系の育鵬社が伸びたことを喜ぶ風潮もあったが、大方の会員には深い挫折感を味わう結果であった。この結果を受けて10月に急遽開かれた「つくる会」総会は、本部の責任を追及する紛糾の場となるかと思われたが、総会に出席した会員の総意は、「つくる会」の存続を賭けても自虐史観是正のために教科書出版を諦めずに運動を継続すること、また、国益のために歴史戦を継続して戦う「つくる会」の方針も満場一致で承認されたのであった。会員がこの苦境に直面して絶望感と挫折感を味わいながらも、一致団結して「つくる会」の存続を決意した理由は、営利団体ではなくボランティア団体であるという他の教科書会社とは異なる「つくる会」の特殊性もさることながら、逆境に遭って「つくる会」の使命を改めて再認識した個々の会員の意識の高さにこそ求められるべきであろう。当時、危機に瀕していた財政を救ってくれたのは、呼びかけに応じてくれた全国の会員からの緊急の寄付であったが、これこそ会員の意識の高さを証明するものだった。

つづく

気が付けば「つくる会」の周りは敵ばかり(1)

ゲストエッセイ
坦々塾塾生・「つくる会」会員・石原隆夫

昨年10月、教科書出版会社の三省堂が、自社の教科書を採択の現場で有利に扱ってもらうよう
採択関係者や教師に賄賂を渡していたとして、突然文科省に呼ばれて注意を受けるということがあった。その後、賄賂を渡していた教科書出版会社が22社も自主的に名乗り出たのだが、一方で3839人の教科書選定・採択関係者が賄賂をもらっていたことが判明し、そのうち88件では謝礼を払った会社の教科書を採択したという。教科書大疑獄事件である。採択率50%超のガリバー企業である東京書籍が一番派手に贈賄をしていたことも判明し、異常な採択率の疑問が氷解した。しかしながら現時点において、収賄側は処罰されているにも拘わらず、贈賄側の教科書会社に対し文科省は厳重注意をしただけで、何らの実効ある処罰をしていないという異常な事態が続いているのだ。更に特筆すべきは、文科省の基準に合っていない「学び舎」という何処の国の教科書かと思えるような教科書がデビューしたことである。いま教科書業界に一体何が起こっているのか、「つくる会」の歴史を振り返る中からわき上がる疑問をぶつけてみたいと思う。

1)「つくる会」の惨敗に終わった5回目の採択戦

昨年、「新しい歴史教科書をつくる会」(以後「「つくる会」)は5回目の歴史・公民の中学校教科書の採択戦を迎えた。公民は修正程度だったが、歴史は全面見直しで画期的な教科書として満を持しての採択戦だった。画期的というのは、南京事件については無かったことが証明されたとして記述せず、代わりに実際にあった日本人居留民が虐殺された通州事件について触れ、東京裁判については、マッカーサーがトルーマンに語った反省の言葉をコラムで記述したからである。
採択戦が終わった8月末、「つくる会」会員は呆然自失で虚脱状態にあった。公立中学校での採択が、歴史・公民ともにゼロだったからだ。今までの採択では決して無かったことである。
頼みの私立中学校の採択も伸びず、「つくる会」の存続が危ぶまれる結果となった。

採択惨敗に対する原因究明の動きが、本部役員と会員双方から起こったが、原因については本部と会員の分析には乖離があった。会員の分析は主に「つくる会」側にあるとしたが、本部の分析は、期待された文科省の首長権限の強化の通達が、国会での共産党委員の巧みな質問に引っかかり、骨抜きにされて空振りに終わったこと、教科書選定委員会や教育委員会などの採択関係者の間に、「つくる会」の教科書の採択に対する長年の拒否反応があったことなどをあげ、「教科書採択の構造問題」(以後「構造問題」)にこそ根本原因があるとした。私は5回の採択を振り返って、「つくる会」の教科書が一度も採算分岐点と言われる5%にも至らず無視されつつづけてきた原因は、やはり「構造問題」にあると確信していた。

2)異様な歴史教科書「学び舎」の唐突な出現

平成28年3月19日の産経新聞一面トップには”慰安婦記述30校超採択”の大見出しが踊り、「学び舎」の中学歴史教科書について大きく報道した。
http://www.sankei.com/life/news/160319/lif1603190015-n1.html
(記事引用)>学び舎とは、平成28年度から中学で使用される教科書「ともに学ぶ人間の歴史」の発行会社。26年度の中学校教科書検定から参入した。当初、申請した教科書がいったん不合格とされた後、大幅に修正して再申請し合格した。「つづきを読んでみたくなる」教科書を目指すとして、全国の現職や元職の教員約30人が執筆し、歴史研究者らの支援を受けている。中学では唯一、慰安婦の記述がある。文部科学省によると、同社の歴史教科書の採択数は全国で約5700冊(占有率0・5%)。業界では「参入組にとって障壁が特に高い教科書業界では異例の部数」(教科書関係者)と受け止められ、「執筆者らの人的ネットワークで採択が広がった」(業界関係者)との見方もある。採択したのは少なくとも国立5校、私立30校以上。国立は筑波大付属駒場中のほか、東京学芸大付属世田谷中▽同国際中等教育学校▽東大付属中等教育学校▽奈良教育大付属中。私立では灘中、麻布中など、エリート養成校といわれる学校が軒並み採択した。

昨年の4月6日に文科省が検定結果を発表し、その時私は初めて学び舎の出現を知ったが、学び舎の出現の仕方は唐突であった。新たな参入が難しい教科書業界だから、参入の動きがあれば事前に何らかの情報がある筈だが、学び舎については文科省が発表するまで判らなかった。異常なデビューと言っても良いのではないか。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/kentei/1358684.htm
更に驚いたのは、慰安婦についての記述が復活し、南京事件については、展転社裁判の原告であった夏淑金の証言をもとに虐殺の具体的シーンを記述したことであった。いままで全ての教科書に「慰安婦」の記述が無いのは、これを問題視して「つくる会」が発足し、初版の教科書で一切記述しなかったからであり、この影響が他社の教科書にも及び、中学校の教科書からは慰安婦の記述は一掃されたのである。「学び舎」の出現は、「つくる会」の教科書の先進的な記述が他社に与えるいわゆる「つくる会効果」を一挙に無に帰し、中学校の歴史教育を20年前の自虐史観の時代に戻してしまったのである。

3)つきまとう反「つくる会」の外務省の影

{つくる会」は平成9年1月、初代会長西尾幹二氏と副会長藤岡信勝氏のもとで創立宣言を発し、同時に文科大臣に教科書から「従軍慰安婦」の記述撤去を申し入れた。発足に当たっては日本の保守といわれる殆どの学者・識者が糾合し、会員数は1万人を超え、全国の支部は48支部を数え世間の注目を集めた。当時の保守運動体としては、「日本会議」以外では拉致問題の「救う会」があり、そこに教科書問題の「つくる会」が国民的熱気を伴って出現したのであり、これは左翼にとって脅威であった。また「朝まで生テレビ」に出演し慰安婦問題と教科書について提起し論争になった。第1回目の「つくる会」シンポジウムは『自虐史観を越えて』と題して開催され保守系の市民の喝采を受けた。また歴史と教科書問題について啓蒙する数々の本が出版され、「国民の歴史」はベストセラーとなった。私もこの本を読み、日本史を世界史の中に位置づけた雄渾な歴史絵巻に心が躍る思いであり、改めて日本史の面白さに気付いたのである。
「つくる会」初めての中学校用教科書「新しい歴史教科書」と「新しい公民教科書」が検定に出されたのは平成12年4月だったが、10月に事件が起こった。外務省から元インド大使が検定審議官として参加していたのだが、この検定審議官が「つくる会」の教科書を不合格にするよう他の審議官に働き掛けていたことがバレて罷免されたのである。外務省が「つくる会」の教科書を厄介者扱いにしていることが判り、その裏に蠢く得体の知れない存在に暗澹たる思いだったが、外務省の「つくる会」潰しの意図が何処にあったのか、不明なままこの事件は有耶無耶となった。

4)極左の採択妨害と中韓の内政干渉

翌年(平成13年)4月に「つくる会」の教科書は検定合格となったが、それを待ち受けていたかのように、中韓両政府が「新しい歴史教科書」に激しく反対し、日本政府に再修正を要求してきたのだ。5月には韓国政府が全ての歴史教科書に対し政府に内容の修正を強く迫ってきた。
不遜かつ無礼であからさまな内政干渉であった。ところが6月に歴史と公民の教科書を市販本として出版したところ、合わせて76万部の大ベストセラーとなったのである。中韓の内政干渉に呆れた多くの国民が「つくる会」への支援と好奇心から買ってくれたのである。

採択戦はまるで戦争だった。共産党や社民党の支援を受けた反「つくる会」の市民団体や中核派などの極左の団体は、「つくる会」の教科書を『子供達を戦争に狩り出す教科書』だとして、愛媛県や栃木県など、「つくる会」の教科書が採択有望だと下馬票のあるところに押しかけ、採択関係者に「つくる会」教科書を採択しないよう圧力を掛けた。時には脅迫電話で採択関係者を縮み上がらせるなど不逞を働く始末だった。「つくる会」会員は正統な採択運動を進めながらも、反対運動に対抗するべく各地に出向いて彼らと対峙した。異常だったのは、韓国から地方議員などが採択地に押しかけ首長に面会を強要し、姉妹都市の解消をちらつかせて「つくる会」教科書の採択に反対したことである。教育の根幹である教科書採択に外国人が介入するという前代未聞の内政に関わる重大事件にも拘わらず、外務省は韓国に抗議もせず、彼らの入国を制限することもなく、彼らのやりたい放題を放置したのである。中核派に対する公安の動きも鈍かった。7月には一旦「つくる会」の教科書の採択を決めた栃木県下都賀地区の教育委員会は、反対派の脅迫に耐えかねて採択を白紙に戻すという事件が起こった。翌8月には遂に極左の革労協が「つくる会」の事務所に放火する事件が発生した。採択期間中にこのような暴力沙汰が易々と行われたのである。事件の報道は毎日、新聞の一面を飾った。新聞を読んだ採択関係者にとっては、「つくる会」の教科書を採択したくとも、極左の脅迫で家族が危険に晒されたり、韓国に姉妹都市を人質にされたのでは、断念せざるを得なかったのだ。中韓が教科書に介入してきたのは、反「つくる会」からの介入要請と、歴史戦で日本を貶めようとする中韓の思惑が一致したからである。
「つくる会」の初陣は、歴史の採択率0.039%、公民は0.055%で惨敗に終わったのだ。

平成14年12月、公安調査庁は平成13年版『内外情勢の回顧と展望』において、「つくる会」教科書の採択反対運動への過激派の関与を指摘し、「内外の労組、市民団体や在日韓国人団体などと共闘し、全国各地で教育委員会や地方議会に対して、不採択とするよう要求する陳情、要請活動を展開した」と記した。「つくる会」の教科書運動によって日本が目覚めることを怖れる内外の勢力が一斉に「つくる会」に襲いかかったといっても良い状況であり、これが多くの教育関係者に「つくる会」の教科書を採択することに対する、恐怖感を伴う深いトラウマを残す事になったのである。この事件での大きな疑問は、国家の教育の根幹である教科書の採択に、なぜ中国と韓国がタブーとされる内政干渉を仕掛けてきたのか、政府はなぜ内政干渉だと抗議をせず黙認したのか。韓国の議員や民間人が地方自治体に押しかけ、「つくる会」の教科書採択を邪魔する行動に対し、外務省が何らの行動も起こさず傍観していたのはなぜか、その後の採択でも国民の非難を無視し、韓国人の反「つくる会」行動を黙認してきたのはなぜか。検定時に「つくる会」潰しを図って失敗した外務省が、採択妨害のために中韓を呼び込んだのではないか。特に反日の為なら何でもありの韓国政府は、日頃から外務省に日韓関係の歴史観について圧力を掛けていたことは知られているし、教科書にも「慰安婦強制連行」を記述することを長年にわたって要求してきた。外務省は韓国の要求に応える代わりに、韓国議員と市民による「つくる会」潰しの内政干渉を許したのではないか。

5)トラウマを越えて

「つくる会」会員にとっては気が滅入ることばかりでは無かった。平成14年8月には、愛媛県立中高一貫校3校で『新しい歴史教科書』を採択した。また平成16年8月には都立中高一貫校で翌年4月から使う『新しい歴史教科書』を採択したのである。

平成17年、「つくる会」にとって第2回目の採択を迎えた。杉並区の山田宏区長が主導して『新しい歴史教科書』を採択するという情報が流れると、杉並区役所は戦場となった。中核派を中心に、在日韓国朝鮮人のグループや左翼の市民グループなどが庁舎内を占拠し、庁舎を取り巻いた。
「つくる会」会員も急遽招集を掛けて杉並区役所に押しかけ、反対派と一触即発の暴力沙汰になりそうな緊迫した睨み合いを続けていたが、一刻も早く採択が実現するよう祈る思いであった。
反対派が「つくる会」の教科書を「子供達を戦争に駆り立てる教科書」だとして喧伝した結果、普段はノンポリの筈である若い母親達が大挙して押しかけてきたのだ。彼女たちの金切り声をあげての必死の抵抗には、愚かなと思いつつも為す術もなく、たじろぐしか無かった。反対派の怒号の中で、杉並区は『新しい歴史教科書』を採択したのである。我々の萬歳の声が庁舎を揺るがせた。反対派はというと、敗れた途端に大人しくなり、日当の入った封筒を握りしめて占拠していた庁舎から退出していった。大方の人達は金で動員されたことが判ったのである。
杉並区の勝利は、改めて首長の力を見せつけた一戦であり、首長との関係が今後の採択戦の主要戦略となった。反対派が「つくる会」に仕掛ける巧みなレッテル貼りには感心するのだが、保守側は左翼の教科書を一瞬にして葬り去るようなレッテルを見いだせず、常に宣伝戦では左翼に完敗している状態だといえる。採択戦は一般の国民に対する宣伝戦でもあったのだが、「つくる会」はこの点で有効な手立てをまだ持っていない。

この年の12月、警察庁は平成17年の『治安の回顧と展望』において、中核派について「『「つくる会の教科書採択に反対する杉並親の会』と共闘して、市民運動を装いながら、杉並区役所の包囲行動、教育委員会への抗議・申し入れ、傍聴等に取り組んだ」記述した。公安調査庁は「教育労働者決戦の一環として、教職員組合や市民団体に対し、同派系大衆団体を前面に立てて共同行動を呼びかけた」として、「つくる会」への反対運動における中核派の関与を指摘した。
オール左翼対「つくる会」の構図がはっきりとした戦いだった。この時も韓国からは大挙して日本に押しかけ、採択戦を妨害して回ったのである。杉並決戦では忘れられない想い出がある。
「つくる会」が勝利し萬歳を叫んで歓喜に浸っていたとき、韓国のTVクルーが私にインタビュウーを申し込んできたのだ。今のお気持ちはと聞くので、韓国の人達には残念なニュースだと思うが、あなたたちの内政干渉のおかげで我々はますます燃えて採択を勝ち取ったんだ。韓国人が反対すればするほど「つくる会」の教科書採択は増えるし、韓国批判も増えるぞ、と言ってやったが、カメラマンが途中でスイッチを切り不快そうにしているのを私は見ていた。

つづく

コーカサス3国を旅して(2)

ゲストエッセイ
坦々塾会員 松山 久幸

アルメニア美人とキリスト教

 陸路での国境越えは数年ほど前、ナイアガラの滝見物の折りアメリカからカナダへ車で経験して以来で、今回は車ではなく徒歩であるから、どのような状況になるのか興味津津。至って事務的にジョージア側出国審査を終えた後、スーツケースを押しながら50mほどの国境の橋を渡り、愈々アルメニア側に入る。検問所でビザ申請してから入国審査となるのだが、グループの最後列に並んでいた私の番になって係官は私のパスポートを矯めつ眇めつして見るだけでなかなかハンコを押してくれない。件の係官は何かアルメニア語で喚いているが私にはチンプンカンプンで何のことやら。仲の悪いアゼルバイジャン経由が気に食わないとしても、既に審査を通った我がグループの20名は皆アゼルバイジャン経由なのだから、これも入国拒絶の理由にはならない。流石に私も少し不安に駆られイライラし始めていたところ、我々ツアーのアルメニア人ガイドさんと思しき女性が現れて、その女性が係官にツアー名簿を見せながらガチャガチャやってくれて、やっとのことで係官は嫌々ながらもハンコを押す。入国が叶いほっとする。ガイドさんに聞いたが、彼女も入国に手間取った理由は分からないという。入国遅延の真の理由を知りたいところではあった。
そして愈々アルメニアに入る。アルメニアの人口は325万人で国土の平均標高は1,800mとなっている。セヴァン湖という琵琶湖の2倍の湖はあるが海はない。世界で初めてキリスト教を国教とした国でも知られる。

 バスは山間の道を進み銅の精錬所跡などを窓外に見ながら、山の中のレストランに着く。幹線を逸れてからそこに至る道は鉄柵も何もない断崖絶壁で高所恐怖症の私には寒い思いに駆られた。レストランのメニューは今までの2国と同じで、塩辛くそして香菜がたっぷり。私の食べられるものは限られる。日本に帰ってからの体重計の目盛りが楽しみだ。
その食事をしている時にアルメニアのおじさん2人が現れてエレクトーンとクラリネットで演奏と歌を始めた。2曲目が何と「百万本のばら」で上手な日本語で歌詞も見ずに歌ってくれた。感激の余り大拍手をしてお捻りを持って行ったら「有難う。」と嬉しそうにニコニコしていた。「百万本のばら」は昭和60年代に大ヒットした曲で、表面的なことしか知らなかったのだが、アルメニアに入る前、ジョージアを周っている時にジョージア人の美人の女性ガイドさんがこの曲について解説をしてくれていた。帰国してからインターネットでも調べてみた。ニコ・ピロスマニというジョージア出身の孤高の画家が、偶々出会ったフランス人女優マルガリータの美しさに魅せられ、貧しい中で「百万本のバラ」を彼女に送ったが、その恋は空しく終わったという悲しい物語である。

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 レストランの近くの山間から煙がもくもくと立ち上っている。銅の精錬所の煙だという。
昼食後に向かったところはハフパト修道院。ここに行くまでの道すがら、正装した若者達が色とりどりの風船やテープで派手に飾った車に乗って、クラクションを鳴らしながらまるで日本の暴走族のようにバスの横を追い越して行く。中には車の窓から身を乗り出し窓枠に腰かけ、我々に投げキッスをくれる若者もいる。ガイドの説明によれば若い男女の若者達はいま高校を卒業して成人になった記念に羽目を外しているとのこと。車の中には年配の人も見えるからそれは恐らく肉親か誰かであろう。若者だけの単なるバカ騒ぎではなさそうだ。どこぞの国の成人式のバカ騒ぎとは大違いだ。バスは漸くハフパト修道院に着く。先程の若者達も大勢来ている。成人したことを神に報告に来たに違いない。我々観光客にもみな笑顔を返してくれる。ここハフパト修道院はアルメニア正教会に特徴的なアルメニア十字(聖十字架)で有名である。奥の方にある古びた鐘楼も印象的だ。

 美男美女の若者達に別れを告げ、バスは山間の道を南下していた。ところがこの道は所々に大きな穴のあるデコボコ道だ。バスは右に左に大きく揺れながらゆっくりゆっくり進む。不図懐かしい昔を思い出した。子供の頃の田舎の道もこうだったのだ。いま日本ではこんな悪路にはもうお目に掛かれない。地図で見るとジョージアとアルメニアを結ぶ幹線道路は3本しかない。その一つがこのような状況にある。悪路はやっと過ぎ、バスはアルメニア第3の都市ヴァナゾールを通る。1988年に起きた大地震では25,000人もの死者が出たとのことで、ここヴァナゾールも大きな被害を受けたそうだ。

 バスはアルメニア最高峰のアラガツ山(標高4,092m)の麓を通り抜け、アルメニア文字公園を見た後、暫くして首都のエレヴァンに着く。エレヴァンは人口が119万人で現存する世界最古の都市の一つと言われている。
翌朝、市内観光出発まで少し時間があったので、ホテル近くの24時間スーパーを覗いてみた。早朝で客は殆どいなかったが、商品は様々の物が豊富に並んでいる。全部の値札を見た訳ではないが、物価は少し高いような気がした。

 バスで本日一番に向かったところはアララト山が良く見えるホルヴィラップ修道院。アララト山はアルメニア民族のシンボルとまで言われている山で大小2つから成り、大アララト山は5,165m、小アララト山は3,925mの高さだ。現在は、複雑な歴史が絡みトルコ領内にある。山自体は国境から32㎞のところにあるが、国境そのものは修道院から僅か8㎞のところだ。

 アララト山は旧約聖書のノアの方舟の舞台でもありその形状は極めて美しい。周辺に高い山がなくくっきりと聳え立っているのは富士山とも似ており、我が千円紙幣の裏面の湖に映る山はアララト山ではないかという説まである。今回我々の見たアララト山は頂上近くが雲で蔽われていて惜しい哉全容を確認することは叶わなかった。

 さて、アララト山の景観を一層引き立てるホルヴィラップ修道院の歴史は4世紀にまで遡り、アルメニアの地でキリスト教の布教に勤めていた聖グレゴリウスが13年もの間捕らわれていた所で、その地下牢は今でも残っていた。聖グレゴリウスの努力によりキリスト教は301年に世界で初めて国教として定められた。因みに2番目はローマ帝国、3番目がジョージアである。
我々が祭壇を見学していた丁度その時、若い司祭が香の入った祭具を前後に振りお祈りをしていて、信者と分け隔てなく我々異教徒にもお祈りの所作をされた。祈りの祭具より放たれる独特の煙は聖グレゴリウスの昔からの香のような気がした。
アララト山の頂上まで見られなかったという悔しさはあったが、天気が曇りか雨で山全体が全く見られないという不運は避けられたのだから、これも良しとせざるを得ない。嘗て私はこんな経験をしたのを思い出す。7~8年ほど前、ノルウェーのトロムソに家族でオーロラを見に行ったことがあるが、同じツアー客の中に1年前も来たが1度もオーロラを見られなかったというご家族がいた。お気の毒と言うしかない。私達家族はあの幻想的なオーロラを初めてのツアーで見られたのだから実に幸運だったと言える訳だ。

 バスはエレヴァン方向に引き返し、郊外の街を抜けていた。ガイドさんの案内でバスを降りた所の電柱の上にコウノトリが巣を作っている。辺り一帯の電柱も皆同様である。日本では兵庫県豊岡市のコウノトリが有名であるが、市全体が必死で保護した成果と聞いている。果たして此処のコウノトリはどうなのでしょうか。ガイドさんに聞きそびれてしまいました。アルメニアの現地ガイドさんは余りにも日本語がたどたどしく、かわいそうなくらい。
コウノトリの巣から然程離れていない所に原子力発電所の施設が見えた。ガイドさんの説明では、この原子力発電所はロシア製の旧式型でかなり老朽化しているものの、国内電力事情のかなりの割合をこの発電所に依存しているので、政府も頭を悩ましている模様。アルメニアはまた地震も多く、しかも首都エレヴァンにも近い場所とあって、今や世界で一番危険な原子力発電所だと恐れられているそうだ。

 次に訪れたのがガルニ神殿。アルメニアに残る唯一のヘレニズム様式の建造物である。三方が崖となっていて周囲の景色も良く、嘗ての浴場跡も残されている。帰り際、神殿敷地内の草を刈っている作業員がいて、使用していたのが今まで見たこともない様な三日月型の大鎌。記念写真に収めました。

 山間を縫ってバスはゆっくりと進み、ゲガルト洞窟修道院に着いた。此処は初期キリスト教時代に既に出来ていたと伝えられ、岩盤を穿って造られた洞窟の内部は黒くそしてまた暗く、暗黒の冷たさが肌で感じられる。初期の信者は信仰を隠す為に恐らくこの様な厳しい場所を選んだのではないかとも思う。洞窟内の祭壇では洗礼式が行われていて多くの信者が集まっていた。洞窟を出た所で敷地内に沢山の蜜蜂の巣箱を見掛けたが、初期キリスト教徒も蜂蜜を栄養源にしていたのかな。 
今度の旅も愈々終わりに近づいて来た。アルメニア正教の総本山エチミアジン大聖堂を訪れる。入口近くで、門を出て行く屈強の迷彩服を着た数名の兵士に守られて、軍服の胸の部分にいっぱいの勲章を付けた将軍と思しき男と偶々出くわした。大聖堂でトルコやアゼルバイジャン打倒を祈願して来たのかも知れない。

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 エチミアジン大聖堂は世界最古の教会で、4世紀にその基礎が築かれ現在に至っている。入口を入ると中は広大な敷地で、大聖堂内には大司教座が設けられ、修道士の神学校もある。花壇も整備され、綺麗なバラを主体に様々な花が咲き乱れている。殊に神学校前の白バラの園は見事である。宝物館にはノアの方舟の破片やキリストの脇腹を刺した槍(聖槍)も展示されており我々を古い歴史と聖書の世界へと誘ってくれる。

 この日の最後に訪れたのはエレヴァン市内にあるカスケード。その最も高い場所に「ソヴィエト・アルメニア樹立50周年記念塔」が建っていて、その近くには「アルメニアの母の像」も見える。記念塔が出来たのは1970年で市の中心部に独立後もそのまま建っているのはアルメニアの対ロシア感情を如実に物語っているようだ。因みに、軍隊もロシア軍の支援をかなり受けているそうだ。我が日本の情況も米軍無しでは成り立たず、もしかしたらアルメニア以下かも知れない。「母の像」は類似のものがトビリシでも見られたが、直立の母の姿と真横に持った剣はソ連に遠慮した隠れ十字架になっているとのこと。

 カスケードは階段状の滝のことであるが、水は流れていない。一部工事が中断したままになっていて完成の見通しは今のところないという。しかしエレヴァンの若者達はそのカスケードを楽しんでいて、我々観光客にも優しい笑顔を見せてくれる。上層の方からは市街も良く見え晴れた日はアララト山も展望出来るとのこと。最上階から一番下までゆっくり歩く間に何度か前後しながら顔を合わせていた麗しいアルメニア美人が、下の広場で椅子に腰掛けていて、目の前を通り過ぎる私に小さく手を振ってくれたので、今までの旅の疲れは一挙に吹き飛んだ。

 アルメニアは何と美人の女性が多いことか。世に「世界一の美人が多い国」とも言われるのはどうも真実のようだ。コーカサスという特異な地勢の中で、ヘレニズム、ローマ帝国、蒙古、ペルシャ、オスマントルコ、ロシア等の影響を東西南北のあらゆる方向から強く受け、いや翻弄されたと言った方が適切かも知れない。そういった真に厳しい状況の中で旧約聖書の「ノアの方舟」以来、その息子の子孫として混血を繰り返し現在の美的アルメニア民族が形成されて行ったのではないだろうか。これは私の全く勝手な想像であり単なる思い付きの類と言ってよい。

 ここまで来てはたと思い当たった。アルメニア入国の折り、入国審査官が私の入国許可を躊躇ったのは、人攫いと勘違いしたのではなかろうかと。人攫い即ち美女攫いと(笑)。
カスケードの横にシャルル・アズナヴール博物館(ガイドさんは自宅だと言っていたが)がある。シャルル・アズナヴールはフランス在住の世界的に有名なアルメニア系歌手で、アルメニアに対しても多大の貢献をなしているとのこと。
共和国広場に寄った後、民族音楽と民族ダンスのショーを見ながらの夕食で、ダンスの方はテンポの速いコサックダンスにも似ていて、ここにもロシアの影響が強く感じられる。店は略満席で観光客は我々グループだけで、他の客は皆地元の方のようであった。営業的にもっと工夫すれば、より多くの海外の観光客にも楽しんで貰えるのではないかと思う。民族音楽も民族ダンスも素晴らしいものだったから。

 翌朝、最終日はセヴァン湖とセヴァン修道院を見学。修道院の2棟の建物と湖のコントラストがよい。セヴァン修道院に飾られているイコンの神の姿は蒙古の顔形をしている。嘗て蒙古の軍勢がここに攻め入った時、恭順の意を表す為に、神もその様な姿に変えざるを得なかったのだという。如何に東西の接点とは言え、そこまでしなくてはならなかった小国の民族の悲しい歴史をまざまざと見せつけられ、もし元寇の折りあの神風が吹かなかったならば日本は一体全体どうなっていたか。酷く複雑な思いに駆られた。

 セヴァン湖とセヴァン修道院の見学で今回のツアーは終了しバスは再びジョージアとの国境を目指した。アルメニアとアゼルバイジャンとは宗教も民族も異なり領土紛争をしばしば起こしていて極めて仲が悪く、アルメニアからアゼルバイジャンに直接戻ることは出来ないので帰りもジョージアのトビリシ経由である。

 帰途、ジョージアとの国境まで行く途中に例のデコボコの悪路の続く箇所があるが、一つあるトンネルの中までその悪路は続いていた。しかも道は泥濘である。其処をゆっくりゆっくり通過している時に一悶着が起きてしまった。バスがトンネルの出口に近づいた時、向こうから大型のトラックが入って来てしまった。丁度其処はトンネルが少しカーヴしていてバスの警笛も役立たなかった。大型トラックが何度もバスの横をすり抜けようと試みたが、デコボコの為車体は左右に大きく揺れるし、トンネル自体がかなり狭いので、如何にしても横をすり抜けることは出来なかった。そうこうしている内にお互いの車の後ろは後続車が列を作ってしまい二進も三進も行かない状況になってしまう。中には普通車がちょっとした隙間をすり抜けようとして前に出て来てしまう有様で収拾がつきそうもない。これは一体どうなることかとハラハラしながら見守っていたところ、結局大型トラックがバックすることになり、直ぐ後方にいたもう1台の大型トラックも一般の車も皆トンネルの外に後退し、我々のバスは漸くトンネルから外に出た。乗客皆で我々のバスの運転手さんに拍手した。滅多にない経験ではある。

    結び

 帰りの国境越えは至ってスムーズであった。折しもジョージアの入国審査手続きを丁度終えたところで、係官も吃驚する様な大きな雷が鳴り急に雨も降り出した。しかも大粒の雨で土砂降りになって来た。バスの中からは頻繁に稲妻も見え、時々霰も混じっている。バスはまるで滝の中を走っているかの如くである。

 トビリシ空港に着く頃は運よく雨も止んでいた。出国手続きを済ませ搭乗を待つ間、オマーンからのムーサ一家にまた出会った。ムーサ氏「Oh ! Surprise.」と。一家はアゼルバイジャンとジョージアを観光して帰るのだという。ムーサ氏より、もし機会があればオマーンにも来て下さい、オマーンは山やビーチや砂漠の美しい所が沢山ありますからと。カタール航空の機内に乗り込んだところ、何とムーサ一家は私達の直ぐ前の座席に座っていた。3人のお嬢ちゃん達は座席の前の画面を苦も無く操作し各々違った子供番組を見ている。世の中、斯様な偶然が連続するのも不思議だ。広大なドーハ空港で成田行きのカタール航空に乗り換え、5月30日帰国の途に就いた。

 此度の旅行で気が付いたことは、3つの国で何人かに声を掛けられ、それは決まって「あなたは日本人ですか。」と。他所の国では、支那人や韓国人によく間違えられる。今回はそれがない。

 また、今回の旅では支那人・韓国人のグループには1度もお目に掛からなかった。稀有なことである。3国とも韓国製の車は結構走っていたにも拘わらずである。実にほっとした。今や世界のどんな観光地に行っても彼等は来ている。コーカサスへ行くのは今の内ですよ。

 最後に一言付け加えたいのは、この拙い文の中に所々私のつまらない見解が入っていますが、たった1度の、しかも限られた対象の訪問記でありますから、私の一面的なものの見方で管見に過ぎません。どうかご容赦願いたい。

コーカサス3国を旅して(1)

ゲストエッセイ
坦々塾会員 松山久幸

 コーカサス山脈の南側はアジアである。旧ソ連から独立したアゼルバイジャン・ジョージア(グルジア)・アルメニアの3カ国はコーカサス3国と呼ばれ、それぞれ特異の歴史と文化を持っている。或る旅行社のツアーに参加し5月の下旬に彼の国々を訪れた。

アゼルバイジャンの炎

 5月23日夕刻、成田空港を出発しカタール航空でカタールのドーハまで飛び、恐ろしく広大な空港で便を乗り継ぎ、翌日午前アゼルバイジャンの首都バクーに到着した。機内の窓から、滑走路より少し離れた草地に小銃を手にした1人の兵士の姿が見える。予め用意した査証も提出して入国手続きを済ませ空港の外に出た。東京と似たような気温だ。外から見た空港ビルは派手で超モダンな造りである。

 大型観光バスでそのまま市内観光に繰り出した。アゼルバイジャンの人口は904万人、首都バクーの人口が300万人。石油で昔から世界的に有名だ。近代的なビルも多く散見され、車も日本車を含め高級車が多い。いま世界の注目を集めているアメリカ大統領候補ドナルド・トランプ氏の高いビルが目に入った。後で分かったことだが、このビルは90%出来たところで工事は頓挫したままだそうだ。

 市内観光でまず訪れたのは「殉教者の小道」。1991年のソ連からの独立に立ち上がって犠牲となった英霊の墓が小道に整然と並び、黒の墓石には英霊の顔も一人一人刻まれている。お墓には赤いカーネーションの花が1本ずつ手向けてあった。ただ彼等英霊は宗教的犠牲者ではないのだから、「殉教者」とするのには違和感がある。その小道の先が高台になっていてカスピ海やバクー市街が一望出来、海沿いにある長いポールに掲揚された巨大な国旗が悠然と身をくねらせていた。因みに、カスピ海は世界最大の塩湖であるが、その塩分は通常の海水の3分の1だそうです。
 高台からの雄大な眺めに浸っていると若いギャルから声を掛けられた。聞けばトルコから来たという女子学生2人。私が日本から来たことを伝えると、並んで写真を撮りたいと。トルコは紛れもない親日国なので安心したのかも知れない。
 バスは高台を下って旧市街に入った。世界遺産になっているその旧市街は然程広くない。まずシルバン・シャフ・ハーン宮殿と乙女の塔を見学。16世紀まで栄えていた王宮の跡で霊廟、モスク、浴場跡などが残っていてこじんまりした感じだ。乙女の塔の周りを燕がいっぱい飛び交っている。

 驚いたことに、この旧市街を中心とした広くもない道路で6月の17日18日19日の3日間、F1グランプリレースが行われるという。街のあちらこちらにスタンド席を設け防護フェンスなどが用意されていた。普段の日でも道路はかなり混んでいるというのに、開催中はどうなることやら。

 アゼルバイジャンはイスラム教の国である。しかしチャドルを身に纏った女性にはとんとお目に掛かれない。モスクも何処にあるのか分からない。緩やかなイスラム国家であることは確かだ。

 翌朝、バクー郊外にあるゴブスタン遺跡見学に向かう。カスピ海に沿う道は半砂漠で荒涼としている。海上には所々油井も見え、途中BTCパイプラインの起点になる施設もあった。Bはバクー、Tはトビリシ、Cはトルコの地中海沿岸都市ジェイハンの頭文字で全長1,768㎞。口径は凡そ1,000㎜。輸送能力は日産100万バーレルで2006年に完成した。距離的にはバクーからアルメニアを通りジェイハンに繋げば近い筈なのに、アゼルバイジャンとアルメニアは昔から仲が悪く、最近も地域紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争)で武力衝突したこともあり、パイプラインは大きく迂回してジョージアのトビリシ経由となっている。因みに、このパイプラインはイギリスのBPが主導出資し、日本の伊藤忠商事と国際石油開発も若干出資している。

 バスは1時間ほどでゴブスタン遺跡に到着し、まずは其処の博物館を見学。中の展示物を一通り見て外に出た時、オマーンから見えたというムーサ一家に偶然出会う。話を聞くと可愛いお嬢ちゃん3人とご夫妻で個人観光だそうだ。ご主人はきりりとしたビジネスマンで6年前に仕事で日本に来て地方も含め各所を周り、日本に対して大変好印象を持ったという。ご夫人も綺麗な方でしっかりとチャドルを着用していた。名刺交換したあと「Have a nice day !」と言ってご一家と別れ、遺跡の見学に向かう。

 ごつごつした岩石に、人間や牛、蛇などの動物、小舟、太陽、星などが5,000年から2,000年くらい前の人類によって描かれたこの遺跡は貴重な遺産である。岩々を巡る道すがら、2mもありそうな蛇やイグアナを小型にしたような蜥蜴達にも出くわした。あたかも我々を歓迎してくれているようにも思われた。

 市内に戻って昼食を摂ったあと、バクー市街の外れにあるゾロアスター教の寺院を訪れる。敷地中央の祭壇からは消えることもなく怪しげな火が燃え盛っている。昔はその地下の天然ガスを引いたものであったが、今は他所からパイプで引いて来ているという。自然と宗教が密接に結び付いている証左ではないかと思った。ゾロアスター教は光(善)の象徴として「火」を尊ぶため拝火教とも呼ばれる。最高神アフラ・マズダの名を取ったものに、マツダ(MAZDA)自動車や東芝のマツダ電球などがある。ニーチェの著作「ツァラトストラはかく語りき」のツァラトストラはゾロアスターの独語読みであることは言うまでもない。拝火教寺院の帰り道、周囲に沢山の油井を見た。アゼルバイジャンの石油の多くは、今ではカスピ海の海底油田によると聞いていたが、陸上の油井も直に見ることが出来た。

 トビリシへ向かう飛行機にはまだ時間があったので市の中心街からほど近い海沿いの公園を散歩する。季節も良く公園には色とりどりの様々な花が咲き乱れ目を楽しませてくれる。夕刻、同じカタール航空でバクーからジョージアのトビリシに飛んだ。日が暮れるのは遅く、眼下の景色は半砂漠から緑に変わって行くのがはっきり見て取れた。

ジョージアの道

 ジョージアはロシア革命後の1918年5月26日にロシア帝国の支配を脱し一旦は独立したものの1921年、ソ連の侵略を受けてその支配下に入ってしまう。ジョージアはこの5月26日を独立記念日としており、我々がトビリシに着いたのがその前日に当たり、記念行事の準備で市内各所は交通規制が敷かれ、宿泊先のホテルまではバスからタクシーを乗り継ぐという方法が取られた。しかしタクシーは狭い道路の大渋滞に嵌まり込んで殆ど身動きが取れず、ホテルに着いた時には疲労困憊の状態であった。ホテルの部屋にも独立前夜を祝ってか花火の音など聞こえて来たが、そのまま深い眠りに就いた。

 翌26日は独立記念日である。ジョージアの人口は372万人で首都トビリシの人口は112万人。記念行事の行われる市の中心部は避けてジョージアの古都ムツヘタの方に向かい、まずは川沿いの小高い丘の上に建つジュワリ聖堂を見学する。ジョージア正教の教会で黒の礼服を纏った神父さんがいて我々を出迎えてくれた。この神父さん、三国連太郎に実によく似ている。小振りな建物ではあるが其処からの眺めは良く、昔は辺りに睨みを利かす要塞的な砦の役目もあったのだろう。世界遺産古都ムツヘタも目の前に一望出来る。

 次はムツヘタにあるジョージア正教のスヴェティツホヴェリ大聖堂を見学。6世紀、都がトビリシに移るまでジョージア正教の中心であった。ジョージア最古の教会であり、ジョージア人にとっての聖地でもある。歴代の王や貴族は皆ここに埋葬されているという。建物は至って重厚な造りだ。この大聖堂の裏にある庭園を散歩していた時、イギリスから見えた老紳士に声を掛けられた。勿論ご夫人も一緒である。私が日本人であることを疑っていなかった。

 観光バスの駐車場から大聖堂までの道には土産物屋やこ洒落たレストランも幾つかあったが皆、長閑である。門前は売らん哉の姿勢より、このような長閑さが私は好きである。

 さて次にバスは愈々ジョージア軍用道路を走った。トビリシから大コーカサス山脈を越えロシアのウラジカフカスまでの全長210㎞のアジアとヨーロッパを結ぶ交通の大動脈である。ロシア軍により1799年に建設が開始され1817年に一応完成はするがその後1863年まで道路の拡張工事は続いたという。

 世界に軍用道路として作ったものは夥しく有るに違いない。しかし現在その名称を残している有名な軍用道路は、ここ以外寡聞にして知らない。ジョージアは今でもこの道路を「軍用道路」と呼んでいるが、嘗てはロシア帝国の、そしてまたソ連のジョージアやアルメニア支配の要であったことは容易に察しが付く。この道路の完成によってロシアによる侵略は確かなものとなり、ジョージア人にとっては屈辱以外の何物でもなかったであろう。恐らくこの事実を民族の忌まわしい記憶として永く後世に伝えんとして、敢えて現在でもこの名称で呼んでいるのだと私は確信する。

 軍道に入って最初に訪れたのはアナヌリ教会である。静かなジヌヴァリ湖と美しい森林を背景にして建つ要塞建築の教会である。この日は独立記念日とあって学校が休みの為か、多くの子供達が見学に訪れ、説明員の話を熱心に聞いていた。我々のガイドさんに案内されて橋の上から絵葉書的構図で教会をカメラに収める。

 バスは軍用道路を上りグダウリというリゾート地に至る。周囲はコーカサス山脈が迫りなかなかの景観である。昼食のレストランの入口に2匹のシベリアン・ハスキー犬がいて我々を出迎えてくれた。日頃、日本で見るハスキー犬とは異なり毛も少しふさふさしていて目もあの獰猛さがなく人なつっこい感じがする。皆で代わる代わるその頭を撫でてあげた。スキー用リフトも近くに見えるがスキー用の雪は今はない。

 軍用道路を更に上って行くが、道路上を牛が三々五々のんびり歩いていたり、道路いっぱいの羊の大群に出くわしたりもする。車はその羊の大群の様子を楽しみながら通り過ぎるのを待つ。警笛を鳴らすような野暮なことは誰もしない。
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 バスはジョージア軍用道路で最も高い標高2,395mの十字架峠に至る。其処から眺める雪を頂く5,000m級の雄大な山々が連なる大コーカサスの景観は圧巻である。
 バスは更に奥地に入って行くと、大型トラックが軍用道路の片側に延々と連なっているのに出くわした。ロシアとの国境に近くその通関待ちだという。最後列のトラックが今日中に果たして通関出来るのか知らん。
 バスは通関待ちの大型トラックの横をすり抜け国境の村ステパンツミンダに入る。西の方角にあるのはコーカサス山脈の中でも有名なカズベキ山(標高5,033m)で、山頂は残念ながら雲に隠れて見えない。その手前側の山の上に建つツミンダ・サメバ教会(聖三位一体教会)は小さいながらくっきりと見える。本来はこの教会に四輪駆動の車(三菱自動車製)で登る筈であったが、途中の道路の水道管が破裂したとかで道路閉鎖になり登れない。今回の旅行の目玉の一つでもあった「空に浮かぶような天空の教会」は、麓から遥か遠くで眺めるしかなかった。村の東側にも雪を頂く急峻な岩山が屏風のように聳え立って眼前に迫り真に美しい景観である。国境の両替所はルーブル、ドル、ユーロの順でその交換比率を表示していた。

 帰途、ツミンダ・サメバ教会に登って行く道の入口の村にバスは入る。バスが停車した丁度目の前にある草地に、まだ生まれたばかりかと思われる仔馬が母馬の乳を吸っていた。仔馬の脚はよろよろしていて覚束ない。都会暮らしにはなかなかお目に掛かれない光景ではある。歩いてその辺りを散策す。様々の山野草の花が目を楽しませてくれる。

 行く時にも見えていたロシア・ジョージア友好記念塔なるものに立ち寄った。1983年に出来たというから、ジョージアがまだソ連領だった頃に作った代物で、実にけばけばしく毒々しい色彩だ。友好200年の記念として作ったものらしいが、占領200年の屈辱の証でしかない。「友好」なる名の付くものは全て警戒して当たった方がよい。

 トビリシ郊外のレストランで夕食。身なりのきちっとした清潔そうな好青年がバイオリンで数曲演奏してくれた。その内の1曲は「ある愛の詩」。実に懐かしい曲だ。料理は塩辛くそして香菜だらけで辟易したが、バイオリン演奏は流れるような旋律で情趣に溢れ心を和ませてくれた。但し、投宿のホテルまでは例によってバスからタクシーに乗り継いだものの、タクシーはまたしても大渋滞に嵌り独立記念日のトビリシの交通事情を痛いほど味わった。

 翌朝は悪夢の交通事情も平常に戻りホテル前よりバスに乗り込むことが出来た。トビリシ市街の中心部を流れるムトゥクヴァリ川(クラ川)のほとりの丘の上に建つメテヒ教会を訪ねる。この教会は目下修理中。丘の上からは旧市街を見渡すことが出来、その景色は素晴らしい。眼下の川はトルコに源を発しトビリシを通過してアゼルバイジャンからカスピ海に注ぐ。コーカサス3国を流れる川は押並べて泥川で清流にはとんとお目に掛かれない。日本の川が如何にきれいか我々はその恩恵を忘れるべきでない。但しトビリシのその川に架かる目の前のSF的な橋は頂けない。イタリアの然る有名な建築家がデザインしたものらしいが、歴史的街並みには全くそぐわず私には折角の景観を唯ぶち壊しているとしか思えない。

 丘を下り川の反対側の下町風情の所を歩きシナゴーグの前まで来た。ガイドが交渉したが我々非ユダヤ人には冷たく、門の内には入れてくれない。その直ぐ近くにあったジョージア正教の総本山シオニ教会は誰でもウェルカムで中に入ることは自由。創建は6世紀だそうで、シオニの名はエルサレムのシオンの丘から取られているそうだ。ジョージアにキリスト教を伝えた聖ニノの十字架や数多くのイコンが飾られている。通りすがりの現地の人々がちょっと立ち寄ってお祈りを捧げて行くのを見ると、我々日本人が神社に気軽にお参りするのとよく似ているなと感じた。

 ソロラキの丘の上に立つジョージア母の像を見上げながらトビリシをあとにし、バスはアルメニアとの国境の町サダフロに向かう。

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