日本をここまで壊したのは誰か(七)

日本をここまで壊したのは誰か
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政治と経済一体の考察を促す刺激的論文集 
『正論』8月号より 関岡英之

 本書の表紙を書店の店頭で目にした人は度肝を抜かれるにちがいない。『日本をここまで壊したのは誰か』という表題のもとに、河野洋平、小沢一郎、鳩山由紀夫等といった政治評論では常連の所謂「売国政治家」とともに、日本経団連の歴代会長を含む財界首脳陣の名が俎上にあげられているからだ。まず、こうした書籍を刊行した版元、そしてそれを書評でとりあげようという本誌編集部の英断を賞賛したい。なぜなら、我が国にはスポンサータブーという名の、もう一つの「閉ざされた言語空間」が厳然として存在するからだ。

 著者の西尾幹二氏は、かつて「保守論壇を叱る 経済と政治は一体である」という論文で「日本のエコノミストはもっと自覚的に政治意識を持って語ってもらいたいし、政治評論家は現代では経済を論じなければ現実を論じたことにならない」と喝破した。当該論文は西尾氏の『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』(PHP研究所、平成17年刊)に収録されているが、その指摘するところがあまりにも重要であるため、評者が編集したムック『アメリカの日本改造計画』(イーストプレス、平成18年刊)にも再録させてもらった。その後、『別冊正論』が平成19年に「世界標準は日本人を幸福にしない―教育、医療、年金、経済・金融…平成「改革」を再考する」という画期的な特集を組んだ。政治と経済を一体で論じる思潮は、まさに西尾氏が切り開いてきたと言えよう。

 そうした観点からすれば、本書の白眉は「トヨタ・バッシングの教訓 国家意識のない経営者は職を去れ」と「アメリカの『中国化』 中国の『アメリカ化』 日本の鏡にはならない両国の正体露呈」という二つの論文であろう。前者の論文からは、米国の官民総出で展開された「トヨタ潰し」を単に企業の説明責任や危機管理の問題と論じてしまう多くの識者がいかに浅薄で、国家間と戦略眼を欠いているかが判然とする。そして後者の論文が指摘する中国の「アメリカ化」こそ、政治と経済を一体で考察することが今の我が国にとってなぜ重要なのか、まさにその核心なのである。

 かつて小泉政権下でM&Aの規制緩和が推し進められた。その徒花だった「ホリエモン」や「村上ファンド」は虚しく消え、仕掛けた米国は市場原理の暴走で自爆した。そして今や、開け放たれた窓から我が国の優良企業を狙っているのは中国だ。企業だけではない。我が国の水源である森林が中国のダミー会社に買い集められ、シャッター通りと化した全国の商店街では中国資本による「チャイナタウン化」計画が水面下で画策されている。その一方では中国移民が急増し、いつの間にか韓国・朝鮮系を抜いて在日外国人の最大勢力となり、永住権を獲得し始めている。米国が種を播いたグローバリゼーションの果実を中国が刈り取らんとしている現実こそ、我が国の存立を脅かす未曾有の国難なのだ。

文:ノンフィクション作家 関岡英之

日本をここまで壊したのは誰か(六)

日本をここまで壊したのは誰か 日本をここまで壊したのは誰か
(2010/05/22)
西尾幹二

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石井英夫の今月この一冊(WiLL-2010年8月号より)

 ルービー鳩山の唯一の功績は小沢と抱き合い心中したことだけ。そのためⅤ字回復したイラ菅丸だが、荒海の辺野古沖で座礁することは目に見えている。にもかかわらず自民の支持率は下がったまま水没寸前のありさまだ。

 一体、この国はどこへ行こうとしているのか。だれもが疑心と不安でいぶかっている時、この本が出た。収められた評論の多くは、今年の二月から四月にかけて集中的に書かれたものだから、まだほやほやの湯気が立っている。

 ともあれ自民党の不信は目を覆わしめるが、なぜこうもだらしないのか。そこで今なお再起できない自民党政治の総括が巻頭にある。「江沢民とビル・クリントンの対日攻撃になぜ反撃しなかったのか」と題した「自民党の罪と罰」という一章である。せっかくの書き下ろしなのに、ちょっと古ぼけたタイトルは解せないが、「教科書」と「靖国」と「拉致」の三つを重要なキーワードと見てのことだったのだろう。

 著者はまず日本をおかしくした最初の一人として宮澤喜一を挙げている。従軍慰安婦強制連行というありもしない歴史事実を認めてしまい、韓国にしなくてもいい謝罪をしたのは宮澤内閣の河野洋平だった。その宮澤は鈴木内閣の官房長官時代に、やはりありもしない検定教科書の「侵略」誤認問題を引き起こしている。

 しかし教科書と靖国という象徴となる二つの対中韓外交で、全面敗北の足跡を残したのは中曽根康弘であり、中曽根・後藤田コンビは歴史を売り渡した、と手厳しい。たしかに歴史で外交することを許してはいけない。さらに、拉致を誘発したのは福田赳夫のダッカ事件の不決断だったと歴代首相をなで斬りする。

 比較的頼りになりそうな印象を残したのは小渕惠三だけで、安倍、福田、麻生の小泉亜流たちは、失望を絶望に変えた、と筆鋒するどい。

 だらしなさが継続した原因はどこにあるか。それは各首相に国家意識が欠如していたからだという著者の指弾に納得する読者は多いだろう。しかし菅直人新首相もこれまで確固たる国家観や歴史観を披瀝(ひれき)したのを聞いたことがない。沖縄が地政学的に見て国防の要であることを県民にしかと説明できるかどうか。この男もまた「日本をここまで壊した」首相にならぬことを願わずにはいられない。

 もう一つの読みどころは「外国人参政権 世界地図」。『WiLL』誌22年4月号に載ったもので、恐るべき各国の報告だ。

 アメリカ、オーストラリア、カナダのような典型的な移民受け入れ国家ですら、永住外国人に国政選挙はもとより地方参政権すら簡単には認めていない。デンマーク、ノルウェーなど北欧四国も非常に警戒的であり、限定的である。それは取り返しのつかない不幸な悲劇を目の前に見ているからだとオランダとドイツの例を挙げている。

 オランダは地方参政権を認めたことにより彼らはゲットーを形成し、社会システムを破壊した。ドイツもまた国家意志が「沈黙」を強いられているというのだ。

 菅内閣はこの難題にも立ち向かわなければならない。首相よ、何よりもまず国家戦略を語れ。本書の提示する警告は、深い洞察に満ちている。

文:石井英夫

日本をここまで壊したのは誰か(五)

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日本をここまで壊したのは誰か
書評:花田紀凱(『WiLL』編集長)

自国への痛憤、警告の書

 昭和23年、中学一年生の時、授業で偉人と思う人間をあげよと言われ、西尾少年は豊臣秀吉をあげた。

 先生は恐ろしい表情でニラみつけ、秀吉は何人もの女性をものにした独裁者、大嫌いだと全否定した。

 その日の西尾少年は先生を断乎(だんこ)許さないと誓ってこう書く。日記は毎日先生に提出することになっていたから当然、先生が読むことを見越して書いたのである。

僕は先生がどうだろうとも、僕は僕の信じる道を押し通した。(中略)封建時代の人間は、封建主義が正しいのだと思い込んでいるのだから、そのときの偉人なら偉人としておいても良いと思う。民主主義でも現在は最上主義とされていても、あとにはどうなるか。それは誰にだって見当のつくものではない

 今の言葉で言えば、現在の基準で過去を裁けないということだろう。

 その同じ年、東京裁判の判決が下る。西尾少年は、新聞記事を切り抜いて貼(は)ったノートに被告の名前、量刑を全(すべ)て書き写し、こう書いた。

日本が勝っていたらマッカーサーが絞首刑になるんだ

 中学一年にしてこの言。栴檀(せんだん)ハ双葉ヨリ芳(かんば)シ、とはまさにこのことだろう。

 それから60年たって、今、西尾さんは日本という国が心配でならない。

 国家として自立自存とは逆の方向へ向かい、明確な国家像もなく、茫々(ぼうぼう)たる海洋をひたすら漂流している幽霊船のような日本が、我慢ならない。

 たとえばトヨタ・バッシング。

 西尾さんは、これを「アメリカの日本に対する軍事力を使わない軍事行動」と見る。

 たとえば外国人参政権。

在日韓国朝鮮人に地方参政権を認めることは、政治的破壊工作の手段を彼らの手に渡すことにもほぼ等しい

 こんな簡単なことさえわからない日本の政治家、財界人。

言論のむなしさと無力を痛切に実感

しているが、それでも

自分と自分の国の歴史を見捨てる気にはなれない

西尾さんの、これは日本に対する痛憤、警告の書である。

産経新聞6月20日より

日本をここまで壊したのは誰か(四)

宮崎正弘氏の書評

 最新刊の拙著『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)について、宮崎正弘さんがメルマガで次の書評を寄せて下さいました。謝して掲示させていたゞきます。

西尾幹二『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)
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 『犯人』を逐一列挙せずとも西尾ファンなら明瞭である。それにしても日本をひどく劣化させ、国家の体をなさないほどに破壊し尽くした政治家とは福田赳夫、中曽根康弘、後藤田正晴、宮沢喜一、河野洋平、小泉純一郎、鳩山由紀夫、小沢一郎ら。

 財界人は奥田トヨタ元会長にして経団連会長、御手洗富士夫前会長、小林陽太郎に北城格太郎もリストにのぼる。

 いずれもささいな目先の利益のためには北京への土下座も辞さない、こざかしい商人(あきんど)らである。かれらのうちの何人かは「商売の邪魔になるから靖国神社へ行くな」と首相に進言したりもした。
 
 平林たい子は生前に中曽根康弘を評して「鉋屑(かんなくず)より軽い」と言ったか「鉋屑ほど軽い」と言ったか。

 ただしくは「鉋屑のようにぺらぺら燃える」と言ったらしい。

 青年将校として青雲の志を抱いて政治家となり「改憲」に政治生命をかけると放言した中曽根は、やがて左翼とくんで構造改革なる日本破壊をやってのけた。
 
 ともかく中曽根大勲位は中国に巧妙に脅されるや、ある日突然、靖国神社参拝をやめた元凶であり、その権力中枢にいた後藤田は日本破壊謀略まがいの政策を実践し、外国を裨益させた極左官僚である。後藤田を『カミソリ』とかなんとか、ほめるやすっぽい評論家もいるが、いい加減にしろ、と怒鳴りたくなる。

 保守陣営がともすれば誤解しがちな、高い中曽根評価を根底からひっくりかえす著者の抜刀した白刃は、河野洋平などの雑魚はともかくとして、やはり保守陣営に人気が高い小泉政治をばっさりと切って捨てる。

 西尾氏は小泉純一郎を「狂人宰相」と比喩した。保守期待の安倍晋三への評価も低かった。

 それぞれ具体的にどこが、どうおかしいかは本書に当たっていただくにして、本欄では次の紹介をしておきたい。

 「私が小泉政権時代に一番おそれていたのは、日本人の金を積んで北朝鮮の開国に突っ走るのではないかということでした。核開発の可能性を捨てない国家に巨額援助をするのではないかということでした。彼は皇室の祭祀も『行政改革』の対象と考えていた節があり、女系天皇にも平然と道を開こうとした」、まるで「デタラメな人物でした。それが強権を発動することができた。同じことがいま、小沢を中心におこっているのです」(本書97p)。
 
 「(ながい歴史を通じて培われてきた日本人の)アイデンティティが徐々に徐々に無自覚の形で失われてきている。現在の権力喪失状態、さきほどいった砂の真ん中から穴があくような、何となく活性化しない無気力状態になった。物を考えなくなってしまった。戦おうとしなくなった。自分たちのアイデンティティを本当の意味で政治権力まで高めなければ自分たちが守れなくなる、自分を守れなくなるという自覚がなくなってきた」(226p)。
 
 したがって、現代日本は「清朝末期」のごとし、と西尾氏は比喩する。
 
 そうなった時限爆弾はいつ仕掛けられたか。それはGHQが置きみやげの焚書、占領政策の洗脳により、日本人が日本人としてのアイデンティティが徐々に徐々に喪失したのである、と分析されるのである。

日本をここまで壊したのは誰か(三)

 「経済大国」といわなくなったことについて―――あとがきに代えて

 ここでわれわれがなすべきは何がなされたかの苦い現実を正確に知り、希望的観測などで自分をごまかさないことである。

 日本人は自分をごまかしてきた古い記憶がある。昭和20年(1945年)の敗戦の際にわが国に起こったことは米軍による「解放」ではなく「占領」であり、しかも米軍は一時的な短期の「占領軍」ではなく「征服者」であった。また日本に起こったことは、一国による「征服」であった。その後アメリカは戦争を世界各地でくりかえしたが、朝鮮戦争でも、中東戦争でも、湾岸戦争でも、日本に対してなされたような戦後の社会と政治まで支配する征服戦争は一度もなかった。ドイツに対してもなかった。ドイツに対しては連合軍の勝利であり、戦後は四カ国管理であった。

 軍事占領下の日本において戦争は終わっていなかったといっていい。大東亜戦争ではなく「太平洋戦争」という名の戦争が仕掛けられ、戦争はひきつづき継続していたのだが、誰もそのことを深く自覚しなかった。史上最も温健な占領軍という評価だった。だからそれを「進駐軍」と呼び、敗戦を考えたくないので「終戦」と言った。そして経済復興にだけ力を注ぎ、さらに反共反ソの思想戦にだけ熱心だった。後者はアメリカと手を携えての共同行動だった。それが保守とよばれた勢力の主たる関心事だった。私もその流れに棹さしていたことを否定するつもりはない。

 日本人はこのように戦後ずっと苦い現実を見ないで、希望的観測に身を委ね、自分をごまかしつづけてきた。1989年から91年の「冷戦の終結」という新しい事件を迎えても、また同じ自己韜晦をくりかえしてこなかっただろうか。それが江沢民とクリントンに仕掛けられた新しい「戦後の戦争」に再び敗れて、今日この体たらくに陥っている所以ではあるまいか。

 2009年に自民党から民主党への政権交替が行われた。鳩山内閣は沖縄の基地問題で、日米の政府間交渉の手続きも何も踏まずにいきなり変革を求めたことで、幼い不始末を天下にさらした。その愚かさは罰せられなければならないが、しかし、国内に外国軍による「征服」の証しがいつまでも存続することへの疑問にいっさい蓋をしてきた自民党にも責任がある。鳩山由紀夫氏が総理になった直後に「日米対等」を口にしたのは何の用意もない学生風の出まかせとはいえ、この小さなナショナリズムが国民をして民主党を勝たせた理由の一つでもあることに、保守側も謙虚でなければいけない。

 基地問題を旧に復し放置することはもはや許されなくなった。民主党の間違いは、沖縄の基地に何らかの変革を加えたいのなら、まずは憲法を改正し、名実ともに国軍の位置を確立し、アメリカ軍から信頼の得られる軍事力を備えることから着手すべき点である。いけないのは順序を間違えていることである。

 私はアメリカ軍を日本列島から排除したらいいなどと言っていない。それは軍事技術上からみて現実的ではないだろう。日本艦隊がアメリカ軍と共同して太平洋を管理するというような成熟した両国の関係が生まれるのが理想で、今のような一方的依存関係から徐々に脱することが目標とされるべきである。

 政治、経済、外交、軍事の四輪がほぼ同じ大きさでバランスをとってはじめて車はうまく回転し、スムーズに前進する。経済だけが大きく、経済に外交と軍事の代行役を押しつけるような「経済大国」でなくなっていくことは、むしろこれからの日本にとって幸いと見なすべきではないかと思っている。

 本書のまとめと出版に当たっては草思社の木谷東男氏からお世話いただいた。各論文を最初に掲載してくださった各雑誌の担当者とともに、諸氏に感謝申し上げたい。

2010年4月20日

西尾幹二

追記

 本書の「トヨタ・バッシング」の教訓――国家意識のない経営者は職を去れ」には、補記(65-76ページ)が加えられている。これは雑誌には書かれなかった新稿である。「アメリカ・オーストラリア・シーシェパード」とでも補記にも題をつけた方がよかったかもしれない。イルカ・鯨問題の根は深い。白人植民地主義の人種差別感情が関係している。補記は第一次世界大戦をめぐる日豪間の外交衝突と、第二次世界大戦を誘発した米豪接近の怪しい歴史を描いている。

日本をここまで壊したのは誰か(二)

「経済大国」といわなくなったことについて―――あとがきに代えて

 最近日本人は「経済大国」という言葉を気羞しくて使えなくなっているような気がする。いい傾向である。世界には「大国」と「小国」はあるが、「経済大国」などという概念は存在しない。

 あんなに貧しかった中国が経済力を外交や政治に使い始めるようになって以来、日本人はこの言葉を用いなくなった。それまで長い間、日本は経済力があるというだけでそれを国際社会の中で政治力と誤認してきた。外交も防衛も経済力に肩代わりさせてきた。しかし経済力がそのまま何もしないで政治力になるわけがない。そう錯覚する時代は終わった。それを終わらせたのも中国の台頭である。

 ずっと以前からアメリカの経済は政治力であった。経済が「牙」を持っていた。経済で戦争もしていた、と言いかえてもよい。日本の経済には牙がなかった。軍事力を使えないからカネを出す。アメリカとは逆だった。しかし貧しかったはずの中国の経済には、貧しい時代の最初から「牙」があった。中国は日本から援助を受けながら、アフリカなどに援助して、着々と政治力を育てていた。

 最近クロマグロの禁漁か否かを決める国際会議で、中国がアフリカの票をとりまとめて政治力を発揮し、日本に協力した一件は記憶に新しいが、日本も永年アフリカに援助していたはずなのにいっこうに政治力を身につけていない。

 経済で外交や防衛の肩代わりをするのではなく、経済が国家の権力意志を表現し、自己を主張して他国を支配する手段としての役割を日本は果していない。しかし経済が「牙」を持たない限り、経済それ自体もうまくいかなくなるのだ。すなわち経済が自分を維持することさえ難しくなる、そういう状態に日本は次第に追いこまれつつあるように思える。そのことにいまだ気がつかないのは、外交官や政治家だけではない、経済は経済だけで翼を広げられると思っている現代日本の能天気な企業家たちである。

 ボーダレスとかグローバリズムとか多国籍とかいって、国家意識を失っているのが今の経済人である。トヨタ事件は日本側の技術や経営の問題では決してない。トヨタの油断や新社長の失策の話でもない。アメリカという国家が発動した政治的行動である。軍事力を使わない軍事行動であった。

 これを契機に私は永年抱いていた経団連や日経連を代表する人々への疑問、彼らが政治を動かし外交を捩じ曲げてきた十年来の言動の問題点を、本書で初めて取り上げ、明らかにしようと思った。

 十年より前には、私の考える国家像と政治観は、いま挙げた経済団体の代表者の方々との間でそう大きなへだたりはなかった。それどころかむしろ財界には知友も多く、私の読者と考えられる支持者も少なくなかった。

 歴史教科書と靖国と拉致は三つの象徴的タームである。重要なキーワードとしての役割をここ十数年の日本人の政治意識の中で果している。左翼がこれに反対するのなら分かる。そうではなく財界人をはじめ保守的な階層の人々が承知で問題の所在をあえて知らない振りをするようになった。日本社会は急に変質し始めた。中国の台頭と自民党の崩壊は並行して進んだ。

 なにか新しいことが始まっている。

 本書第一部はその問題を考えた。四篇の評論は平成22年(2010年)の二月初旬から四月半ばまでの間に集中的に書かれた最新の文章である。

 なにか新しいことというのは大元に根があり、原因がある。しかも新しい事態、この変質は突き止めておかずに放置しておくと取り返しのつかない国家の衰弱につながりかねない。

 近い原因は1993年から中国とアメリカに江沢民とクリントンの反日政権が生れたことである。両政権は「経済大国」日本を解体させるというはっきりとした戦略的な攻撃を開始していたのに、日本人はぼんやりしていて、最近まで気がつかないか、あるいは今も気がついていない。そしてそのことは勿論80年代またはその以前に遡って原因があり、歴史的に考察するべき根を持っている。旧戦勝国による日本の「再敗北」、もしくは「再占領」という事態が進行しているといっていい。本書はその流れを示唆的に解明しようと心掛けた。

 日本は本来あるべき方向、国家としての自立自存とは逆の方へ向かって変化し始めている。しかもどこへ向かうのか明確な国家像もなく、茫々たる海洋を諸国に小突き廻されながらただひたすら漂流している幽霊船のようである。

 昭和43年(1968年)頃ハーマン・カーンは21世紀に日本は名実ともに世界一位の国になり、「日本の世紀」が訪れるだろうと予言した。わが国はそれに近い所まで登りつめて、そのあと腰が折れて実際にはそうならなかった。

 外からの激しい破壊工作(ボディブロウ)に、何がなされているかも気がつかずに打撃され、ぐらっぐらっと揺れて倒れかかっているのである。

つづく

日本をここまで壊したのは誰か

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 新刊が店頭に出始めましたので、ご紹介します。

日本をここまで壊したのは誰か(草思社 1680円)

   第Ⅰ部

江沢民とビル・クリントンの対日攻撃になぜ反撃しなかったのか
―――自由民主党の罪と罰

トヨタ・バッシングの教訓
―――国家意識のない経営者は職を去れ

左翼ファシスト小泉純一郎と小沢一郎による日本政治の終わり
―――EU幻想と東アジア共同体幻想

外国人地方参政権 世界全図
―――なかでもオランダとドイツの惨状

  第Ⅱ部

アメリカの「中国化」 中国の「アメリカ化」
―――日本の鏡にはならない両国の正体露呈

私の人生と思想
―――中学一年生のときの恩師との論争から

「世界で最も道義的で公明だといわれる日本民族を信じる」(フランス紙)
―――日本が「列強」の一つであった時代

日本的王権の由来と「和」と「まこと」
―――『国体の本義』(昭和12年)の光と影

日本民族の資質は迎合と諂(へつら)いにあるのか
―――シベリア抑留者のラーゲリ体験より

  第Ⅲ部

講演 GHQの思想的犯罪

「経済大国」といわなくなったことについて
―――あとがきに代えて

初出一覧

『保守の怒り』の目次

 『保守の怒り――天皇・戦争・国家の行方』(草思社)の目次を紹介します。

 慣例に従い「まえがき」は平田文昭氏が、「あとがき」は私が書いています。この本の成り立ちの由来と同書にこめた二人の思いが語られています。以下の目次をご覧ください。

保守の怒り 目次

第一章 保守の自滅

はじめに
自民党の自滅史と小沢一郎
中曽根内閣以来の保守の自己欺瞞が、保守の没落をもたらした
レーガン・サッチャーの保守革命、新自由主義とはなんだったのか
「よく教育された土人」
安倍晋三氏への期待で沈黙させられた保守
保守の卑屈
アメリカへの恐怖と文藝春秋文化人の役割
警戒すべきは米中旧味方同士の感情の回復
田母神事件とはなんだったのか
日本を抑え込む左右の壁
「戦後の戦争」とアメリカという異常国家

第二章 皇室の危機

誰も指摘しない陛下の重大な発言
天皇の「戦争責任」とは
異様に政治的な天皇発言の意味するもの
皇后陛下のご発言の衝撃
どのような憲法に改正されようとしているのだろうか
血と宗教
距離と時間に恵まれたがゆえの日本文化
アイデンティティーの起源は神武東征か縄文か
平成皇室とはなんなのか
皇室の危機再び
伝統より重いもの
最高の国家機密
カルト化した皇室礼賛派への疑問
平成流への危惧
「美智子様天皇制」崩壊の兆し

第三章 保守よ娑婆(しゃば)に出よ

靖國神社危うし
神道・神社・神道指令
恒例の8月15日の戦没者慰霊は靖國神社を危うくしないか
英霊に恥ずかしい靖國神社
戦争の時代が来る
保守はカルト汚染を克服できるか
神社本庁よ、カルトと同席するなかれ
住みにくくなる日本
奪われる国民の自由と独立と権利
誰も気づかない道州制の危険性
医療と水の危機
差別禁止法の恐怖
民主党の最もあぶない点
保守オヤジを叱る
あとがき

新刊『保守の怒り』のお知らせ

 今年最後の新刊が11月末に出ます。今度は共同著作です。新進気鋭の評論家平田文昭氏との対談本です。

 いま日本が落ちこんでいる精神状況を根底から問い直してみようという試みです。

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 広告用に過日作成され、すでに一部が講演会などの会場で散布されたチラシを以下にご紹介します。

いま率直に語りつくす
戦後「保守」の自己欺瞞・時代への警鐘
祖国日本再建の指針
保守よ、日本よ、 正道にかえれ! よみがえれ!
『保守の怒り ―天皇・戦争・国家の行方―』
対談 西尾幹二 × 平田文昭
刊行 草思社 予価1800円 11月下旬発売予定

混乱・荒廃・騒擾、そして戦争の時代が来ます
日本国と皇室は、昭和20年以来の、存亡の危機に立っています
その存続と再生は保守にかかっています
しかしその「保守」がいま自滅しようとしています

平成21年夏の衆議院議員選挙後に、「保守」にただようこの虚脱感
それは「保守」が空虚だったことの証明です
「保守」とは政治家ばかりではなく言論人・運動家も含みます
冷戦終了後のフィリピンのマルコス政権のように落ちぶれたのがいまの「保守」です

こうなったのは、朝日・NHK・日教組のせいでしょうか?
いいえ
「保守」は「反」のみが生甲斐だった昔の社会党のようになってはいませんか
「保守」の芯はいつしか溶けさり
思想も、時代への対応力も、実務能力も失い
「保守」はいつしか愛国ゴッコ利権となり
知も智も、信も誠も哀も愛も、断も勇も、すべてを亡くしていたから
虚名と虚勢と虚構と以外のすべてを無くしていたから
「保守」はここまで無力化し、いま崩落しつつあるのです

「ご皇室ありがたや念仏」を唱えていても問題は解決しません
「朝鮮台湾にはいいこともした史観」に酔っていても日本の明日は切り拓けません
「保守」が隠しても世間は知ります

左翼に道をつけてきたのは、自称保守なのです!
保守の覚醒と再生なくして、日本の生存と再生はありません
「保守」よ、娑婆に出よう! 現代の現実に生きよう!

衝撃の言葉、真実の言葉、魂の言葉に満ちた
衝撃の対談、この秋11月刊行です

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『「権力の不在」は国を滅ぼす』について

 『「権力の不在」は国を滅ぼす』(ワック刊)という題の本を出したのは、8月10日ごろでした。一、二を除いて書評は現われないし、本も売れたのかどうかよく分りません。私としては現実を正眼で見据えた書、のつもりですが、書名もよくなかったのかもしれません。

 「『権力の不在』っていったい何だろう?」と店頭で読者を考えこませてしまうような題はダメなんですよ、今は単純でストレートな題でないと読者は手を出さないんです、とある編集者の友人から言われました。事実、「権力の不在」は河合隼雄流の「中空構造」のことで、日本神話をめぐる文化論の本だと最初一瞬間違えたと告白した友人がいました。

 「・・・・・は国を滅ぼす」も陳腐でよくないのですね。このあいだは『学校の先生は国を滅ぼす』という本の広告をみました。いろんな人が使う常套句なんです。私はむかし『外国人労働者は国を滅ぼす』という本の題にせよ、と編集者にいわれて、最後まで抵抗して『労働鎖国のすすめ』という新語を発明して、これは成功しました。

 だから今度ももっと抵抗すればよかったのですが、他に思いついたのが『日本の分水嶺』で、イメージ曖昧なのでこれもよくなく、編集担当者にやむなく押し切られました。

 しかし本の反響を呼ばないのは題名のせいだというのは卑怯な逃げ口上です。内容や論旨が今の時代にフィットしなかったからだ、と考えるのが著述家の礼節でしょう。

 私の本はどこまでも少数派向きなのかもしれません。長谷川三千子さんがこの本の贈呈に対し丁寧な返書をくださり、第Ⅱ部第3章にぞっとするリアリティを感じた、とありました。本をお持ちの方は開いてみて下さい。

 第Ⅱ部第3章の末尾の部分を掲げてみます。長谷川さんがこの数行について言っていたのかどうかは分りませんが・・・・・。

 戦前のアメリカ、戦前のイギリス、戦前の諸外国と、戦前の日本は利害を争奪しあってぶつかっていました。今その時代が再び近づいています。

 外交と軍事はアメリカに預けっぱなしで、考えることを放棄するというのは、いわゆる戦後思想です。この戦後民主主義思想は、敗北的平和主義と言ってもよいでしょう。

 これは自分の国のことを考えない、という状態を指しますが、これからは戦前のあの感覚が蘇ってきます。そうしなければ生き残れないからです。

 日本が自立しなければならないという状況の中で、国民と天皇陛下の関係、国民と皇室の関係は、また新たな局面を迎えるでしょう。それがどういうものになるのかは分りません。

 日本の権力はアメリカにあった。しかし、アメリカが衰退して権力としての体をなさなくなったとします。その時、日本の皇室はどの権力がお守りすればよいのか。日本の中枢以外に権力がどこかへ移行するという最悪の状況が私は恐ろしくてなりません。

 たまたま公明党の赤松正雄議員のブログに思いもかけない拙著へのコメントがあったので紹介します.

2009年11月07日(土)
————————————-赤松正雄の読書録ブログ

「真正・保守」の原点と向きあって

  「この10年間というもの、公明党は改めて自民党から国益の大事さを学び、自民党は公明党から改めて民衆益の重要性を学んだと思う」―先の選挙期間中に様々な機会を通じて私は、国家を統治する観点と庶民目線からのいわゆるリベラルな政治姿勢との違いをあえて対比させ、わかりやすく述べ、自民、公明両党がお互いの足らざるを補い合う関係で、政権運営にあたってきたことを訴えた。相反する二つの側面から政権担当能力の大事さを述べたつもりである。

 西尾幹二『「権力の不在」は国を滅ぼす』は、この総選挙の真っ最中に出版された。極めつけの保守論客としてつとに有名な西尾幹二氏の本は、かねてあれこれ読んできたのだが、このところ一段と“憂国の士”の風を強めておられ、これもまた強烈に刺激的な内容であった。「この選挙は国家の核を守るのが存在理由である保守政党がその自覚を失ったがゆえに苦戦を強いられ、他方、勢いづく野党は国家意識を持っているのかどうかすら怪しい」―こう結論付けている。

 とくに前航空幕僚長の田母神俊雄氏の論文について「あまりに自明な歴史観といえるこの線に沿った政府見解を今まで出せなかった政府の怠慢こそが問題」だとし、いわゆる「村山談話」をこき下ろされているところなど、いささか過激すぎで、事実誤認だというのが私のスタンス。先の大戦をめぐっては、米英に対しては日本の「自衛」、中国などアジアには日本が「侵略」、そしてソ連には「侵略された」というべきだろう。ともあれ、「真正・保守」の原点ともいうべきものを改めて勉強するのにはいい教材になる。西尾幹二という人物を毛嫌いしないで、国家とは何かを考える向きには読まれることをおすすめしたい。

(ご本人からの要望により、全文掲載しました)

 次の書評は若い論客岩田温氏のものです。

  

西尾幹二著『「権力の不在」は国を滅ぼす-日本の分水嶺』

   イデオロギーに対する警告

 日本を代表する評論家西尾幹二の評論集。近年発表した雑誌論文を収録したものゆえに内容は多岐にわたるが、全編にわたって闘志漲る戦闘的な評論集である。

 著者が真に闘いを挑むのは旧態依然とした左翼だけではない。思考停止に陥った右翼だけでもない。そういった人々を当然含むが、著者が闘うのは現実をみつめようとしない人々、狭隘なイデオロギーを信仰する人々である。

 イデオロギーとは、マルクス主義の独占物ではなく、常に知識人に付きまとう危険な麻薬のようなものである。著者はイデオロギーに溺れる人々を「手っ取り早く安心を得たいがために、自分好みに固定された思考の枠組みのなかに、自ら進んで嵌り込む」人々だと評するが、実に的を射た指摘だと言ってよい。知識人が自らに対する懐疑を閑却し、自らの立場に安住することを望み始めたとき、知識人の体内にイデオロギーの毒が回り始めるのだ。

 イデオローグは闇雲に徒党を組み、「敵の敵は味方」、「数は力だ」とばかりの安直な政治主義に陥る。彼らにとって重要なのは勢力拡大のみであって、狭い領域での友敵関係、力関係が全てを決するのだ。やむにやまれぬ真理の追求や孤独な懐疑を政治を理解せぬ児戯と嘲笑い、時には「利敵行為」として指弾する。往々にして思想家を気取りながら思想を最も軽蔑するのがイデオローグの特徴である。

 また、かつてのマルクス主義者のように自覚的なイデオロギーの虜も存在するが、イデオロギーとは無縁のような顔をして、どっぷりと無自覚なイデオロギーに侵されている人々も存在する。

 無自覚なイデオローグの代表として著者が批判して止まないのが秦郁彦、保坂正康、半藤一利といった「昭和史」の専門家を自称する「実証主義者」に他ならない。

 当然の話だが、歴史において単純な実証主義は成立しない。いかに細かな実証を積み重ねて小さな部分を明らかにしようとも、単純な実証主義からは歴史の全体像が見えてこないからである。実証主義は究極的に突き詰めれば、自らの信ずるパラダイムを擁護する護符にしか過ぎない。実証はあくまで歴史の全体像を補強、確認するための手段にしか過ぎないのだ。従って、実証を盲信する人々は、無自覚のうちに、自らの安住するパラダイムを守るためのイデオローグとなりはてる。何故なら、彼らは自らのパラダイムそのものに対する懐疑の念をいささかなりとも有してはいないからである。著者はこうした無自覚のうちに半ば公式化されたパラダイム、イデオロギーと闘うことの必要性を説くのだ。

 思想家は読者に安直な解答を与えない。問いそのものを読者に突きつけ、悩ませ、より複雑な問いの展開へと導く。本書はまさしく思想家の書物である。

     文責:岩田 温 『撃論ムック』より

 赤松議員の反応は政治的ですが、岩田温氏は知識人、言論人の姿勢を主題として取り上げています。この本にはたしかに両面があります。

 本年3-4月の秦郁彦氏と私との歴史論争等は後者のテーマでした。岩田氏が私のモチーフを正確に捉えて下さったのを嬉しく思いました。

 田母神問題に触発された秦氏との論争は、歴史の本質をめぐる学問論の一環なのです。私が現代の日本の学問の概念に若いころから疑問を呈してきた、その流れの中にあります。岩田氏の指摘に感謝します。