立春以後(三)

 2月14日(土)に黄文雄氏の六時間講演(第二回)があった。テーマは日中戦争史観。――

 ブロックは三つに分れ、「歴史捏造」「日中戦争の背景と史観」「歴史貢献」の三つである。日本に流布している日中戦争史観の完全に正反対の歴史観が確立されている。

 午前10時から昼休みを挟んで午後5時まで講義があった。そのうち1時間は「南京学会東中野修道会長の最新研究講座」であった。臨時の飛び込み講座である。

 黄氏も、東中野氏も生涯を自分の歴史の検証に捧げて見事で、胸を打つ。同時代にこういう人が存在していたことを知るのはわれわれの希有にして貴重な体験である。われわれは見逃してはならないのだ。

 世の中にはもの凄い人間がいるということだ。われわれは歴史の逸話としてそういう人間についてたくさん読んできているが、いざ目の前にいる、同時代人となると、つい見逃してしまう。自分の生きている同じ町に、同じ空気を吸って、同じような物を食べている人間に、偉大な「例外者」がいるということを理解することはなかなか難しいことなのであろう。

 東中野氏は講演中にふと自分の生きているうちに曙光を見るとは思っていないと仰った。若い人の中に後継者がほしい。今日のお集りのようなお年寄りの皆さんではもうダメなのだ(と言って皆を笑わせた)。若い後継者に語り伝えていくための考え方の正確な筋道をいま準備している、と。

 国際法に違反するような南京虐殺はいっさいなかったことを証す昭和12年のあの日に、われわれが正確にもう一度もどること――それが「歴史」である。そのための考え方の筋道をきちんと用意しておきたい。若い人にそれを遺したい。東中野氏のそういうメッセージは痛いほどに私には分った。

 私はご講演の内容をいまかいつまんでここで述べることは控えたい。それは氏のご著書を読んで各自学習していたゞきたい。たゞこの日の氏のお話は諧謔を混じえて確信に満ち、聴講していた旧友のK君がむかし学生時代に聴いた人気教授の講義のようだった、と言った。そのことからも分るように、壇上一杯にチョークを振り翳して動き回る細身の東中野先生が今日はいかに説得的で、颯爽としていたかをお伝えするに留めよう。

 黄文雄氏が同じように「もの凄い人間」のお一人であることはこのブログの「大寒の日々(一)」でもつい先日お伝えしたので、くりかえすことはしない。

 黄氏は年に数冊の本を書きつづけてこられた。中国の古典から現代書まで読みこなしての日本への情報の大量伝達は、われわれの社会の中国研究家の誰ひとりなし得なかった偉業である。その影響は量り知れない。

 そんなにたくさんの本が出せるのは氏の本が売れるからである。そして氏は家が買えるくらいのお金を毎年台湾の独立運動のために献じているらしい。誰にでもできることではない。

 さらに独立運動のために世界中を飛び回っている。氏もまた自分を超えるものの存在を信じ、生涯を捧げている人である。

 来年からは自分のために生きることを少し考えているとふと洩らしていたが、氏も東中野氏と同じように年齢の限界を感じ始めているのであろう。

 この日5時間語ったご講義の内容は大変入り組んで、清朝中国史にも及び、とても簡単に要約することができない。私はノートを取り、録音もした。今日は録音を再聴している余裕がないので、私のノートの中から後先の順不同で、印象にのこった言葉のいくつかを書き記しておこう。(文章の選択は任意で、黄先生にはご迷惑であろう。文責は私にある。)

 

「日中戦争は中国の内戦に対する日本の人道的道義的介入であった。中国のブラックホールに日本は巻き込まれたのである。米英が逃げてしまった後に巻き込まれたのが実情である。」

「清朝の時代は中国史の黄金時代だったが、それでも内乱と疫病は止まなかった。ペストなど人類の疫病の発生源は中国である。」

「自然破壊が清王朝の崩壊の因である。森の消滅、巨大水害と干魃、いなごの害で数千万人単位の餓死者が出た。」

「戦争をしなくても匪賊(強盗団のこと)が跋扈する社会だった。戦争に敗けたら匪賊になり、勝ったら軍閥になる。それが中国である。」

「日本では8万の東軍と7万の西軍が対決した関ヶ原の戦いが史上最大の内戦であるが、人類史上最大の内乱を記録した太平天国の乱は、10-15年もつづき、清朝の当時の人口4億の約10-20%、5000万人-8000万人の死者を出した。そしてひきつづき回教徒を虐殺する乱が起こり、イスラム教徒約4000万人が殺戮された。」

「辛亥革命のあと中華民国になってから以後も内乱は止まず、国民党内部も激しく戦い合い、中国共産党もまた内部で殺し合いの嵐が吹き荒れた。文化大革命も中国史に特有の内乱のひとつにほかならない。日本はこうした内乱の歴史に『過去の一時期』(と日本政府はよく言うが)、たしかにほんの一時期巻き込まれたにすぎないのである。米英はその前にうまく逃げてしまったのだ。」

(この項つづく)

立春以後(二)

 2月12日午後2時少し前に私は旅行用キャリアーバッグ(手で曳いていく大型鞄)に本と書類をいっぱい詰めて、紀尾井町の文藝春秋に車で乗りつけた。

 出迎えてくれた『諸君!』内田編集長が「この後ご旅行の予定ですか。」「そうじゃあありません。今日の討論会用の材料ですよ。」「いやぁー、それはどうも」と、重いバッグを私の手から受け取って、運んでくれた。

 相手はまだ来ていなかった。私は広い卓上に本と書類を山と積み上げた。ほどなく相手は現われた。現代史家の秦郁彦氏である。「私は現代史に専門家が存在することを認めていません。」と『諸君!』3月号に私が書いた、あの専門家のお一人である。

 2時から討論を開始、終ったのは6時だった。私はとことん自前の論理で打ち負かすつもりだったが、相手もさるもの、一生かけてこつこつ「実証歴史学者」としてやって来た人だから、そうそう簡単には倒れない。

 私は本当は保阪正康、北岡伸一、半藤一利の諸氏のほうをはるかに疑問としている。秦さんは気持ちの通じる学者なのだ。以上四氏の中ではいちばん「善意の人」である。それもあって討論は穏やかに始まった。

 前日までに編集長からこんなテーマで討議してくれ、と記した一覧表が届いていた。〔1〕田母神俊雄氏の問題の①論文そのものについて②騒動の性格について③社会的影響について。〔2〕「現代史の専門家は存在し得ない」「フィクションの方が立派な歴史になっている」という西尾の実証的学問への批判について。〔3〕17世紀以来の世界史の流れの中で捉えなければ大東亜戦争の本質は分らないという西尾の主張と「昭和史」の関連について。〔4〕東條英機らA級戦犯に罪を被せ国民がとかく被害者の立場で語る言説への違和感について。・・・・・

 このうち〔1〕の①で私が前回の3月号論文で取り上げていた問題の諸事例、ニコルソン・ベーカー、真珠湾陰謀説、張作霖爆殺へのソ連の関与、ハリー・デクスター・ホワイト=ソ連スパイ説の四つの具体的事例について、私のより詳しい説明と、それに基づく論争を行うことを提示されていた。私が大量の本を机上に積み上げざるを得なかったのはそのせいである。

 〔2〕と〔3〕についてはすでに私が3月号論文で詳細に論じている処でもあり、秦さんの反論がなによりも期待された。〔4〕が内田編集長から特別に持ち出されたところの、二人がまだ扱っていない新しいテーマだった。

 時間の大部分が〔1〕に費やされた。〔2〕と〔3〕については、秦さんが全く理解していないし、理解しようともしないので、水掛け論に終始した。〔4〕については若干の了解が成立した。予想した処でもある。〔2〕と〔3〕については、私は話しているのが嫌になってしまって、もう打ち切りたいと思ったくらいだった。

 それは〔1〕のニコルソン・ベーカーからハリー・デクスター・ホワイトに関して私が大量の知見を披露しても、ご自身勉強もしていないのに謙虚に聞く耳をお持ちでない相手とは、何時間かけても「対話」にならないという事情に由るものと思われる。私の説得の仕方もまずかったのかなと反省もしている。

 ここでは卓上に積み上げた本を以下に列記するにとどめる。

Nicholson Baker:Human Smoke
―The Beginnigs of the World War Ⅱ,The End of Civilization―(2008)

A.Weinstein and A.Vassililev:The Haunted Wood
―Soviet Espionage in America―The Stalin Era―(2000)

H.Romerstein and E.Breindel:The Venona Secrets
―Exposing Spviet Espionage and America’s Traitors―(2000)

Nigel West:Venona
―The Greatest Secret of Cold War―(1999)

J.and.L.Schecter:Sacred Secrets
―How Soviets Intelligence
Operations changed American History―(2002)

Thomas E.Mahl:Desperate Deception
―British covert Operations in the United States,1939-44―(1988)

須藤眞志『真珠湾〈奇襲〉論争』講談社メチェ

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』文春新書

柏原竜一『世紀の大スパイ、陰謀好きの男たち』洋泉社

中西輝政『国家情報論』第4回『諸君!』

杉原誠四郎「ルーズベルトの昭和天皇宛親電はどうなったか」『正論』2009,2月号

秦郁彦『現代史の争点』文春文庫

西尾幹二『GHQ焚書図書開封 Ⅱ』徳間書店

 論争がどんな風に展開し、私が異なる思考をもつ人の「壁」の前に立っていかに苦労したかは、『諸君!』4月号でご検討たまわりたい。私も十分に読みこんで勉強し尽くしている諸文献ではないので、論の展開も説得的ではなかったかもしれない。

 論争というものはもともと相手を説得するためにあるものではないのであろう。説得を諦めるためにあるものであろう。であれば、『諸君!』3月号の私の論文ですべて終っていて、それ以上のこと、二人で会って討論するのは所詮、虚しいあだしごとというようなことであったかもしれない。

 帰りの車の中で私は眼を瞑ってじっと動かなかった。それでも頭が冴えて眠れなかった。徒労感を感じたというのでもない。秘かに小さな満足があった。私はまだまだ体力があるな、ということに対して――。

 討論の席には仙頭『諸君!』前編集長が傍聴していられたので、家に帰ってから電話で感想を聴いたら、次のように語っておられた。

 「コップに水が半分入っているのを見て、もう半分しかないという男とまだ半分あるよ、という男の対話だったですね。」と評された。私がどっちかは読者には自ずと分るであろう。

 「日本はイギリスのように静かに小国になっていけばいいのです。」が会談中の秦さんの台詞の一つだった。私はそれを聞いて「人間でも国家でもナンバーワンになろうと努力する心がなかったら、オンリーワンにもなれないのですよ。」と答えたことをお伝えしておく。勿論スマップの歌のことにかこつけて言っているのである。

立春以後(一)

 当「日録」を文字どおり日々の記録めいた形式で綴ろうとすると、たしかに毎日のように何かがあり、とかく日常の表面を追いかけていくだけになるが、それなりに書くことはある。

 2月5日(木)には「一木会」に顔を出した。この会についてはまだここで報告したことはない。

 日下公人さんをチーフにした勉強会で、浜田麻記子、堤堯、久保紘之、宮脇淳子、大塚隆一(日本ラッド社長)、鈴木隆一(ワック社長)のほか数氏がいつも集まる常連で、毎回講師を呼んで私のひごろ聞けないようなお話を伺う。

 針灸をめぐる東西比較文明論、宇宙の話、リチウム電池と未来の自動車といった、自然科学や技術系のテーマがわりに多い。私には勉強になる。

 今回は座長の日下さんご自身のお話であった。「核武装への手順」というテーマである。1、国内の地馴らし、2、対国外行動の二つに分けて、さらに項目を立ててお話になった。内容は多分どこかの雑誌に出ると思うので、控えておこう。

 日下さんは現代の大久保彦左衛門である。飄々(ひょうひょう)とした語り口で、難しい問題を、人の意表を突くことば遣いでもって平明に切り崩すように話すのを得意としている。これは万人の認める処だろう。私はまったく真似ができない。

 今回は志方俊之さんも座に加わっていたので、軍事問題は賑やかな展開となった。ソマリア沖への海上自衛隊派遣の不備について、志方さんから批判があった。眼の前で外国船が海賊から襲撃されているのを黙って座視するしかない日本の軍艦は、そういう場面が生じたら、国際非難を免れないだろう、と仰った。まったくその通りであると思った。麻生さんはなぜ力強く動き出そうとしないのだろう。

 勉強会が終って、いつもの通り、近所の寿司屋の二階で酒を飲みながらの懇親会が開かれた。私の『諸君!』3月号論文について、堤堯さんと宮脇淳子さんのお二人が早速に読んで下さっていて、「大変良かった」とお褒めのことばがあった。けれども田母神論文の世間の扱い方については評価が割れ、久保紘之さんと大塚隆一さんから言論界が軍人の言説に振り回されるのはみっともない、との手厳しい批判のことばが出され、酒席の論争になった。久保、大塚両氏は私の『諸君!』論文はまだお読みではなく、それへの直接の論難ではない。

 2月7日(土)東商ホールで『WiLL』編集部主催の講演に出向いた。1時30分に編集部の松本道明さんが拙宅まで迎えに来て下さった。会場に着くと田母神さんの講演がほゞ終りかけていて、間もなく控え室で再会した。相変わらず毎日のように講演のプログラムに追われておられるようで、大変な人気である。

 そのあと坂本未明さんと田母神さんとのトークショーがあって、ひきつづき私の講演「歴史を見る尺度」の時間になった。この講演会は昨年末の会場に入り切れなくて、いったんお断りした入場希望者にのみ門戸が開かれたのだそうで、新しい客寄せはしていない。それでも500人以上の入場者だった。みんな田母神さんの人気のせいである。私は刺身のつまである。

 司会の花田紀凱さんが私の講演の前に、聴衆に向かって例の『諸君!』3月号論文が良かったとまたまたお褒めのことばを口にし、よその競争誌の掲載論文をもち上げてくれた。今回はどういうわけか褒められっぱなしであるが、敵陣営ではそれだけ強い抵抗感と警戒心を呼び起こしていることだろう。

 講演が終って、ワックの編集と営業の総スタッフを合わせて十数人と一緒に、夕食会を楽しんだ。お酒の席は人数が多い方が賑やかでよい。

 私の講演「歴史を見る尺度」は『WiLL』4月号にのる予定だそうである。表題は替えられている可能性がある。

 尚『諸君!』4月号で秦郁彦氏との対談が予定されている。12日に行われる。

 こうして毎日起こったことを綴ると、それなりの分量になるのである。しかしこういうことをダラダラ書いても仕方がない。ひとつの例として今回は書いてみたが、ひとがすぐ飽きるだろう。

 時間はどんどん経っていく。何が起こってももう動じない年齢である。しかし時間の速さだけは恐ろしい。

大寒の日々(三)

 2月1日(日)の夜、この日録で高校時代の友人のK君として紹介してきた河内隆彌君と二人だけのお酒を飲む会を持った。

 河内君は東京銀行に入行し、ベトナム、インド、ベルギーなどにも勤務し、ことにベルギーは長かった。ベトナムはあのテト攻勢の最中のサイゴンを経験している。なぜこれらの地が活動の場となったかといえば、大学で第二外国語としてフランス語を選んだからである。

 フランス語はわれわれの若い時代に、文学部か理学部数学科でない限りあまり選択されなかった。社会科学系の河内君にしては珍しいコースだったと思う。勿論彼は英語もよくできる。英仏両刀使いのビジネスマンだった。

 彼は私たちの高校時代(昭和26-29)、クラスの誰からも信頼される、男らしい男、きっぷのいいいわゆるナイスガイだった。アメリカ映画音楽の流行った時代で、彼の歌ったHighnoonやDomino や Kiss of Fire は今でも忘れがたい。

 彼はこの夜カルカッタの話を盛んにした。インドは多民族多言語国家で統一国家ではない、と言った。中国もそうだろう、と私が言うと、中国はそれでも秦が統一した時期を経ているのでインドとは違う。インドを統一したのは英国であった。しかも英国は海から入っていったので内部に入っていない。それでいて英語が唯一の共通語だ。中国は漢字で相互理解ができるが、インドは英語以外に手がない、等々。カルカッタの底抜けの貧しさも強烈な思い出になっているようだった。

 私もそういうインドと中国が、期待される「大国」として台頭している現代は理解しがたい、と言った。しかし20世紀の前半に日本が「大国」として台頭したことも、ヨーロッパ人ことにイギリス人は理解しがたかったことと思う。

 河内君はいま Colin Smith というイギリス人の書いた Singapore Burning という本を読んでいるというので、もっぱらその話になった。まさに日本の台頭に対するイギリス人の戸惑いと恐怖の物語なのだ。

 イギリス軍ははじめ噂にきく「零戦」の出現を信じていなかったようだ。しかし目の前で次々とイギリス軍機が撃墜された。とはいえこの本は必ずしも戦闘場面だけの本ではないそうだ。

 イギリス人、オーストラリア人、日本人、インド人などが総勢550人も出てくる人間群像の物語で、辻政信も源田実もチャンドラボースも登場人物として出てくるという。勇気と献身、ためらいと逃避の両面が描かれている、まさに人間の物語だそうで、個々の人間のエピソードが綴られ、具体的な描写に満ち満ちているというから私も読みたくなった。

 何よりもいいことはイギリス人の著者の「公平さ」だという。勝利した日本軍に対する敬意、あわてふためいたイギリス軍に対する自戒と反省も書きこまれているという。たしかにあのとき以来、イギリス海軍は太平洋で二度と起ち上がることはできなかった。プリンス・オブ・ウェールスとレパルスの撃沈は17世紀以来無敵だったイギリス海軍を事実上消滅させたほどに衝撃的な出来事だった。

 もし日本がアメリカと戦争をしなかったら、歴史は大きく変わっていたろう。そんな話を二人でしていて、今の日本の言論界の空気、田母神問題で揺れている敗北者心理のことを考えた。

 Singapore Burning のような日本側が大勝利を収めた事件、それを日本人ではなく向う側の人が「公平」に書いた本ほど今のわが国の愚かな歴史意識をいっぺんに吹きとばしてくれるものはないだろう。世界は日本を公平に見ているのに、日本人が自分を歪めて見ようとするのだからどうにも話にならない。

 2月3日に同じ東京銀行にいた足立誠之さんが私の論文「米国覇権と『東京裁判史観』が崩れ去るとき」(『諸君!』3月号)について、次のようなコメントを送ってきてくれた。

 足立さんは前にも言ったが、カナダで緑内障を悪化させ失明した。カナダ在住中に奥様を亡くされた衝撃が眼の病気に致命的に作用したと聞く。本当にお気の毒でならないのだが、力強く生きている。

 文字を音声化する機械があるそうである。私の『GHQ焚書図書開封』はそれでお読みになったそうだ。ありがたいし、申し訳ない。

 以下の文から足立さんの知性の高さ、生命力の強さがはっきり看取される。いかばかりかご不自由な生活であろう。しかし、彼の日本への愛と再生への期待はそれを乗り超えるのに余りあるほどに強烈である。

 私は私の文が評価されていることではなく、足立さんのいつも変わらぬ平静さと取り乱さない一貫した愛国心のしなやかさに心から敬意を捧げたいと思う。

西尾幹ニ先生

 「諸君」3月号掲載の先生の論文を拝読いたしました。(実は弟に読んでもらったのですが)
 
 文芸春秋、諸君、正論、Voice, WiLLの主な論文は弟が先ず見出しを読んでくれ、それの中かから興味あるものを読んでもらうわけです。目が見えていたときにも感じたのですが、この頃の論文は読む気がしません。どうも論文が自分の主張を主張するために何でもかんでも都合のよい情報をパッチワークし、論文にしたようなものが多い。
 
 そうした方法に私は嫌気がさしているようです。
 
 娘が理工系で、ある企業の研究機関で働いていますが、頭とコンピューターで仮説を立て、コンピューターを使いながら実験を重ねて仮説を検証していく、そして総ての疑問が実験と検証で満足がえられた末に理論が出来る。そこでは”多数決”は無縁です。
 
 ところが人文科学の世界ではそうではありません。ある学説が都合のよい材料をかき集めて出来上がり、それを”確立した学説”、”学会の通説”などと言う。これは科学でもなく、近代精神にも無縁な中世的現象とも言えるでしょう。

 「田母神論文」問題ではそれが村山談話に合致しているのかという観点ばかり、あるいはそれが正しい歴史認識であるのかという議論ばかりが今までの論壇誌の中心でしたが、先生はそうした議論の元となる方法論に言及され、アプローチが科学の名に値するのかという点に鋭く切り込まれています。

 これは雑誌のつまらなさの本質をつかれています。

 私は2002年以来アメリカの対中国政策のUSCCの報告書、公聴会議事録を読んできました。それを動機つけたものは、新たに見出した世界に「あやしふこそものぐるほしけれ」の喜こびが湧き上がるからでした。

 「GHQ焚書図書開封」はおなじような思いを抱かせて呉れました。歴史を考える時にはその時代に一度自分が浸らなければ話ははじまらないことは当然で、それをしない歴史家は「あやしふこそものぐるほしけれ」の心境には絶対になれず、したがって歴史とは無縁な存在になるわけです。
 
 保守を自認する人達の多くがこの点で科学とは無縁の存在でしょう。
 
 更に先生のご指摘通り、”昭和史家”なる言葉までうまれて、これは時間と空間にある一定の限界を設けることによる事実の隠蔽です。
 
 毎年夏になると、文芸春秋などには半藤一利、保阪正康、秦郁彦などの「昭和史家」による「なぜあの戦争に負けたのか」論のテーマで戦前の日本の歴史を断罪する特集が組まれます。多くの人はもうこんな雑誌には飽き飽きしています。
 
 今年こそ、こうした雑誌の安易な編集に変更がくわえられるべきでしょう。飽きられた「昭和史家」でない新しい企画の登場を雑誌の世界に希望します。生半可な感想で恐縮ですが、以上ご報告申し上げます。
                         足立誠之拝

 上記の分析と感想に心から感謝申し上げる。今日ご登場いただいた河内隆彌氏、足立誠之氏のご両名は河内氏が七歳上の同じ東京銀行入行者であると最近聞き知った。が、互いにまだ面識がない。

 お二人はともにビジネスマンであった人で、政治とも戦争とも関係がないのである。平和な時代の日本の繁栄の担い手だった。そして今、日本のことを憂えている。

 機会を得てお二人が出会い、海外任地での活躍の時代の思い出を語り合ってもらいたいと思う。

大寒の日々(二)

syokunn3.jpg

 友人の粕谷哲夫君が30日にいち早く次のようなメールをくれた。私の手許にもまだ来ていない『諸君!』3月号の拙論に関する心安だてな感想である。後で聞けば予約購読者には少し早く届けられるのだそうである。

 友人だからざっくばらんに書いてきてくれる。「ページ数が足りない」というのは、40枚も書いているのだから足りないはずはない。足りなく感じられたということだろう。それは退屈しないでさっさと読めた、という意味にもなり、重ねてありがたい。

 我田引水で申し訳ないが、まずこれを掲示する。

西尾 兄

「諸君」3月号の 論文 今 読んだ。
たいへんよく出来ている。

西尾幹二論文の中でも 小生の見たてでは 率直のところ 上位の 論文です。

あえて言えば ページ数が足りない。これは貴兄の責任ではないが、大衆向きには若干舌足らず。
まだあると思ってページをめくったらそれで終わっていたのは残念、という感じがしないでもない。
その意味でも続編があっても いい。

小生は この論文の背景はなんども聞いているので 論理に飛躍はないが、初めての人には 若干理解が難しいかもしれない。

また アメリカが公文書公開を いまなお押さえている事実、NY Times など当時の新聞にあった ルーズベルト発言 など多くの 日本を打て の言説の存在の事実(ヘレン・ミアーズも多数引用しているが、まだまだたくさんあると思う)を見て いつか 日米開戦の歴史評価は 変る 可能性が大きい・・・・・ (それが歴史と言うもの)など 具体例がもう少しあればよかったかと いう感じもするが 欲張りすぎでしょう。

歴史哲学に スペースをとりすぎの感無きにしも非ずだが、これもやむをえないでしょう。
世間が無知だから。

何もかも書くと言うのであれば 大著にならざるを得ないので 雑誌論文としてはやむをえない。

「国民の歴史」のころと異なり アメリカの腰が砕け、中国は相当の重症(今まで稼いだ金はあるが、新たな収入は期待できず、民情は乱れ、・・・・)に陥り、客観情勢は一変した。それだけに この論旨をさらに肉付けした 大型企画を期待する次第。

そのほか 歴史の全体と部分 という問題ですが、小生は <歴史を鳥瞰する>視点と、  <歴史を虫瞰する>視点 ・・・・・・<鳥瞰> と<虫瞰> が 一つの切り口だとかねがね思っています。
両方含むと<大河小説>  虫瞰だけだと<私小説>。

保阪氏の言っていることは <虫瞰> 次元ではほとんど正しい。 何せ3000人ぐらいの人の話を聞いて書いているので、嘘は言っていない。しかし 3000の<虫瞰>だけでは 真実の 歴史の<鳥瞰>は 出てこない。

保阪氏は 小生知っていますが、 中西氏の言うような 外国の視点はないし、 トインビーやハンティントンの<鳥瞰する>視点もない。  森林よりも 花粉に 関心が傾斜することには間違いない。

・・・・歴史は一筋縄ではいきません。

あすは 拓大の 黄文雄6時間歴史講義を聴きに行きます。
3回で合計18時間、あの日本語を 聞くのはつらいけど、 自分は史実をしらなすぎる。歴史書では頭に入らない。

明後日には あの茂木さんが歴史の勉強会をやるというので、何をしゃべるのか聞きに行きます。あとは 東アジア近代史は小説でよむ。 おっしゃるとおり。歴史は小説がいい。

阿片戦争はイギリスが悪いのだが、あとあと 阿片は 軍の資金づくりのために必要欠くべからざる 重要物資で、蒋介石も毛沢東も これを使っているし、日本陸軍も イランから中国への阿片輸入介在による資金づくりを内密に里田甫に 懇請している。・・・・歴史とは一筋縄ではいきません。

以上雑感まで

粕谷

syokunn3b.jpg

 ちなみに粕谷君は商社員としてアメリカ経験が長く、親米派である。そして、そういう意味ではあえて言っておくが私も親米派である。少くとも反・反米派である。

 歴史は歴史、政治は政治である。誰かが言っていたが、政治に歴史をからめるのには「時効」があって当然である。(さもないと日本はもう一度戦争をしなければならなくなる。)

 オバマ政権にそういうおおらかさを期待してよいのではないか。白人でないことの影響は小さくないと思っている。イギリスの没落はその意味で大きい。ただし政権内にはユダヤ人が多い。

 31日に「黄文雄6時間歴史講座」を聴きに行った。前から行くつもりでいたのだが、日時を記録していなかった。粕谷君のメールで注意を喚起され、朝9時に家を出た。予約していないので心配だったが、席はあった。

 行って良かった。今しみじみそう思う。内容もさることながら、6時間語りつづける一人の人間の、しかも時間が進むにつれ次第にホットになっていく高まる情熱に打たれた。

 黄さんが情熱家であることは前から知っていたが、頭でそう知っていることと、壇上から流れ出すパトスの「気」を浴びることは別である。目の前に無私の情熱が服を着て、不動の立ち姿で音声を発しつづけている。黄さんの人生が会場に奔流している、そう思った。

 満70歳でこの知識量、この視野の広さ、この体力はそれだけで人を感動させる何かではある。黄さんがどういう切っ掛けで「6時間歴史講座」を計3回(このあと2月14日と3月28日の各土曜日に行われる)思い立ったのかは知らない。人生のある区切りを意識しての試みなのであろうが、それだけに聴講者にもある緊張を求めてくる大きな意志の力が感じられた。

 1月31日の今回は題して「日本植民地の真実」で、三部に分れ、第一部台湾、第二部朝鮮、第三部満州の順序でお話された。あまりにもたくさんの内容なので下手な要約や紹介はここではしたくない。

 一番最後の主題の整理で、「植民地主義」という概念には「社会主義」に優るとも劣らない一時代の夢と希望が托された人類解放の理念がこめられていたという説明にはあらためて目を開かされた。

 「植民地主義」といえば今では侵略や征服のイメージと結びつくが、19世紀から20世紀にかけてはユートピア思想だった。地上の人類の楽園の開拓、いいかえれば先進民族が後進民族を解放し、宗主国(主として白人の)が文明開化を地球に広めるのは義務であるという考えに立脚した解放思想であったということが今一度強く意識される必要がある、と私は話を聴きながらあらためて思った。

 今からみれば白人の植民地主義は「侵略」の別名だが、19世紀人類最大の夢、コスモポリタン的思想としての概念でもあった。だからこそ日本もまたそれに100年おくれて巻きこまれたのである。100年おくれたことに運命はあるが、夢と理想に近いことを実現したのは白人国家ではなく、日本の植民地主義の成果、台湾、朝鮮、満州であった――これが黄さんの日頃の主張でもあり、またたくさんの証拠を突きつけて語られた今回のご講演のテーマでもあった。

 私は再考三考せねばならぬ、日本の歴史を考えるうえでの貴重なヒントを数多くいたゞいたことに感謝した。

 これを読んだ人にぜひ次の2回の講演会場に足を運んで下さい、と私はお誘い申し上げる。私も聴講する。

2月14日(土)10:00~17:00「日中戦争史観」
3月28日(土)10:00~17:00「大東亜戦争の文明史的貢献」

会場は拓殖大学、2月14日がF館301号教室(80名収容)。
3月28日が同大学、C館301教室(200名収容)。
入場無料。
申し込み方法は黄文雄事務所、
FAX 03-3355-4186
E-Mail :humiozimu@hotmail.com

2月14日分はすでに予約が〆切られているので、試みてみるといい。3月28日分は3月18日が予約〆切。

拓殖大学は地下鉄丸の内線荷ヶ谷下車徒歩3分。

大寒の日々(一)

 大寒の日々だが、東京はそれほど寒くない。善福寺公園の池が例年のようには凍らない。早くも梅が咲いている。

 1月23日に「路の会」の新年会があった。集った方々は田久保忠衛、桶谷秀昭、高山正之、田中英道、黄文雄、富岡幸一郎、北村良和、桶泉克夫、石平、尾崎護、宮崎正弘、仙頭寿顕の諸氏。それに徳間書店側から力石さんと赤石さん。酒の席であり、話ははずんだ。中国論、アメリカ論、そして当然ながら金融破綻の今後の行方と日本の将来。―――

 面白い話を、いくつか拾って、別の機会に報告したいと思う。

 今日は先を急ぐ。

 1月26日にGHQ焚書図書の今月の録画を行った。15才で日本に留学した大学卒業の直前、昭和12年夏に、日本での学業を気にしながら帰国した中国人青年が徴兵され、抗日戦線に送られた。すさまじい戦争体験をして負傷し、逃亡して、体験記を日本の先生に送ってきた。翻訳出版を依頼してきたのである。昭和13年3月に日本で出版され、たちまち版を重ねた。夏までに2万5000部を売っている特異な本である。今月はこの本、『敗走千里』の紹介をした。題して「中国兵が語った中国戦線」。――

 1月28日日本文化チャンネル桜の討論会があった。今夜29日からの放送なので、まずその報告をする。

タイトル:「闘論!倒論!討論!2009 日本よ、今・・・」
テーマ :「オバマ新政権と世界の行方」
放送予定日:前半 平成21年1月29日(木曜日)19:30~20:30
      後半 平成21年1月30日(金曜日)19:30~20:30
      日本文化チャンネル桜(スカパー!216チャンネル)
      インターネット放送So-TV(http://www.so‐tv.jp/)
パネリスト:(50音順)
       潮 匡人(評論家)
       日下公人(評論家・社会貢献支援財団会長)
       石 平 (評論家)
       西尾幹二(評論家)
       宮崎正弘(作家・評論家)
       山崎明義(ジャーナリスト)

司会 :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

 この録画取りの前に、日本文化チャンネル桜の放送を支えてくれている支援者へのサービスとして、関係者がこの一年で最も印象の強かった「一冊の本」を語るCD作成に協力した。私が取り上げた「一冊の本」は渡辺浩著『近世日本社会と宋学』東京大学出版会、1985年刊がそれである。「宋学」とは朱子学のこと。江戸前期の思想界は朱子学に蔽われ、朱子学と朱子学の批判はさながら戦後日本のマルクス主義のごとき大きな事件かと思っていたが、まったく逆の事情がこの本によって裏づけられている。著者の渡辺氏は丸山眞男の弟子筋のようだが、その思想研究は恩師の逆を行き、恩師を裏切っているのが面白い。

 「オバマ新政権と世界の行方」の討論会が終った後、悪い癖ですぐに帰らず一杯やろう、ということになり、宮崎正弘さんと石平さんとで焼肉と焼酎の店に行った。

 1月26日に『WiLL』3月号が出た。拙論「『文藝春秋』の迷走――皇室問題と日本の分水嶺――」について、当「日録」の管理をしてくれている長谷川真美さんがメールで早速次のような改まった感想を送ってくれた。

 私は12月に西尾先生の講演を聞いていたし、折に触れ先生の考えを電話でも聞いていた。それに『週刊朝日』の文章も読んでいたので、今回の論文に特別に新しいことが書いてあるという驚きがあったわけではない。ただ『文藝春秋』への批判が、保阪氏の論を使ってより具体的になっていたのが目だった点だと思う。

 そして、今回の論文は、この前の講演では話きれなかったと言われていた、いろいろな分野を組み合わせながら、最後に皇室を守る権力にまで言及していて、うまく繋がって、全部纏まっているな・・・と思った。こんな風にこの前の講演でもお話されたかったのだろう。

 私も、『文藝春秋』の「秋篠宮が天皇になる日」を題名に釣られて買って読んだ。題名は衝撃的だけれど、内容は大したことがなかった。『WiLL』が皇室問題を取りあげて、よく売れたからか、柳の下の二匹目のドジョウを狙ったことだけは確かだ。論の下敷きとして、西尾先生のこれまでの仕事がある。それがあるから衝撃的な見出しで、人を引き付けることができたのだ。でも、中味は女性週刊誌と大して変わらない。西尾先生の雅子妃殿下のお振舞いに対する疑問を遠巻きに利用しながらも、全体としては西尾先生に説得されている感じがした。つまり、『文藝春秋』も今の皇太子ご夫妻にはっきり不信を抱いているといっていい。

 それにしてもこの保阪氏の論は中途半端で、西尾先生が書かれている通り、内容は全くない。

 年末の天皇陛下の健康の悪化と、宮内庁長官の発言・・・東宮大夫の発言、など重要なことが立て続けにあったのに、これらのことにはほとんど触れないで、こういう大胆な題名をつけるのは詐欺のようなものだ。

 この論文の冒頭で、西尾先生は、これまでの文藝春秋批判をもっと強めて、田母神問題など別の例を出し、より具体的に批判されている。これに対して、文藝春秋側はうまく言い逃れできるのだろうか。

 どちらにしても、きちんとした論文を掲載し続けることが、雑誌の命であるのだし、それを判断するのは、一般の読者達で、私たちもそうそう騙されはしない。昨日会った友人も「秋篠宮が天皇になる日」を読んで、私と全く同じ感想を持ったと言っていた。

 西尾先生の的をずばりと突いた批判で、『文藝春秋』まで部数が急落しなければいいが、いや、急落すれば面白いとも思う。

 天皇陛下は宮内庁長官に託したご意思が、なんとか皇太子ご夫妻に伝わってくれ、もしそれがかなわぬなら、国民よ、なんとか考えてくれ・・・と切実な思いをこめておっしゃっているのではないだろうか。その意を最も噛み砕いて応援しているのが西尾先生一人のような気がする。

 日本の皇室の危機にあって、本当に心を砕いて警鐘を鳴らそうとしている西尾先生の、ほんのちょっとでもお手伝いが出来ていることが、私の生き甲斐でもある。

 以上の文章に対し、格別に私の感想はない。いつもこんな風に応援してくれていることに感謝している。

師走の近況報告

 私はいま四つの会に参加ないし関与している。ひとつは私の主催する勉強会「路の会」で、毎月の例会は順調に開かれている。10月は新保祐司さんの「信時潔について」、11月はヴルピッタ・ロマノさんの「ムッソリーニについて」、そして12月はこれから開かれるが、桶谷秀昭さんの「マルクス『資本論』を読む」である。

 どれも面白いのでそのつどこの日録にレジュメを書きたいと思いつつ、果せない。来年は必ず実行しようと思う。テープ録音しているので、聞き直すことに意味がある。どうも片端から忘れていくので勿体ない。

 もうひとつは坦々塾である。これは3ヶ月に一度の割で開かれ、プロの評論家たちとは違う社会人の楽しい仲間が集う。11月の例会ではメンバーのお一人の三菱カナダ銀行元頭取の足立誠之さん、ゲスト講師として評論家の西村幸祐さん、それに私の三人が各一時間のスピーチをした。

 足立さんのスピーチは文章化されているので近くここに全文を掲示する予定である。私の話は『撃論ムック』の私の連載において評論文体に改め、正確に再現する計画である。次回の坦々塾は1月に新年会を開き、3月に次の例会を開催する。3月の会合のゲスト講師は山際澄夫さんにきまった。

 以上のほかに私は日下公人さんが座長の「一木会」、中曽根元首相を囲む箕山会(きざんかい)のメンバーに誘われ、毎月一度のペースで参加している。そこでの経験も追い追いお知らせしよう。これだけでも大変に忙しい。

 年をとると社会生活が乏しくなるとよくいわれる。だから人に会うのは大切であるとの言葉をよく耳にする。孤独が性に合っているので社交的に行動することは昔から苦手である。年をとったからどうしなければ、ということは私に限ってはない。たゞ大学勤務がもうないので、これくらいの会合に出る時間のゆとりはある。

 このほかに私が定期的にやっていることといえば、(株)日本文化チャンネル桜の「GHQ焚書図書開封」の放映である。放送日が少し間遠になっているが、毎月録画をするのが慣例である。第27回まで実行され、第23回分までが今校了直前まできている同書第二巻に採録される予定である。

 従っていま放映中のものは来年出す第三巻への集録を予定している。少し内容を変えて、第三巻は歴史を離れ、戦時中の日本人の心の秘密をさぐる、という方向の内容を模索している。

第24回放送 日本文明と「国体」
第25回放送 戦場が日常であったあの時代
        ――一等兵の死――
第26回放送 戦場の生死と「銃後」の心
第27回放送 空の少年兵と母

 考えてみると「国体」も「銃後」も死語であり、「七ツ釦は桜に錨」の予科練の「少年兵」ももう実感として知る人は少なくなっている。少年兵と母というところが肝心で、放映中文章をよみ上げながら私は思わず涙ぐんでしまった。

 以上のほかに『WiLL』や『諸君!』や『Voice』等に寄稿したり、関連の講演に出かけたりするのが私の日常だが、今年は例外的に単行本を数多く出したので、そのこともあってひどく忙しかった。

 2月号向きには『諸君!』から「わが座右の銘」アンケートをたのまれ、ニーチェのある言葉に3枚のエッセーをつけて提出した。

 12月20日には既報のとおり、『WiLL』記念四周年の講演会で話すことになっている。話題の田母神前空幕長が私の前に講演されるらしい。詳しくは『WiLL』1月号112ページを見られたい。

 『三島由紀夫の死と私』は出たばかりで、どう読まれているのかは知らない。「つき指の読書日記」で感想文がのったので、ご紹介する。また朝まで生テレビ出演に関して、友人から新しい感想文が届いたので、以下に二つをつづけて掲示し、近況報告を閉じる。

本の論説がいまの私の生きざまに迫ってくる、こんな為体(ていたらく)でよいのかと射ぬいてくるとは思わなかった。日々、読書に明け暮れし、一端(いっぱし)の読書家気取りでこうしてブログで駄文を書き散らかしている。行動とは無縁の状態にある。
 団塊の世代で、当然、全共闘にかかわった世代である。三島由紀夫の事件は、二〇歳過ぎ、東京で学生生活をし、鮮明に記憶に刻み込まれている。それこそ多くの報道や写真に、受動的に眼をとおしていた。
 東大全共闘との三島由紀夫の討論、当時、読んでいた。意外と共鳴する部分の多いのに驚かされた。しかし、同じ世界、拡がりには住んでいるとは思っていなかった。あの事件は異質な出来事、単なるアナクロニズムだとみなし、それ以上は思考を取り止めた。
 西尾幹二『三島由紀夫の死と私』(PHP研究所)を、またしても吸い込まれるように読んだ。ある意味で怖ろしい書である。氏が三島由紀夫との出会いになる『ヨーロッパ像の転換』も、その訪問時の印象を書いている『行為する思索』も読んでいる。手に入らなかったのは『悲劇人の姿勢』だけで、村松剛、徳岡孝夫両氏の本も後に目をとおしている。江藤淳のその部分は読んでいない。その書籍で事件を判断しようとは思わなかった。西尾幹二のように、刃を突きつけられることはなかった。本書の強靱さで、その奥底にある深さ、理解への重い扉をはじめて開いてくれた。
 団塊の世代は全共闘運動をその後、回想することはなかった。内ゲバと浅間山荘で、一括りにできない現実だけが暗鬱に残り、語らないことを当然視しているのは、私だけではない筈である。それほどの思想ではなかった。自分を含め、教養主義の残滓だけ抱えているひとはいる。
 文学も当時とはちがい、芸術とか政治とか、あまり活字が大きくなることは嫌っている。私小説はもともと馴染めなかったし、青臭い話よりはエンタテインメントか、大人の情感に裏打ちされた直木賞を愛するようになった。三島由紀夫の小説も数多く読んでいるが、『豊饒の海』以降は止めた。
 いま西尾幹二は、日本の自立を熱く語りはじめている。現下の問題を超えた、日々の時流に流されず、先々の時流を織り込んだ、俯瞰力のある論をいずれ示してくれるだろう。問題は他国にあるのではなく、足許の日本にある。そこから思考停止せずに組み立てていくしかない、そう思って、迫真の書を置いた。

つき指の読書日記より

F
「日録」に、あの番組についての感想、ほぼ出揃つたやうですね。そのどれもまったうと存じます。
まことにお疲れさまでした。
以前は、私が先生なら、あんな番組には出てやるものかと考へてゐました。あのウジ蟲以下の連中と席を同じうすることは不愉快に決つてゐるからです。思ふだに蟲酸が走ります。この思ひは多分先生におかれても同じでせう。
けれども、最近は、さういふ感情を抑へて出演される先生のお考へが、多少なりとも分るやうになつてきました。如何に癪に觸らうと、言ふべきことを言ひ、視聽者の何%かでも啓蒙できればといふお考へでせう。
そして、これは今囘成功したと思ひます。私の場合、通つてゐる接骨院の待合室で、をばさん達の「あの西尾といふ人、なかなかしつかりしてゐて、いいことを言ふわね」といつた會話を聞いた程度で、何%といふやうなことまでは、とても分析しきれませんが。
先生が大聲を發せられたり、イライラなさる場面、はらはらしながら、痛々しく拜見したことはたしかです。しかし、結果として「きちんと説得的に」話されたことは間違ひありません。だからこそ、下町(場末?)のをばさんまで感ずるところがあつたのだと思ひます。
それにしても、ギャラ(幾らか存じませんが、大した額ではないでせう)に合はぬ、面白からざる役ですね。私なら、やはり「出てやらない」でせう。
田母神さんといふ人、日を經るにつれ、私は好意を募らせてゐます。特に、そのユーモアと生まじめさが好ましい。
そして、誰かが言った「國民の國防意識に大變革を齎すかもしれない」との説には、さうあることを切望します。しかし「まづ國民にショツクを與へること」(ヒトラー)、「民衆をして唖然たらしめること」(マキャベリ)の有效なことを思ふと、田母神さんの、あまりの靜かさ、穩やかさがマイナスになることを危惧します。
田原なぞが口モグモグで、誰も何も言へないうちに、靜かに、堂々と核武裝を進めてくれるやうな英傑の出現は、我が國に於ては望めないのでせうか。
先生によつて教へられた、ミラン・クンデラの「一國の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失はせることである」は、日本に於て既に半ば以上成功してゐませう。しかし、なんとかこれを覆したいものです。
先生の御健鬪を祈るや切です。但し、お年と御健康もお忘れなく。

近況報告

ozawa2.jpg

 Voice 10月号 (9月10日発売)に、ご覧のように、「時計の針が止まった小沢一郎」(32枚)を書きました。これを書いているときにはまだ福田内閣総辞職にはいたっていませんでした。

 政変は秋になるので、それとは関係なく、早手回しの民主党特集だと編集部は言っていました。

 ところがそれから間もなく総辞職となり、私の小沢論は偶然にもタイムリーな論文となりました。

 1989-91年の海部内閣の幹事長の時代と、1993年の細川政権の成立時(自民党長期政権の終焉のとき)が、小沢一郎が世間の脚光を浴びたピーク時であって、あとは発想が固定化して、国際的な現実の動きを見ていない、国民に有害な政治家になっているということを論及しました。

 吉田茂と鳩山一郎とを合同させて自由民主党をつくりだした1955年の保守合同(政界再編)の影の舞台回しに、三木武吉という戦略政治家がいました。小沢一郎をこの三木になぞらえる見方がよくありますが、似ているのは国会対策の戦略家というだけで、三木には岸信介という保守の巨魁がついていましたが、小沢には左翼がついているだけで、小沢自身が保守ではありません。

 小沢も政界再編を目論むでしょうが、目的も理念も彼にはなく、「ぶっこわす」ことだけが彼の狙いで、合同を目指すとしても「左翼全体主義」以外のなにももたらさないだろう、ということを当時と今の政局から占いました。国連中心主義、外国人参政権、移民国家論など、いずれを見ても危険な存在です。

 話変わりますが、新刊『皇太子さまへの御忠言』は発売一週間目で、増刷ときまりました。

 もうひとつついでにご報告しておきますと、10月7日発売で、『真贋の洞察』という360ページの評論集の整理が完了し、私の手を離れて、すでに校了となりました。この本の副題は「保守・思想・情報・経済・政治」となっており、14本の評論がおさめられております。文芸春秋刊、税込み¥2000 です。

 これらの仕事で夏は瞬くまに終わりそうです。しかし基本的に夏男で、体調はすこぶるよいです。以上ご報告申しあげます。

非公開:私の29歳の評論と72歳のその朗読

 「花田紀凱ザ・インタビュー」というテレビ番組の再放送が本日23日(日)の午後7:00から8:00の時間帯にあり、私が出演します。

 TOKYO MXテレビ14の放送で、普通テレビ受像機では9チャンネルです。東京以外に電波がうまく届くのかどうか私は知らないのです。

 新聞をみると、少し羞しいのですが、「ザ・インタビュー(再)『これから成すべきこと』72歳論壇の雄・西尾幹二が明かす今後の計画」と書かれています。

 私が一般地上波テレビに出演することは滅多にないので、私の残りの人生の抱負を語る番組としてあえておしらせしておきます。この中で私は29歳のときに書いた大江健三郎批判の評論の一部を朗読しています。

 1965年(昭和40年)の『自由』7月号の「私のうけた戦後教育」からの朗読です。この評論は単行本に未収録で、今まで世にまったく知られていません。

 私の新人賞論文がのったのは同誌の2月号で、「私のうけた戦後教育」は二作目でした。大江健三郎は昭和33年に芥川賞を受賞し、小説の他に『厳粛なる綱渡り』というエッセー集を出していて、それを私が批判しました。今なら大江健三郎への批判は珍しくありませんが、当時はだれもまだ思いつきません。彼はほめちぎられていました。

 以下に全文を掲示します。大江への言及は終結部分に出てきます。

私のうけた戦後教育(一)

「民主教育」という愚かしく、腹立たしい体験から私は何を得たか。あるべき教育を訴える

 新制中学での体験

 私は戦前の教育を知らない。

 私のうけた教育は大半が戦後教育である。大半と言ったのは初等教育の最初の三年半が戦時中であったからで、私は「国民学校」に入学し、「尋常小学校」を卒業した年代に属するからである。中学は、「新制中学」であった。まだ戦禍の跡も生々しく残る昭和23年、私は疎開していた水戸市の茨城師範附属中学に入学し、二年後東京に戻ったが、その二年間に私が附属の教育をうけたということは、いまいろいろな意味で回顧に値することのように思える。

 戦争直後、アメリカ式コア・カリキュラムや民主教育の呼び声が怒濤のように流れ込んできたとき、鋭敏に反応し、まっ先にそれを受け入れたのが附属の教育である。学校全体がいわば新教育の実験場であった。附属というようなところには必らずといっていいほど熱心すぎる先生、教育理念にとり憑かれたような先生がいるものだが、私の担任もそんな一人だった。

 当時は社会風俗もひどく混乱していた時代だ。新教育のいき過ぎは社会の安定に伴いその後かなり是正されていったであろうから、以下の報告はいまではほとんど信じてもらえそうもない昔物語かもしれない。しかし、戦後の民主教育がたどった諸傾向のある意味における原初形態が、このとき私が体験したもののうちにあったことだけは認めてもよいだろう。

 教室における机の配置。通例の形式をとらず、三人づつ向い合う六人一組のグループ(男女各三)を八組ぐらい編成し、教室内に適当な間隔をあけて配置する。黒板に背中を向ける生徒もいるわけだ。教壇は取り払われ、先生の机は窓ぎわに移された。私達の学校は陸軍歩兵隊の兵舎跡を使っていたので部屋数にはかなりゆとりがあり、廊下をはさんだ向い側に、私達のクラスはもう一つの空き部屋「社会科教室」を与えられていた。

 特定の学科をのぞいて一切の時間割が廃止された。いま正確には記憶していないのだが、数学、理科、音楽の三科目をのぞく残りのすべての学科を総称して「社会科」とよんでいたように思う。たんに歴史や地理だけではない。国語も英語も体育も図工も社会科のうちの一部門にすぎなかったのだ。各科目を有機的に連関して教えてこそ生きた教育ができる、ということだったらしい。が、時間割というものがないのだから、クラス討論会のようなもので午後一杯をつぶすこともあれば、全然英語の授業のない週が二、三週間つづいたりする。

 要するに新教育の理念の名においていろいろ奇怪なことが行なわれていたのである。

 生徒の自主性を育てること、単なる知能教育を排して総合教育を行なうこと――これは当時さかんに言われていた「理念」であった。

 平等ということも新しい教育標識の一つであった。まず生徒同志の平等、次いで先生と生徒の人格的対等という関係。優等制度は廃止され、学年末には皆勤賞と努力賞だけが与えられた。先生が任命する級長はなくなり、生徒の互選する委員長が生まれた。先生は教えるのではなく生徒と共に考えるのである。先生はつねに生徒と友達のように話し合おうとする。生徒の犯した罪は叱るのではなく、生徒の立場に立って理解するのである。

 どうもそういうことだったらしい。終始先生は私達の考え方に耳を傾けようとする姿勢を示して、アンケートのようなものをさかんに行なったが、子供の確乎とした考えがあるわけではなく、私達は教師の暗示につられて、結局は教師のしゃべっている「思想」を反復しただけではなかったろうか。どうもそんな気がする。

 私は子供心にも終始はぐらかされているような不快感をかんじていたことだけを、いまはっきり記憶しているからである。先生は私達子供を一人前の大人のように扱うことによって、師弟の対等な人格関係という民主教育の理想を体現しているという自己錯覚に陥っていたのではないか。先生の理想のために、子供の私達は利用されていたにすぎない。私達はけっして一人前の人格として扱われていたのではない。子供を一人前の人格として扱うべきだという民主教育の実験材料にされていただけなのである。しかも材料として操られていたのは子供達だけではない。先生もまた民主教育という観念に操られていた犠牲者の一人なのである。

 一般に大人が意図するところを子供に気づかせずに、意図した結果だけを子供に信じさせようとしてもそれは無理な話である。子供はそんなに単純ではない。いや、ある意味では子供ほど敏感なものはない。大人の意図をことごとく見破ることはたしかに子供には不可能なことかもしれない。しかし、大人が大人らしくなく振舞えば、それが何を意図するのかは分らないでも、なにかが意図されているということだけは子供は誰よりも早く敏感に感じとるものである。

 そこには不自然さがある。というより、嘘がある。新教育に熱心な先生に私がたえず感じていた子供心の反撥心は、そこになにか嘘があるという説明のできない不信感であった。先生が先生らしくなく振舞えば、子供はそこに作為しか感じない。先生と生徒との間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があることを誰よりもよく知っているのは子供である。先生が役割にふさわしく振舞ってさえくれれば、子供は先生を信頼し、先生に人格を感じる。子供の人格を尊重すると称して、いたずらに理解のある態度を見せ、まるで友達同志のように話し合おうとする先生には、子供は人格を感じないばかりか、結果として子供の人格も無視されることになるのである。そこには非人間的な関係、抽象的な人間関係しかないのだ。

 あるとき私は、先生をしている友人に右のような話をしたところ、そういう弊害が起るのは日本の民主主義がまだ完成していないからだ、と言われたことがある。何という観念的な考え方だろう。民主主義が完成しようがしまいが、大人の心、子供の心に変りがあり得ようはずがない。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

春の雨

 春の雨が降っている。久し振りの雨である。桜はまだ開いていないが、早咲きの樹にはすでに花があり、梅かと思って近づくと、やはり桜である。

 公園の池の畔に並ぶ樹々がいっせいに開花するのはあと一週間もないであろう。すでに梢の枝がうっすらと色づき出している。

 「日録」を復活すると約束していながら、私の活動について相変わらず丁寧な報告を怠っているのは心苦しい。

 年末から「路の会」は3回開かれている。佐伯啓思氏をお呼びした11月例会は「日録」でも報告したが、12月は桶泉克夫氏が「華僑、華人について」を話して下さった。1月は新年会で盛会だった。2月は古田博司氏が「別亜論とは何か――支那と中国を埋めるもの」と題して熱弁をふるってくれた。3月はこれからで、27日に長谷川三千子氏が「三島由紀夫論――『英霊の声』とイサク奉献」と題する新しいご著作のための試論を展開して下さる予定である。

 どの話も私にはすこぶる有益で、参考になる。テープを聴き直して「日録」に要約をのせたいといつも思う。自分の勉強にもなる。本を読むより人の話を聴くほうが身につくこともあるのは最近の私の傾向である。

 だがどうしてもその暇がとれず、次の例会が来てしまう。雑誌原稿と本づくりの準備作業に追われているためで、若いときと同じようにあたふたしているのである。

 「三島由紀夫の死と私」(第2回)は引用の多い仕事で、若い日の記憶の整理のために書いた。一月の大半を使った。100枚を越える分量である。佐藤幹夫さんの誘いがなければ決して表には出なかった秘話の展開であった。佐藤さんの『樹が陣営』という個人雑誌にのる。特定の書店でしか入手できないが、来週には店頭に出る予定である。

 年末に出た「日本は米中共同の敵になる」(WiLL2月号)はとても受けのいい論文だった。いろいろな感想を頂いた。手ごたえの如何は勘で分るのである。

 政治家を叱った「金融カオスへの無知無関心」(Voice4月号)の評判はまだ分らない。『Voice』の論文はたいていいつも反応が遅い。

 私はドイツ文学者だと知られているので、金融問題を書いてもいまひとつ信用されないのかもしれない。しかしエコノミストの書く金融論には政治が書かれていない。国際政治の葛藤がない。私はその不満を自分の努力でカヴァーしようとしているのである。

 次の月の号には皇室問題を取り上げている。大上段振りかぶって天皇制度の本質をまず述べて、そこから現象を論じている。33枚のそれなりの力作のつもりである。表題は編集長がつけて「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」(WiLL5月号)となっている。あと一週間で店頭に並ぶ。

 誰もが知る現下のデリケートな問題を、オピニオン誌で一人の論客が責任をもって自説をまとめて展開するのは初めてだからと言われて、それもそうかと思い、決断した。ずっとこのところ、場合によっては私が書こうかと漠然と思って迷っていた矢先だったので、依頼を引き受けた。

 私が『GHQ焚書図書開封』というシリーズの刊行の第一巻を計画していることは既報のとおりである。内容の95パーセントはできあがっている。あとは写真やグラビアを考える段階まできているが、研究中に重大な発見があって、さらに探求が必要となり、発行日を5月に延ばすことになった。

 「焚書」とは何か?という根本の命題に関わるところで、さらに詳しく調べなければならなくなったのだ。GHQの命令に応じて協力した日本人学者がいるに違いない。日本側にも司令塔があったに違いない。占領軍に日本を売って、この国を今のような惨めな国にした精神的裏切り者がいたに違いない。私はずっとそう予感していた。

 国立国会図書館からの昭和21年の文献探索中に東大文学部助教授――後に有名な学者知識人となる――の2人の名前が浮かび上がったのである。今はそこまでしか言えないが、文化的大事件に発展するスクープかもしれない。さらに詳しく探求が必要となってきたのである。

 私にはまったく時間のゆとりがない。次から次へと各種の問題が押し寄せてくる。しかし私の人生を苦しめつづけてきた「戦後犯罪人」の名前とからくりのすべてが今度明らかになるのかもしれない。

 いま人権擁護法や、外国人参政権や、チベット問題への政府の沈黙や、沖縄集団自決問題や、台湾独立への日本政府の非協力や、・・・・・・そもそも何から何までのテーマの大元となり、日本人を無力化した精神的痴呆化の元凶と歴史抹殺のそのメカニズムが明らかになるかもしれない。

 ともあれそんな期待で寧日なく、しかし元気に生きている。「日録」は今日のようにホッと空白ができた日に、またこんな風に綴ることにしたい。

 どうやら雨は小止みになった。犬の散歩に出ようかと思う。