謹賀新年(平成21年元旦)

謹 賀 新 年

 私は都立小石川高校の卒業生だが、在学中に『礎』(いしづえ)というガリ版のクラス雑誌を出していた。年老いて誰いうともなく『礎』の復刊を望む声があり、年に一度、ガリ版ではなくパソコンの原稿を持ち寄って綴じて出す企てが数度に及んだ。

 平成20年(2008年)に私はここに「私の墓」と題した次のようなエッセーを寄稿したので、平成21年の年頭に際し、再録する。

私 の 墓

 自分の墓を作らなくてはいけない、となんとなく考えだしたのはもう二十年も前からだったと思う。

 私は次男なので、親の墓には入れない。残された家族に墓のことで迷惑はかけたくない。死ぬ前になんでも自分のことは自分で始末をつけておきたい、と思っていた。

 しかし、勿論急ぐことではないので、そう思っているだけで、何年もだらだらとなにもしないで放置しておいた。

 切っ掛けがつかめないのである。第一、どうやって切っ掛けをつかめばよいかが分からないのだ。

 どこでどうやって墓地を探し、墓石を作らせ、そこに戒名を彫ってもらって、兄の管理する親の墓から分骨して新しい墓に親の骨の一部を移し・・・・というようなプロセスが頭では分っていても、第一歩を踏み出すスタートの具合いが分らないのだ。

 恐らく誰でもそうだろう。お寺の関係者が身内にいる人は別だが、信心深い生活を日頃していない私のような俗人には、「建墓」は簡単に手のつけられない遠い世界の仕事なのである。

 それでも、だんだん身近な問題として意識されるようになったのは、加齢のせいもあるが、墓地の販売を電話で言ってきた業者(つまり石屋さんですね)の言葉に耳を傾けて以来だった。

 マンション業者や証券会社がよく勧誘の電話をかけてくるが、あれと同じである。マンション業者や証券業者からの電話はピシャッと切るが、墓石の商売人の言葉には耳を傾けた。私の側に関心があり、必要があるから、つい甘い誘いに乗る。

 親の墓は所沢霊園といって、西武線の奥にある。今は一般にお寺ではなくて、霊園がはやっている。私も最初そういう方向で計画していたが、遠いので私自身が墓参りをきちんと定期的にしない。私はまことに親不幸である。

 私は親のことを決して忘れることはない。思い出を文章に書いたりしているから鎮魂の祈りはそれで十分だなどと嘯いて、図々しくかまえて、あっという間に二十年以上が過ぎた。これではいけない。

分骨してもっと近い場所に親の墓を移し、私もそこを自分の終の栖とする方式に切り換えれば、親不孝も解消できるのではないか、等々と考えたりもした。妙な自己弁明である。

 電話をかけてきた石屋さんは中野区や杉並区のお寺の土地を勧誘する。小さい区画である。それでも高い。

 買う意志があるようにみせて結局は買わない。同じ石屋さんが半年ぐらいするとまた電話をかけてくる。また、はぐらかして買わない。

 次の半年が過ぎるとまたかけてくる。そういうことが何回つづいただろうか。

 電話のやり取りのうちにいろいろのことが分ってきた。墓は半永久的なものと考えていたのだが、これは私の錯覚だった。墓石は腐らないが、墓地はまた更地にされて他人に売られるのである。だから中野や杉並の寺の土地がボコボコと売り出されているのである。

 それを聞いて、私はお墓を作るのはやめようかと思った。人がよくロマンチックに夢みるように、骨を粉にして海上に散布するとか、大きな樹木の下に埋めて自然土と一体になるようにするとか、なにかそんな可能性があるのではないかとも考えた。

 けれども人骨をどこでもいい、好きな場所に捨てたり埋めたりすることは法律で禁じられているのである。ロマンチックな解決は金もかかるし、手続きも大変だし、ちっともロマンチックではない。

 事実、スタンフォード大学の政治学者片岡鉄也氏が亡くなり、遺骨は東京湾上に葬られたが、友人知人が大挙して船に乗って、容易ならざる式典であったようだ。私も行こうかと思ったが、席も限られていて、評論家の宮崎正弘さんがこちら側の友人を代表して船に乗り、たくさんの映像を届けて下さった。

 生涯をアメリカとカナダで暮らした片岡さんだからこそ似つかわしい埋葬の形式だったといえるのかもしれない。

 どうせ墓は永久ではない。墓所にこだわるのは愚かである。そう思えばどうでもよいことだと思った。

 さりとて場所だけは作っておかないと家族が困るに相違ない。親と一緒に葬られたいという思いも一方ではやはりある。なんとなく落ち着かなかった。

 しかし、急ぐことではない。そう、まったく急ぐことではない。私はそう思って、また何年かが過ぎた。

 石屋は電話をかけてこなくなった。

 転機が訪れたのは七十二歳になってからだった。昨年の秋、知人の作家が自分と自分の親の墓を作った。四谷三丁目だった。まだ墓地が残っている。いいお寺だから一緒に行って紹介してあげる、という心からの親切な誘いがあって、初めて具体的な行動に出た。石屋ではなく、知人の声はやはりききめがある。

 そこは墓地全体が半分に仕切られていて、奥の半分は普通の墓地、手前の半分は霊園方式で、なんとなく明るい。奥は古く、苔むしていて、手前は新しく、華やかで、墓石もいろいろな形態をしている。二つの区画の間に柵があって、差別されるかのごとく、奥の墓地には簡単に這入れない。

 紹介されたのは手前の霊園で、墓石には薔薇の絵が彫られていたり、五線譜上の音符が踊っていたり、平和という文字が叫んでいたりもする。

 ここはお寺の檀家にならなくて済み、面倒がないなどの利点もあるが、私は迷った。ともかく少額の手付金だけ払って、半分ぐらい心を動かされて立ち去った。知人の作家を私は好きだったし、同じ墓地に一緒に埋められるのも悪くないな、と思った。生きているうちは一緒に親の墓参をして、帰りに一杯飲むのも楽しそうである。

 私はここに決めようかと家族と話し合って帰宅した。ちょうどその同じ日に、上野の寛永寺の墓所案内の広告が自宅の郵便受けに入っていた。すべては偶然である。

 ものは試しと電話をかけてみた。勿論相手は近代的な会社形式になっているものの、別の新しい石屋さんである。

 寛永寺のケースは土地と墓石とで二千万円と聞いて、ヤーメタとなった。すると、新しい石屋さんは、これの何分の一にも満たない私の予算を問い質して、いくつもの候補を口上し、私の心を誘惑した。どこもみな都心の一等地である。しかもなんとかして買えないでもない金額である。

 私はほとんど信じなかった。間もなくファックスで一覧表が届いた。ともかく実際の場所を見て下さい。見てから断るのは自由ですよ。最もふさわしいと思われる有利な一件をお教えします・・・・。

 人間の心は不思議なもので、四谷三丁目にほぼ決めかけていて、しかもこれでいいかな、と迷っている状況下だったからこそ、次の候補地を急いで見て、二つに一つのどちらかを選ぼう、今度のが良ければ前のを断わろう、今度のが悪ければ前の友人の作家の勧めに応じることに躊躇すまい、と、二者択一を瞬時にして心に決めていた。

 土地建物やマンションを買うときなどにも、人はみなこれと同じような二者択一に自分を追いこむのではあるまいか。

 私は自分ひとりで決めるわけにもいかないので、家内を急がせて、何日も置かずに次の候補のお寺を見るプログラムに従った。

 新しい候補地は地下鉄銀座線外苑前から徒歩二分、ベル・コモンズのビルの裏側にある持法寺という法華宗の小さなお寺である。北青山二丁目である。後でだんだん分ったが、このあたりにはビルの裏側にじつにさまざまなお寺が存在するのである。

 一歩表通りを離れると、あたりはシーンと静まり返って、大きいビルに遮られ、交通の音もしない。

 墓地はそんなに小さくはないが、見渡せる範囲の広さで、伝統的な普通の墓石が並んでいて、まあいわゆる墓地らしい墓地である。常識的である。いいんじゃないかな、と私は思った。

 同じ日にご住職にお目にかかった。若くて、性格の明るい方だった。私の本を何冊も買ってお読み下さっていた。これも偶然である。

 私の一番の心配、墓地は再び更地にされ、他人に売られてしまうのではないかに関して、ご住職は笑って問題にされなかった。そんなご心配は要りません。それはよくよくのケースです。先生の場合に限ってそんなことは・・・・と。

 ご住職から境内に、井伏鱒二と吉行淳之介の墓があると教えられて、帰りしなに早速に拝見した。井伏さんの方は何代も前からの墓所である。成程これなら、私の墓も少なくとも百年くらいはもつだろう、などと考えて、ここに心が一挙に傾いた。

 私が死ぬ覚悟がまったく出来ていなくて、地上の生にいかに執着しているかがこれで分るだろう。墓を作るのは私が死に近づいた心の位置に立っているからではない。まったくその逆なのである。

 これは自嘲しても仕方がない、死後もなお精一杯見栄を張りたい凡夫の性根の証明である。見栄というより、みじめなことにだけはなりたくないという思いにすぎないが、それも見栄といえば見栄であろう。

 死ねば自分の意識は消える。同時に世界は一挙に消える。世界を滅亡させることは自分の死によって可能になる。

 しかし、そのことがどうしても分らない。私は私の死後を私の生の影としか捉えていない。だから墓探しなどをする。

 死を生の延長でしか見ていない。断絶が分らない。頭で分って、じつは何も分っていない。しかし生きている間に分るということが本当に起こるとも思えない。ひょっとして断絶はないのかもしれないが・・・・。

 ご住職に挨拶して、石屋さんと私の買う墓地の場所を確定する話合いをした。小さな区画で、間口九十センチ、奥行き百二十センチであった。所沢の両親の墓所の三分の一にも満たない面積だ。土地の価格は百二十万円。このほかに墓石代は三百十万円である。石屋と契約を交した。平成十九年十月末の出来事であった。

 それから私はもう肩の荷が下りたと思い、お墓のことはすっかり忘れてしまった。石屋さんからやいのやいのと次の課題を言われるまで放置してしまった。墓石に文字を刻む前に私と私の妻の戒名をこしらえてもらわなければならない。お寺に先代のご住職が同居されていて、その老師が作って下さるというので、その方にお目にかかった。

 しばらくして、どういう文字がお好きですか、それはどういう理由からですか、という老師の質問が現在の若い住職を介して電話で私に届けられた。

 以下は老師に宛てた私の手紙の一節である。私の自己説明である。

拝啓

  ようやく春らしくなって参りました。この間はご親切に電話でご質問を賜わり、恐縮いたしました。

  あれから私が大切に思っている好きな言葉を二、三考えてみました。

  そういえばたしか、例えば「自覚」という言葉、あるいは「宿命」という言葉が若い頃から好きです。自覚というと偉そうに聞こえますが、「気がついている」くらいの意味です。嘘を言っていることに気がついていることは大切で、気がついていれば嘘を言ってもいいのかもしれません。気がつかないで嘘を言っている、それが一番いけないことだと思います。

  宿命もむつかしい概念としてではなく、希望的観測でものを言うな、というくらいの意味です。最悪のことを考えないで、いやなこと、不快なことは伏せて、ないことにして、安易な期待からすべての考えを組み立てる人が余りにも多いように思います。政治も外交もこれですべてダメにしているのではないでしょうか。日本の宿命をつねに考えていればこの国はもっと良くなるはずです。

  それから人間として一番大切なことは道徳ではなくて「羞恥」の感情ではないかと考えています。

  「信」も大事な言葉です。すべてこれだとも思っております。

 疑うことと信じることとは同じで、疑うなら中途半端ではなく、徹底的にとことん疑うべきです。そういうかたちでの「信」です。

  私の父は穏和な性格で、クールな人柄と言われました。戒名を見たら「空」と「静」とが入っていて、成程なと思いました。

 私は穏和でも、クールな性格でもありません。

 私は我が強く、根本的にやらないと気がすまない性格で、母の気質を受けていると思いますが、ただ自分で言うのも妙ですが、「明朗」なのです。

  ジクジク悩むということはなく、子供のときからお前は竹を割ったような性格だ、カラッとしていると言われたものでした。

 このあと妻のことを少し書いて、私の自己説明は終った。知らない僧に自分のことを語るのは難しいし、気羞しい。

 老師もまたかねて私の著述の幾つかを見て下さっていたが、それでも小さな懺悔録を書いた気分だ。

 桜が咲く頃に戒名(存修法名)が届けられた。私のは、

 本覺院殿信導日幹居士

 というのだった。

 石屋さんは「いいご戒名です。『殿』という一字はお願いしても簡単につけて戴けない文字です」と言ったが、私にはその値打ちは分らない。分らないから勿論これはそういうものだと有難く押し戴く以外にない。ただ「本覺」という二字が仏教で並々ならぬ意味を持つことは知っている。いいのかな、こんな文字をつけていただいて。「自覚」が好きなことばだと言ったせいかもしれないが、「信」も入っている、成程な・・・・などと思った。

 これで死後の名は決まったが、どこまでも生き残った側の人、社会の側にいる人の便宜のための名で、死んで行く私には何の関係もない。本物の仏教徒なら何の関係もない、などとは言わないだろうが。

 隕石の落下や原爆戦争などで人類が滅亡し、地球が死の世界になると分っていたら、私に死の恐怖は起こらないだろう。種が生き残り、個体が消滅することが理解を絶しているのである。

 私はどこまでも生の論理の中にいる。考えが浅い。仏典もあまり読まないできた。すべてを一日延ばしにしている。

 六月末に石屋さんから電話があって、墓が完成したから見に来いと言ってきた。そしてその際、開眼供養(墓に入魂する)は平成二十年八月一日ときまった。

 八月一日は朝から暑い日だった。所沢霊園で兄一家と落ち合い、二十年ぶりに両親の骨壷を開けて、読経してもらって、分骨式を終えた。父の骨も母の骨も真白で、少しも変色していなかった。完全な石灰質に還っているのだから当り前だが、夏の日を浴びた純粋な白さは私に安堵感を与えた。

 その日のうちに骨壷を抱えて、北青山に赴き、まず本堂に安置してご住職にあらためて読経してもらい、新しい墓に納めてからまた礼拝と読経の儀式が行われた。

 私は私の墓と言ってきたが、まずは両親が祀られている墓である。これからお彼岸やお盆のたびにここへ来なければならない、というのが不自然な気がして、なじむまで時間がかかりそうだと思った。

 骨の一部を移動させることも(分骨といっても決して二分の一の分量ではない)、ここへ天空から霊が舞い降りて来るというのもよく分らない。所沢と北青山の二箇所に霊は平等に舞い降りてくれるのだろうか。

 墓石の横にたしかに戒名が彫ってあった。私の十文字のうちでは「日幹」の二字が朱色に塗りこまれていた。

( 了 )

自衛隊音楽祭への提言

 11月に日本武道館で毎年行われる「自衛隊音楽まつり」に平成18年と19年の二度にわたって招待され、参加させてもらった。よく訓練された所作と音の一致、整然たる行進、朗々たる独唱、鳴り渡る管楽器の合奏――勿論どれも大変良かった。ことに演目の中心に位置する太鼓の大合同演奏はすごい。主催者はこれを恐らく目玉とみているであろう。あの広い会場に全国各地の駐屯地から集まった数百個の大太鼓、小太鼓、陣太鼓のくりひろげる総合ページェントは、まさに壮観の名に値する内容である。これが見たくて来る人が多いだろう。

 私も十分に満喫したので、ご招待ありがとうございました、ということばで尽きて、それ以上のことばは本当は何もないのだが、平成18年にもオヤと思い、平成19年にはさらにオヤ、オヤと思ってちょっぴり淋しかったことがあるので、一言申し上げてみたい。

 自衛隊音楽まつりに私などが一番期待するのは勇壮なマーチであり、次いで大東亜戦争の当時はやった軍歌のメロディである。

 平成19年の催しでマーチは軍艦マーチが短く挿入されただけで、フィナーレに「威風堂々」がやはり短く入ったが、私の聞き間違えでなければ、自衛隊の演奏の中にはマーチは他になく、平成18年の場合には、「星条旗よ永遠なれ」「分列行進曲」があったが、概して少なかった。期待していた旧軍歌は二年にわたってまったく演奏されなかった。何かに遠慮しているのだろうか。

 曲目の選定に当たる人にぜひ考えてもらいたいのだが、平成19年の場合のように、冒頭のオープニングの女性の朗誦が外国の曲というのはいかがなものか。

 途中「ラ・メール」「サンタ・ルチア」「カチューシャ」など、名曲とはいえ、旅行会社の宣伝のようなありふれた画像とともに聞かされたのは興ざめだった。ベートーヴェン「交響曲第七番」「悲愴」の二曲が流れたが、自衛隊音楽まつりでどうしてベートーヴェンを聴かなければならないのだろう。日本の歌というとどうして民謡ばかりになるのか。なぜ「ラプソディ・イン・ブルー」や「ファンシードリル」なのか。「我は海の子」でやっと拍手がわき起こったのを覚えていよう。みんな自分の知っている一昔前の日本の歌を聴きたいのである。

 カラオケでは「空の神兵」「加藤隼戦闘隊」「月月火水木金金」「愛国の花」「ラバウル小唄」「あ~紅の血は燃ゆる」「勝利の日まで」「父よあなたは強かった」等々が今でも毎夜、熱唱されている。若い世代に歌い継がれているのが新しい特徴である。

 どうか自衛隊音楽まつりらしく、旧軍の歴史を踏まえた選曲をぜひおねがいしたい。

陸上自衛隊幹部親睦誌『修親』平成20年(2008年)4月号より

お葬式と香典

 お葬式に香典をつつむという習慣を守っているが、最近それを辞退されるケースや、葬式そのものをやらない場合もあって、小さくない戸惑いを覚えている。

 この冬三人の知人が旅立った。

 高校の同級生と同じ高校の恩師、そしてこの十年ほど信頼し合える仲となった私と似た仕事をしている学者の三人である。恩師は当然十数年歳上である。他の二人はほぼ私と同年齢といっていい。

 私はいま72歳である。高校の同級生約50人のうち10人ほどが他界している。多い方だと思う。

 20台で逝った三人は自殺だった。中年の死は圧倒的にガンが多かった。60歳台ではじつは一人しか亡くなっていない。ガンである。残っている同級生はみな矍鑠(かくしゃく)としている。なにか仕事をしている。よく酒も飲む。

 と思っていると、今冬一人が逝った。70台半ばのある先輩が、「君、70を過ぎると同級生が次々と消えて行くよ」と数年前に言っていて、そんなものかと当時実感がなかったが、最初の例が出て、あゝやっぱりと思った。

 私は自分が老人だという自覚がほとんどない。仕事の内容は変わらないし、食欲も酒量も落ちない。大学の勤務を離れてからの方が生活はずっと充実している。

 ところが、昨年路上で二度ころんだ。何でもない路面の小さな凹凸に躓(つまづ)いた。二度とも若い女性が走り寄ってくれて嬉しかったが、やっぱり老人としか見られていないのだと思った。

 手の平のすり傷を医者に診てもらい、路面が荒れていたからだと言ったら、医者は「いや、あなたの脚がちゃんと上っていなかったんです。自分では上げているつもりでしょうが」といわれた。

 私が一番自分も歳をとったなァ、と思ったのは41歳になったときだった。もう若い方に属していないと認めるのはショックだった。しかしそれ以後は加齢については何も感じないできた。

 70になっても感じなかった。が、周りが容赦しないのだ。新聞をみると同年齢の訃報がつづく。妻は私の亡き後の自分の暮し方を気にしている。

 私の葬式についてどうしたらよいかと遠慮なく聞く。「慣習に従って世間並にやりなよ。お通夜はお酒とご馳走をたくさん出して賑やかにやって欲しい。お香典は正確にきちんと半返しにする。間違ってもどこぞへ寄附いたしましたとはやらないでくれ。寄附したいなら半返しをした残りを世間に黙って寄附すればよいのだ。香典のやり取りには鎮魂の意味があるんだよ。」などと勝手なご託を並べることもある。

 高校の友人のお通夜とお葬式はいまの私の趣旨にほぼ添っていた。お浄めの席は賑やかで、遺骸のある隣りの部屋は臨時クラス会のような酒を酌み交わす談笑の場となった。

 新聞記者だったその友人は、むかし酒席で、「西尾、お前言論雑誌でどんな派出なケンカをしてもいいが、負けるケンカだけはするなよ」などと肩を組みながら大きな声で耳許で叫んだのを私は思い出し、ふと涙ぐんだ。

 談笑の中に追悼がある。威儀を正さなければ祈りがない、などということはない。威儀を正すとかえって気が散れて、余計なことを考えたりしてしまう。

 高校の恩師の葬儀はキリスト教の教会で行われた。国語の先生だったが、黒板に英語やフランス語をどんどん書くユニークな先生だった。

 私は試験の答案の余白に、出題の意図をウラ読みする批評を書いたり、先生の人生観を風刺する歌を書いたりすると、必ず面白い返事の文句を書き並べた答案が返されてきた。私は今でもそれを大切に保管している。

 教え子に囲まれた先生の葬儀は荘厳で、立派な内容のある追悼の言葉で飾られていた。私は教会用のお香典袋を用意して持って行ったが、固辞され、受け取ってもらえなかった。そういう方針だというのである。他のすべての参会者が香典袋を押し返されていた。

 私は自宅に帰ってからも落ち着かなかった。追いかけて花環でも贈ろうかと思ったが、迷っているうちに時間が過ぎた。

 香典の金額は少額である。小さな寄進である。ただの形式である。しかしそれで気が鎮まるということはある。

 自分が参加したという裏付けのようなものである。私は先生を思い出すたびに、まだ務めを果していないような居心地の悪さを引き摺っている。

 私と似た仕事をしている学者の知友の場合には、葬式がなかった。遺族が身内だけで葬儀をすませ、初七日を過ぎてから訃報を伝えてきた。最近よくあるケースである。取り付く島がない。

 友人知人にも鎮魂の機会を与えるために葬儀がある。香典だけ送る、という手もあるが、それは好ましくない。自宅にバラバラに出向いてお焼香をするというのも、遺族への遠慮がって限りがある。どうして普通の葬式をしてくれなかったのかと私は遺族に不満を持った。

 私は一計を案じ、都内の某会場を借りて追悼記念会をやることにした。著作家の友のことだから、遺徳や業績を偲ぶ人は多い。

 しかしこのとき、人が死んだらできるだけ他人と違うことはしない方がよいと私は思った。

 死を迎えるのはどこまでも自分であるが、死ぬ前の自分と、死んだ後の自分は社会的な存在なのである。

『逓信協會雑誌』2008年5月号

平成20年 謹賀新年

謹 賀 新 年

水のかき消える滝

 七十歳を過ぎると、さすがもう時間は刻々と迫っているのだと、厭でも考えざるを得ない。しかし、日頃なにかと考え思い付くことは、仕事の上の新しい計画なのである。

 昨年と同じように今年に期待している、私という人間の鈍感さである。なにも悟っていない愚かさでもある。

 いつ急変が身を襲うかもしれないことに薄々気がついているのに、気がつかない振りをしている自分にたのもしささえ感じている。

 死の淵に臨む大病を二度しているので、あのときの感覚は分っているつもりだが、忘れるのも早いし、日々思い出すこともない。本当は分っていないのであろう。

 上田三四二という歌人がいた。何度もガンに襲われて逝った。私は彼の書いた私小説が好きで、好意的に論評し、文通もあり、死後彼の文庫本の解説も書いた。

 上田の小説は病院とそれをとり巻く環境、たえず自分の死を見つめる心の弱さや自分への激励を書いていた。やさしい心の人で、文章も柔かく、しみじみとした味わいがあった。

 彼の書いた比喩で、死は滝壷の手前でフッと水が消えてしまう滝を橋の上から見下ろしているようなものだ、という言い方があった。

 記憶で書いているので正確ではないかもしれないが、人間が生きているということは水量が多い川の流れである。それが滝になってどっと落ちる。落ちた水は滝壷に激流となってぶつかり、飛沫をあげるのが普通だが、この場合には落ちる途中でいっさいの水がいっぺんに消えてしまう場面を想定している。

 大量の奔流が落下の途中でフッとかき消え、その先はもう何もない。上田さんは、来世とか霊魂の不滅とかを信じることができないと言っていた。大抵の日本人はそうである。

 宗教の教えは来世を期待することと同じではない。むしろ期待しない心を鍛えることにある。

 彼は小説の中でつねに自分の死のテーマにこだわっていた。こだわり過ぎているとさえ思うことが多かった。あるとき、死を平生考えない人間がむしろ正常なのだ、という彼の感想があった。それはかえって彼における死の意識の深さを感じさせた。

 私は上田さん宛の手紙で、病いの中にあるときの私はあなたの作品に共感し、分ったようなつもりになっているが、本当は何も分っていないのかもしれない。私はあなたが知っての通りどちらかといえば「社会的自我」で生きているタイプの人間で、かりに不治の病に仆れても、結局は今までの自分を変えることはできず、あなたから見て軽薄な、表面的な「社会的自我」で活動する人間であることを死ぬまで守りつづけ、追いつづけるほかない人間であろう、という意味のことを、いくらか自嘲気味に書いた覚えがある。

 苦悩する聖者を前にした浅間しい凡夫のような立場に立って、私は彼の作品を読み、論評し、かつ私的にも交流した。

 私は本当には死の自覚を持っていない人間に違いない。

 一度だけこんなことがあった。

 都心から深夜高速に乗ってタクシーで一路自宅へ急いでいたときだった。点滅する前方の光の乱射がどういう心理作用を及ぼしたのか分らない。私は自分の意識が突然消えてなくなるということがどういうことか分らないのに、それが一瞬分るような、なにかがくんと身体が揺さぶられるような、眩暈のような感覚にとらわれた。私はしばらく息を呑む思いがした。

 自分の意識が消えてなくなる?これはどういうことだ?

 自分がなにか違う次元の相へスリップインしたような、ついぞ体験をしたことのない異様な恐怖が私を襲った。

 うまく言葉でいえないが、それはたしかに恐ろしかった。私は目をつぶってやり過した。

 上田さんの、滝壷の手前でフッとかき消えてしまう不思議な滝の光景がしきりに思い合わされた。

 タクシーは間もなく高井戸から環状八号線に入り、いつも見ている馴染みの商店街を目にするにつれ、私は自分を取り戻した。私は携帯を取り出して、もうすぐ帰るよ、と自宅へ電話した。

 あっという間の出来事だった。

(『礎』第2号からの転載)

文・西尾幹二

アンリ・ルソー

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1888年頃、油彩・キャンパス、46*55センチ、世田谷美術館蔵
「世田谷美術館開館20周年記念、ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」展は、12月10日(日)まで、東京・世田谷の世田谷美術館で開催中。休館日は毎週月曜日。お問い合わせはハローダイヤル=03-5777-8600へ。

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「サン=ニコラ河岸から見たサン=ルイ島」
孤独な人影 ここにも

 一瞬パッと見たとき童話の挿絵、子供が一番最初に描いたお父さんの顔、肖像はたいてい正面を向いていて、遠い家も近い家も同じ大きさで、色がきれいな塗り絵の世界、動きがピタッと静止した瞬間の絵、それでいて楽しくて悲しい不思議な物語が絵の奥に伏せられているような詩的世界――それがアンリ・ルソーの印象である。

 遠近法を欠いて基本的に二次元で描かれている。タヒチを描いたゴーガンの画法や装飾化したクリムトの世界も二次元。北斎も火や水をそこだけわざと装飾化している例がある。でも彼らはみな遠近法を承知で壊したのである。ルソーは遠近法を知らなかったのか学ぼうとして学べなかったのかそこが微妙に分らない。

 この絵はパリを描いた風景画だが、彼の風景画には必ず孤独な人影がある。この絵にもある。あたかも近代絵画の流れから無縁な位置にいたルソーの孤独が写されているようにも思える。(西尾幹二・ドイツ文学者)

東京新聞11月2日掲載

お 知 ら せ

11月11日(土)に公開講演をいたします。

「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」

日本ショーペンハウアー協会第19回全国大会

場所:九州産業大学(1号館2階S201大教室)
    福岡市東区松香台2-3-1
問い合わせ先:日本ショーペンハウアー協会事務局
        (日本大学文理学部哲学研究室内)
         020-4624-9462

午前中は研究発表、午後私の公開講演、そしてシンポジウムがある。

13:40~14:40 公開講演
14:50~17:15 シンポジウムショーペンハウアーと日本の思想

公開講演は無料シンポジウムに私は参加しません

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(八)

 言論人は反政府的であるべし、と決まっているわけではない。それは古い考え方である。それでも言論人と政治家とでは役割が異なる。言語で表現するのと、行動で表現するのとの原則上の違いがある。

 昔は言論人は反政府的ときまっていた。福田恆存のような、自分は「保守反動です」とわざということがアイロニーだった時代に文字通りの保守思想界を代表した論客が、選挙で何党を支持するのかと問われて、自民党と答えず民社党と言っていたのを面白いためらいと思ったことを覚えている。

 この原稿を私は私の若い時代、60年安保騒動の思い出から始めたので、もう少し思い出を加えてみよう。さらに6年ほどさかのぼった昭和29年(1954年)に、私は大学1年で、第5次吉田内閣のたしか官房長官だった増田甲子七という人が駒場のキャンパスに来て大教室で講演をしたのを聴いたことがある。

 あの頃保守政党の政治家は学生にとっては「人間」ではなかった。会場は怒声で溢れていた。彼がなんの話をしたのか、まったく覚えていないが、次々と質問に立つ学生が「増田!貴様は・・・・」という調子で呼び捨てにするので、私はひどい連中だと秘かに彼らのほうに腹を立てていた。

 すると会場からひとり「失礼ではないか。呼び捨て止めろ」の声を挙げる者がいて、その一声で会場がサーッと波打つように静かになって、私がホッと安堵したのがはっきり記憶にある。

 当時の学生たちの「非常識」と「常識」の二面を見る思いがしたものだが、要するに保守政党の政治家は学生世論では悪の権化であり、人間の皮を被った化物なのであった。

 そのわずか2年前(昭和27年)の5月に皇居前広場で「血のメーデー事件」が起きていた。米ソ対立の代理戦争が日本の国内で白熱化していた時代だった。昭和35年はいうまでもなく60年安保で、アイゼンハウアー大統領の訪日阻止デモで私の友人の何人もが逮捕されている。

 そんな時代の空気をずっと吸って生きてきた私は、勿論まったく時代の風潮に反対であり、保守サイドに立つ私は彼らにとって裏切者で、悪魔の代弁者であったが、支持政党は何かと公式に聞かれると自民党とはあえて言わないで民社党と言った福田恆存の自己韜晦は非常によく分るのである。

 32歳の頃、私は国立大学の講師だったが、『国民協会』という自民党の新聞に一度だけ署名原稿を書いたことがある。誰かが見つけて来て、ドイツ文学界の中の私の評判はがた落ちになった。

 私だけでなく、政府に与するような議論を述べることに言論人は永い間逡巡し勝ちだった。いつの頃から情勢が変わったのだろうか。アメリカの影響だろうか。左翼が弱くなったせいもあろう。それでも、政府べったりの主張をする人間はみっともないという意識は、学者言論人の世界ではずっと普通だったし、今でも多分そうだろう。

 あの60年安保騒動の渦中にあった首相のお孫さんが総理大臣になったのかと思うと、昔を知る世代には感無量である。そして、知識人や言論人のブレーンの名が新聞に出ると、アメリカ型政治の影響であるとか何とかいわれても、半世紀でこうも変わるものかとこれまた不思議な思いが去来するのである。

 時代がどんなに変わっても、権力と知識人の間にはつねに一定の緊張が昔からある。また、なければいけない。言論人が個々の政策に口を出すのではなく、むしろ言論人が政権に黙って大きな立場から影響を与えるというくらいの存在でなければ意味がないのではないだろうか。

 言論人が政権にすり寄り、虎の威を借りて自説を補強するなどということは、最近の新しい現象かもしれない。それが言論の強化に役立つと考えるのだけは完全な錯覚である。

 それは次のような理由による。言論と違って、政治は無節操に変化するのを常とするからである。例えば安倍政権は拉致事件の解決のために中国と協議する必要上、靖国で妥協するかもしれないと不安がられている。私はそんなことはしない方が得策だという考えである。靖国で妥協してもしなくても、中国の北朝鮮政策は同じで、拉致が解決しないときは何をしてもしない。としたら、妥協したならば安倍氏は両方を失う可能性がある。そう思うからである。

 しかしそう思うのはどこまでも言論人の考え方である。政治家はまったく別の判断をするだろう。別の判断をしても仕方がないだろう。しかもそれを政治家は自分の責任においてやるだろう。言論人はこの種の政治的情勢判断を慎むべきである。民族の「信仰」の問題で他国との妥協はあり得るか否かの原則を応答すればそれでよい。

 新井白石や荻生徂徠が幕府から下問されて儒教の経書に照らして思想上の正否を述べ、それ以上口出ししなかったという態度にもこれは似ている。

 岡崎久彦氏が靖国の遊就館の展示内容をさし換えよという乱暴な発言をしたとき、文化界のある重要な立場にいる人が私に、岡崎氏は米大統領が安倍新政権にテコ入れするために二人で一緒に靖国参拝をする情報を知っていて、米大統領が参拝し易い条件をつくろうとしているのだろう、と言った。私は確かな情報か、と問い質した。すると彼は、いや、岡崎氏ともあろう人がこんな発言をするからにはそれくらいのことがあるのではないか、と、単なる観測気球をあげた。何から何まで人の好い、楽天的な、自分の好む方向を好意的に空想しているだけの話で、文化界にある人のこういう政治的観測、根拠なき情勢判断の甘さは何よりも具合が悪いと私は思った。

 言論人はこの手の政治情勢解釈を、できるだけ慎むべきである。言論人がある程度「反政府的」であらざるを得ないというのは、言論と政治の原則上の相違からくる。政治はどんどん揺れ動く。言論はそうそう揺れ動くわけにはいかないからだ。

 政治家のために言論人が奉仕すべきではなく、奉仕してもそれには自ら限界があるというのはここに由来する。

 竹中平蔵氏の運命をみても、政治に全面奉仕して、彼に残るものは何もなかった。不良債権処理と構造改革において政権の力で自分の理念を実行し得た、という自己満足は十分に残っただろうが、それが客観的に評価されるかどうかはまったく分らない。彼は政界に残っていても、安倍氏に相手にされず、もうやることがないと判明したので辞めたのだと思う。

 しかし彼は言論人であることを中止して政治家となった数少ない成功例である。彼は学者言論人にはもう戻れない。勿論、どこかの職場の一員としては戻れるだろうが、その言論活動は何を唱えても末永く「小泉」の名と結びつけて扱われることを避けることは出来ないだろう。

 学者言論人の政治との関わり方は難しい。前にも言ったが、黙っていてもその影響が政治に静かに作用しつづけるような存在でなければ本当は迂闊に政治について発言すべきではないのかもしれない。しかしその理想形態は孔子と魯国、ゲーテとワイマル公国のようなケースで、現代においてはほとんど不可能かもしれない。

 ここまで書いて9月26日を迎え、安倍新内閣の閣僚名簿が発表された。総じて私は好感をもった。経済閣僚の人選には竹中路線が感じられ、少し先行き不安だが、安倍氏が自分の思想的同志で固めたのは心強い。論功行賞などという必要はない。首相の意志がパッと伝わる陣形がつくられたのは能率的で、「党内党」がつくられたという趣きさえある。

 そこから当然問題が生じる。首相に力が結集するこの「集中力」は安倍氏のパワーに依るものではなく、前首相の野蛮な力の遺産である。前首相と異なる人柄の良さと明るさで野蛮の根はいま覆い隠されている。しかし「集中力」はいつかほどける時がくる。

 ほどけたほうがいい。ほどけて党内不統一が生じるのが自民党らしい民主的なやり方で、もし党内統一がますます強まり、国民を「束ねる」方向へどんどん進んだらまた別の危険が生じるだろう。

 自民党は昔から、陰と陽、明と暗、動と静のカラーの交替で危機を乗り超えて来た。前首相の遺産を受け継ぎながら、前首相とは正反対の仮面を新たに表に出して、世間の目に舞台を替えて見せるのである。

 野蛮の次は今回は礼儀正さである。パフォーマンスの次は地味な実務的効率の良さである。それで目先を替えて今回もうまく行くのかもしれない。

 いずれにせよ、閣僚の中に田中真紀子とか猪口邦子といったわれわれが嘲りたくなるような人物がひとりもいないということだけでも、ホッと一安心できてありがたい。

           (終)

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(五)

 いま新聞や週刊誌は誰が大臣になれるかなれないか、幹事長や官房長官の座を射とめるのは誰か、そんな話題でもち切りである。誰が大臣になっても同じだと嘲笑う一方で、誰それは必ず何大臣になりそうだとかなれそうでないとかの情報をまことしやかに、さも大事そうに伝える記事も忘れずに書く。

 マスコミの習性は昔から変わらない。そして学者や言論界の予想されるブレーンの名前を添え書きするのも毎回同じである。ただ今回は、「新しい歴史教科書をつくる会」の紛争記事でおなじみになった名前、岡崎久彦、中西輝政、八木秀次、伊藤哲夫の名前がたびたび登場するのが注目すべき点であろう。

 当「日録」でしばしば扱われてきた方々が新内閣のブレーンとして重職を担うということになるのだそうである。もしそれが事実であるとすれば、「歴史教科書」をめぐって最近起こった出来事、すなわちかの激しい紛争と安倍新政権とがまったく無関係だと考えることは、どうごまかそうとしても難しいだろう。

 「日録」に掲げられた「つくる会顛末紀」「続・つくる会顛末紀」をお読みになった方は、「つくる会」紛争のキーパーソンが日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏であったことに薄々お気づきになったに違いない。旧「生長の家」の学生運動時代において、「つくる会」宮崎元事務局長と同志であり、「つくる会」元会長八木秀次氏とは師弟関係、あるいは兄貴分のような位置関係にあると見ていい人だと思う。

 思えば安倍政権の成立に賭けてきた伊藤氏の永年の情熱には並々ならぬものがあった。それは悪しき野心では必ずしもない。自分の政治信条を実現するうえで安倍氏は最も役に立つ、という判断に立っている。「安倍さんは自分たちの提案を一番聞いてくれる」と伊藤氏はよく言っていた。

 伊藤氏はシンクタンクの代表者であり、アドバイザーである。昭和天皇冨田メモ事件における安倍氏の記者会見の発言は伊藤氏に負う所大であると秘かに伝え聞く。これからも伊藤氏は安倍新内閣を側面から扶助し、相応の権力を分与される立場に立つであろう。

 伊藤氏がそうなることは氏の永年の夢の実現であり、昔の友人として私はそのような状況の到来を喜んでいる。氏は思想家ではないと自分で自認している。氏は言論人でもない。政治ないし政界にもっと近い人である。フィクサーという言葉があるが、そういう例かもしれない。故・末次一郎氏のような役割を目指しているのかもしれない。

 伊藤氏のような仕事を目指す方がこういう補完的役割を果すということは、それ自体はとても良いことなのだが、中西輝政氏や八木秀次氏は学者であり、言論人であり、思想家を自称さえしているのであるから、伊藤氏とは事情を異にしていると言わなければならない。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うであろう。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。

 読者が知っておくべき問題がある。八木秀次氏の昨年暮の中国訪問、会長の名で独断で事務職員だけを随行員にして出かけ、中国社会科学院で正式に応待され、相手にはめられたような討議を公表し、「つくる会」としての定期会談まで勝手に約束して来た迂闊さが問われた問題である。中国に行って悪いのではない。たゞ余りに不用意であった。

 折しも上海外交官自殺事件を厳しく吟味していた中西輝政理事に、会としてこの件の正式判定をしてもらうことになった。高池副会長が京都のご自宅に電話を入れた。その日の夕方、中西氏からそそくさとファクスで辞表が送られてきた。電話のご用向きは何だったのでしょうか、の挨拶もなかったので、会の側を怒らせた。

 上海外交官自殺事件その他で、中国の謀略への警告をひごろ論文に書いている中西氏が、八木氏の中国行きを批判し叱責しなかったら、筋が通らないのではないだろうか。書いていることと行うこととがこんなに矛盾するのはまずいのではないか、という中西氏への非難の声が会のあちこちで上ったことは事実である。

 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。けれども「つくる会」から逃げるだけでなく、もう一方の会からも逃げるのでなければ、頭隠して尻隠さずで、政治効果はあがらないのではないだろうか。とすればもう一方の会からは逃げる積りがないことを意味しよう。

 伊藤哲夫氏の日本政策研究センターは安倍晋三氏を応援する「立ち上れ!日本」ネットワークという「草の根運動」を昨年末ごろに開始している。安倍氏もそのパンフに特別枠の挨拶文をのせている。総裁選のための人集めと思われる。中西輝政氏も、八木秀次氏もそこに名を列ねている。

 すべてのこうした複数の名前が鎖につながれるように一つながりになって、「つくる会」を「弾圧」する側に回っていた背景の事情を、私はとうの昔に見通していた。しかし世の中は、安倍政権が近づいて、学者や言論界のブレーンの名前が新聞に出ないかぎり、どういうつながりが形成されていたかをなかなか理解しない。

 伊藤哲夫氏が「立ち上れ!日本」ネットワークのような特定政治家応援の運動を展開することは氏の自由に属する。氏の本来の仕事でもあるから結構なことである。

 私は伊藤氏のそうした政治活動を非難しているのではない。伊藤氏よ、間違えないで欲しい。

 そうではなく、伊藤氏が宮崎元事務局長を死守しようとして「つくる会」の人事権に介入し、八木秀次氏の「三つの大罪」(前回参照)を認めずに八木氏を背後からあくまで守ろうとして、一貫して「つくる会」を「弾圧」する理不尽な行動を強行したことを私は責めている。氏はこの事実をまず認め、反省してほしい。

 そして衆目の見る処、伊藤氏の「つくる会弾圧」の力の源泉は安倍晋三氏にあると考えざるを得ない。そのことが新聞に名が出ることで誰の目にも次第に明らかになってきた。

 総理大臣になる前に安倍氏がかねて最も大切にしていたはずの「歴史教科書」の会を混乱させ、分断にいたらしめたことに自ら関与しなかったにしても、結果的に、間接的に、関与していたという事情が次第に明らかになることは、安倍氏の不名誉ではないだろうか。

 「歴史教科書」と並ぶもう一つのタームである「靖国」に対しても、安倍氏は総理大臣になる前に、その遊就館の陳列の改悪に関して、岡崎久彦氏を使って手を加えさせようとしたのではないかという疑念がもたれている。

 私は今の処この件に関し背後の闇に光を当てる材料をもたない。しかし安倍氏ご本人が忙しくてどこまで自覚しているかは分らぬにせよ、伊藤哲夫氏や岡崎久彦氏のような取り巻きがこのように勝手に動いて安倍氏の首班指名前の歴史に泥を塗るようなことが起こっているのは事実ではないだろうか。

 私は伊藤氏が「歴史教科書」に関して八木氏が犯したような「三つの大罪」を犯しているなどとは全く考えていない。しかし、氏が「八木さんは悪くない。八木さんを支持して下さい」とあっちこっちで言って歩いていたのは間違いない事実である。

 以上のような八木氏の持上げは伊藤氏が安倍晋三氏の指示を受けてやったことなのか、ご自身の勝手な判断で安倍氏の意向を汲んでのことなのか、それともまったく安倍氏とは関係のない自由判断なのか。

 そのことは時間が経つうちに次第に明らかになるだろう。

 私は「つくる会」の紛争に安倍氏が無関係であったどころか、並々ならぬ関与があったのではないのかという疑いに一定の推論を試みているのである。「歴史教科書」と「靖国」という外交上の条件を新政権の成立前にともかく替えてしまいたい。その手先になって働く者は誰でもいいから利用したかったのではないか。

 安倍氏の靖国四月参拝は、小泉八月十三日前倒し参拝と同じ姑息な一手に見えてならない。氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせているのも気になる。今さら憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい。国民の反応よりも、アメリカの顔色をうかがっているのかもしれない。参議院候補者の見直しは唯一の勇気ある態度表明だが、もう恐いものなしと見ての党内大勢を見縊っての発言であって、総裁選より参院選の方が心配だからである。中国とアメリカへの彼の態度の方はいぜんとして不透明で煮え切らない。

 「歴史教科書」を新米色に塗り替え「靖国」の陳列にアメリカへのへつらいを公言した岡崎久彦氏への干渉は、安倍氏の意向の反映でなかったと言い切れるか。

 12月末中国を不用意に訪問し、定期会談を約束し、慰安婦や南京で朝日新聞を失望させない教科書を書くと「アエラ」発言をした八木秀次氏の軽薄な勇み足は、安倍氏の外交政策の本音をつい迂闊に漏らした現われでなかったと果して言い切れるか。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(四)

 7月2日の「新しい歴史教科書をつくる会」総会の終了後にいつものように懇親会があった。櫻井よしこさんその他が挨拶をした。櫻井さんはいつも来る顔である。この日は珍しい来賓があった。岡崎久彦氏である。

 岡崎氏は私が名誉会長であった間は総会に来たことがない。多分気恥しいひけ目があったからだろう。(彼は「つくる会」創設時には脛に傷もつ身である。)私が姿を見せなくなったら突然現われ、紛争について叱責調で、「つまらない争いはやめろ、一体何で争っているのか分らない。怪メールが非難されているが、自分には何が悪いことなのかまったく分らない。八木氏の中国訪問に何も問題はない」と語ったそうだ。

 伝え聞きなので正確を欠くかもしれないが、ともかくそういうことを言ったそうだ。櫻井よしこさんも「子供みたいな喧嘩は止めなさい」というたぐいのお説教を述べたそうである。

 櫻井さんの動機はよく分らないが、岡崎氏がここへ出て来て、偉そうにして、参集した「つくる会」会員を叱ったのは今からみるととても奇怪な話なのである。なぜなら、岡崎氏は内紛の一方の味方になって彼らにピタッと張り付いた、実は紛争の当事者の一人であることが次第に分って来たからである。

 子供たちが喧嘩をしている場に先生がやって来て、もう争いは止めなさいと喧嘩両成敗のふりをして、じつは先生が一方に勝たせるためにきれいごとを言っていたというケースにも似ている。

 先生はA君を勝たせたい。B君が勝つと先生の職員会議での立場がなくなる。放って置くと必ずB君が勝つ。B君の主張のほうが正義であり、A君は汚い手を使っているからである。A君の汚い手は世間に知られると学校の名誉が傷つきまずい。そんなものはなかったことにしてしまいたい。

 というわけで先生はB君の仲間が集っている教室にやって来て、「お前たち、子供みたいな喧嘩はやめなさい」と叫んだ。B君とその仲間を黙らせることがA君を救うことになり、結果的に学校を救うことになる。岡崎先生は校長からそういう指示を受けていたに相違ない。櫻井先生もあるいはそうだったかもしれない。小田村四郎先生はその長い教員生活で間違いなくそういう指令を敏感に受け取って忠実に実行することでよく知られている人だった。

 B君たちはどこまでも自分を貫きたい。しかしそう出来ない事情がある。学校をやめさせられると明日から困るという事情がある。本当はやめてしまいたいのだが、B君たちは学校から「歴史教科書を出版してもらう」という業務資格を与えられているからである。退学したいが、退学してしまうとその業務資格をも失う。

 岡崎先生はB君たちのその弱点を知っている。人の弱味につけこんで居丈高に振舞うのは卑劣の徒のすることだが、平成も18年に及ぶと、卑劣は正義の仮面をつけて大通りを歩む。

 岡崎先生の後に学校長がいる。そのまた後に誰かがいるのではないか。

 その誰かに秋波を送るために学園あげてせっせと卑劣の技を磨いているのではないか。多くの人はだんだんその全体事情が分るようになって来た。

 じつは昨日「つくる会」に関係する件で、ここでは語れない非常に不愉快な別件が起こった。私が信頼している地方の会員さんが悩んで、長いメールを下さった。(私は会を辞任して久しいのだが、今でも切実な言葉を訴えてくる方が後を絶たないのである。)

 その方が、どんな不愉快な出来事が新たに起こっても、八木秀次氏(いわずと知れたA君のこと)の会に対して犯した「三つの罪」に比べれば取るに足りない、と、次のように書いてこられた。

 「今問題になっているこの件ですが、再びつくる会の混乱を招くことは避けたい、というのが現在の私の心境です。八木氏の三つの大罪、つくる会会長の身分で勝手に訪中し、定期会合まで約束した。藤岡先生の共産党脱退の期日を公安の名まで出して偽り、陥れようとした。(これは刑事告発されるような問題と思います)。雑誌「アエラ」につくる会にとっては不倶戴天の敵朝日新聞に批判されない歴史教科書をつくると公言した。

このようなことが、なんら咎められることなく、日本教育再生機構の代表に祭り上げられる。そして多くの識者が臭い物に蓋をして平然と祝辞を述べる。正に虚偽の集合体と言うほかない。しかし、これが目の前にある現実なんだ、と肯定はしませんが認識せざるを得ない。今起こっている新しい問題は、これに較べれば軽いものです。

 B君のグループはこうして教室の中で静かに膝をかかえて、じっと忍耐し、推移を見守っている。つまらない喧嘩はやめろ、と岡崎先生も、櫻井先生も、小田村先生も言うけれど、「三つの大罪」を正すことがどうしてつまらない喧嘩だといって切り捨てられるのだろうか、と生徒たちは腑に落ちない。

 どうも何か新しい事態が起こりそうなのだ。新しい理事長が学園にやってくる。A君も、岡崎久彦先生も、小田村四郎先生も、伊藤哲夫先生も、否、学園の組織全体が妙な雰囲気になり、歯車が狂い始めているのはそのせいらしいのだ。

 常識では考えられないことが相次いで起こっている。紛争のどちらの側にも味方しないと言っていた新聞社がA君の仲間の記事だけを目立つ場所に掲げる。B君たちの大集会のあった「総会」の日に合わせてA君の新聞コラムを載せた。出版社はA君の本や岡崎先生の本をこれ見よがしに出すことも忘れない。

 と、そうこうするうちに岡崎先生は勢い余って、靖国にまで手を出し、B君たちの歴史観は正しくないと大見栄を切ることさえやってのけた。やがて手ひどい竹箆返しを食らう日もくるだろう。

 一番バカバカしいと思ったのはA君たちの「日本教育再生機構」のこの「日本教育再生」という文字が新理事長の赴任後の方針に出てくる文字と符合していること、集会の日に配られたパンフの表紙に大きな字で「美しい日本の心を伝える」とあり、これまた何処かで聞いたことばなんだ・・・・・・

 え?「美しい日本」・・・・・・「美しい国」・・・・・・どっちが先なの?どっちが真似したの?自分を新理事長に似せようとするこの涙ぐましい生徒達の愚行。新しい権力者に平然とすり寄る羞恥心の欠落!

 新理事長が学校に赴任したらいい大人たちが手に手に旗をもって歓声を挙げて走り寄るのであろう。美と、健康と、清潔を掲げるスローガン。ハイル!ハイル!何とか。

 学園内部の紛争は新理事長の自ら関知しないことだったかもしれない。しかし、その人の着任を知って、ありとあらゆる学内の組織と人事が「おべっか」の組織的自己調節を始めた。

 「歴史教科書の出版権」という業務資格はB君たちに対する生殺与奪の権である。「おべっか」の組織がこれを振り翳して理不尽な圧力を加えればそこに必死の抵抗が始まる。三つの大罪を犯した者に理由もなく(まったく理由もなく)一方的に特権を与えようとすれば、必然的に混乱と争乱が始まる。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛の真の原因はこうして次第に明らかになりつつあるといってよいだろう。

 たとえこれから何が起こっても、A君の「三つの大罪」への追及の手がゆるむことはないだろう。A君が権力者に取り入り何らかの目立つ地位に就いた暁には、「三つの大罪」はそれだけかえって大きくクローズアップされ、ひときわグロテクスな輝きを放つことになるであろう。

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(三)

 

 9月10日発売『Voice』10月号「安倍総理の日本」の中で、私が「まずは九条問題の解決から」を担当しています。6枚の短文ですが、『正論』の拙論「安倍晋三氏よ、〈小泉〉にならないで欲しい」の補説になっていると思いますので、ご一読賜り度。   西尾 

 7月2日に「新しい歴史教科書をつくる会」第9回定期総会が行われた。私は勿論出向いていないが、後に報告を受けている。

 「つくる会」執行部はその日ある文書を参加者全員に配布する用意をしていた。それは会の内外に波紋を呼んだ紛争の経緯を、会が責任をもって説明するための「総括文書」である。

 私も後で読んだが、冷静によくまとめられていた。勿論「つくる会」の立場から書かれたもので、会をそろって「辞任」した八木秀次氏以下六人の元理事たちの立場を反映したものではなかったかもしれない。だが、それがもし必要なら、六人が別個の「総括文書」を他の機会に出せば済むことであろう。

 双方言い分があって対立し、主張し合い、袂を別ったのであるから、立場の異なる二つの「総括文書」が作成され、世間の便に供されればそれでよいであろう。お互いの立場を理論的に明確にすることは大切なことである。

 私はそう考えるし、良識ある者はそう考えるのが普通であると思う。話に聞けば文書を用意した「つくる会」サイドの理事諸氏は新しいステップを踏んで、会を再建するためにも過去の足取りを再確認し、広く会員に理解を求めて、流布している誤解や勘違いの類を一日も早く取り除きたいと願っていたそうである。

 というわけで、件の「総括文書」は参集した約200人の会員に受付で他の資料と共に配られた。パラパラと中をめくって読みかける人もいたそうだ。

 総会が終わりにさしかかった頃タイミングを見計って、元官僚の小田村四郎氏が起ち上がった。そして言った。仲間割れしている場合ではない。左翼を喜ばせるだけである。二つの勢力が仲良くするためにはこの「総括文書」は邪魔になる。もうこんなことはやらないで欲しい。いま配られたものを回収してもらいたいと強い調子で主張したのだった。

 会場は騒然となったそうである。小田村氏は人も知る「日本会議」の最高幹部の一人である。執行部はうろたえた。ひきつづき西東京支部のある女性会員が起ち上がって、涙声で小田村氏支持のスピーチをした。

 その女性は、この資料が一人歩きをしてしまうので「総括文書」は抹殺して欲しい、もうこれからは先生方全員、週刊誌など一切の報道機関に内紛の経緯を書いて欲しくないなどと言ったらしい。この女性の発言にその場の空気は一遍に「総括文書」を否定的にとらえるものとなり、日本会議の重鎮である小田村氏の意見を尊重することこそ全員の意見であるかのようになってしまったという。

 後日判明したが、この女性会員は元「生長の家」活動家で、日本青年協議会のメンバーであり、つまりは全部組織的につながっているのであったが、そのときは誰も知る由がない。

 もはや会場は収拾がつかなくなった。執行部は大急ぎで鳩首会談を開いた。小田村氏の権威(?)と女性の涙の訴えに気押され、いったん配布していた「総括文書」を回収する決定に追いこまれたのだった。

 私の知るのは以上のような事実である。鳩首会談の内容は知らない。ただ、小田村氏に賛同した人々の声は私の耳にも届いている。「『つくる会』の内紛はもうやめてくれ。徒らに左翼を喜ばせるだけではないか。仲間割れしている場合ではないのだ。」

 私は内紛をきちんとやめるためにも、「総括文書」の配布は必要であったと考える。会員の多くが過去の「事実」を正確に知ることから再建が始まる。「歴史」を知ることから未来が拓ける。

 すべてをうやむやにしてしまえば皆が再び仲良く一つになれると思う小田村氏の考えは甘いし、紛争の実体を彼は余りにも知らない。(今ここでその実体を再説することはもうしない。)

 加えて、仲間割れは利敵行為になるから、保守勢力の「全体」のパワーの結集のために「小異を捨てて大同につけ」といわんばかりの小田村氏の号令は、日本会議を中心に据えたいわば軍令部司団長の発想である。政治主義的な発想である。教科書作成の会になじまない。

 私は半世紀前の、60年安保の日の大学のキャンパスを思い出していた。大学院生も学部の学生も区別はないと私は言った。大学院生である自分が国会デモに参加するかしないかだけが問われているのであって、自分以外の、学部の学生のデモ参加を声明文で支持するか否かが問われているのではない、と。

 すると柴田翔君は「君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている」と言った。誰かが「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と叫んだ。

 小田村四郎氏は私には柴田翔に見える。保守のありとあらゆる種類の会合に熱心に顔を出すこの老運動家は、60年安保の左翼革命インテリの顔に重なって見える。

 小田村氏は号令を発した。柴田翔君も号令を発していた。私は政治的な内容のどんな号令にも従う気はない。

 私だけではない。こと教科書作成に携わるような人は、内発の声にのみ従い、どんな号令にも従うべきではない。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(二)

 以上に見た通り、「政治的思考」とか「敗北主義」とかいう言葉は当時左翼革命シンパたちがとかく他人を罵倒するときに使う常套句であった。政治的集団の力を少しでも高めて革命のための政治効果をあげることが何を措いても大切で、それが「政治的思考」だという考え方に発する。

 半世紀後の今では「保守運動」とかいうものを信じている連中が「小異を捨てて、大同につけ」とよく言うが、この言葉は「政治的思考」とまったく同質、同根である。仲間をみんなかき集めて一つになれ、という方向を「宥和」という言葉で形容することもある。

 みんな同じ左翼革命シンパの常套句の裏返しなのである。

 その証拠に、彼らは二言目に、「敵は左翼だ。仲間割れしている場合ではない。一つにまとまれ。団結の力を示せ」とまるで人間を兵隊扱いする。昔の左翼の言い分そっくりである。

 敵は左翼でも何でもない。敵はそういうことを叫ぶ人の心の中にある。左翼なんか今はどこにもいない。保守の名を騙(かた)る集団主義者の方がよっぽど昔の左翼に近い。

 ある保守を騙る人間が、黒い猫も白い猫も鼠を取ってくれゝばみな同じ、渡部も小堀も岡崎も西尾も、鼠退治をしてくれゝばみな同じ、と言っていたことばを今思い出す。腹立たしいほどに間違った言葉である。

 どうも今保守主義と称する人間にこの手の連中が増えているように思える。保守は政治的集団主義にはなじまない。保守的ということはあっても保守主義というものはない。保守的生活態度というものはあっても、保守的政治運動というものはあってはならないし、それは保守ではなくすでに反動である。

 「日本政策研究センター」とか「日本会議」はそこいらを根本的にはき違えている。保守は政治の旗を振るために団体をつくってはいけないのだ。それは左翼革命シンパのやり方、その模倣形態である。

 戦後余りに左翼が強かったので対抗上保守側も組織をつくった。それがだんだん巨大化して、自分たちがいま、昔憎んだ左翼革命勢力と同じようなパターンにはまり、同じような集団思考をしていることに気がつかなくなっているのである。

 「小異を捨て大同につけ」はこういうときの彼らの陳腐な合言葉である。

 もしどうしても集団行動がしたいのなら、政党になるべきである。自民党とは別の保守政党をつくる方が筋が通っている。

 ところが「日本政策研究センター」や「日本会議」と自民党との関係は相互もたれ合いであり、関係が切れていない。一番いけないのは彼らは権力に弱いことである。彼らは独自の保守運動をしているのではなく、いよいよになると自民党の政策を追認するのみである。

 自民党がはたして今、伝統と歴史を尊重する保守政党かという疑問が私にはある。小泉政権より以後、ますますその疑問が強まっている。自民党は共和制的資本主義政党でしかない。今の資本家たちに国境意識はなく、愛国心もない。

 「小異を捨てて大同につけ」と言っている保守運動家たちがせっせとそんな資本家に奉仕している図は滑稽というほかはない。

 小泉政権が安倍政権になって、事態が新しくなるとはとうてい思えない。

 尤も「日本政策研究センター」と「日本会議」を同一視するような言い方をしたが、組織を握っている事務局が旧「生長の家」出身者であるという以上の共通点はないのかもしれない。「日本会議」は皇室問題で小泉政権の方針に反対する大集会を開いた。必ずしも権力に弱いわけではない一端を証明した。

 しかし「日本政策研究センター」は小泉政権の事実上の継承者である安倍晋三氏にぴったり張りついていると聞く。新しく出来る安倍政権の行方は未知数である。ことにアメリカとの関係が見えない。経済政策が見えない。

 権力に対し言論人はつねに批判的である必要はなくときに協力的であってもよいが、まだ動き出してもいない新しい権力にいち早く協力的で、批判的距離意識を放棄するのは言論人としての自己崩壊である。

 安倍氏のアメリカとの関係、経済政策がはっきりして、一定の見通しが立つまで協力的態度は慎むべきである。

 権力は現実に触れると大きく変貌するのが常だ。安倍氏の提言本に「美しい国」という宣伝文句が使われているのが、正直、私には薄気味が悪い。「美しい国」とか「健康な国」とかいう文字を為政者が弄ぶときは気をつけた方が良いことは歴史が証明している。

 安倍氏本人はこの危険について案外気がついていないのかもしれない。「所得倍増」とか「列島改造」とか言っていた時代の方がずっと正直で、明るく、むしろ実際において健康だったのである。

つづく