日本はアメリカからとうに見捨てられている

『言志『 平成26年5月号より

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 私が『日本がアメリカから見捨てられる日』という本を出したのは2004年(平成16年)8月だった。十年早すぎたかも知れない。今ならきっとピンと来る人が増えているだろう。

 この本の第二章に標題と同じ題が付けられていて、次の三つの節に分れている。

① いざというとき軍事意志の片鱗も示せない国
② 国家なら他国に頼る前に自分に頼れ
③ 「対中戦略」以外にアメリカが日本を気にかける理由はない

 次の第三章の標題は「やがて日本は香港化する」で、やはり三つの節に分かれているが、ここでは二つの題のみ紹介する。

① 生活レベルは高いが、個人主義だけが跋扈する虚栄の市
② 日本の国防を内向きにしているのは憲法が原因ではない
(以下略)

 だいたい何を言おうとしていたか勘のいい読者はすでに十分にお分かりになるだろう。

 この本の第一章は小泉純一郎批判なので、いま関係がないので第二、第三章の標題のみを記した。日本は内側がダメになっていて、外側の急速な変化に追いつけず、アメリカは日本を防衛する気がなく間もなく立ち去るが、見捨てられる前にわれわれは大急ぎで国家体制を立て直さなくてはいけない、と言っているのである。私は十年前からこういう事を言いつづけてきた。少し早過ぎて本は売れなかったが、今なら売れるかどうかそれは分からないものの、内容は今の時局にドンピシャリと合致していると思う。

 ひょっとすると日本の国防はもう間に合わないのかもしれない。多くの日本人は薄々気がついているだろう。日本はすでにアメリカに見捨てられているということ、アメリカはアリューシャン列島、ハワイ、オーストラリアの線まで軍事防衛線を下げていて、今さら沖縄の基地も要らないし、自衛隊に集団的自衛権があってもなくてもどうでもよくなっているということを。

 それでもすぐに日本が亡びるのではない。中国の属国になって「香港化」するということが起こる可能性が高いということを私は言ったのである。まるでそれに符牒を合わせるかのごとく、自民党は今、毎年20万人ずつ外国人移民を受け入れる案を討議し始めるという。

 住み易いこの列島に住民がいなくなるということは決してないのである。住民は必ず存在しつづける、否、増えつづけさえする。しかし日本民族がいなくなる。日本文化が消えてなくなる。そういうことである。

 外国人移民のうち六、七割が中国人に占められることは今の趨勢から明らかだし、自民党はそれを予定して、国境の内側に敵国人を招き入れるトロイの木馬たらんとしているのかもしれない。

中国肥大化は米国の責任

 私がこんなことを考え、一段と危機感を募らせているのは、ウクライナ情勢を見て以来のことである。プーチンの力による国境変更にアメリカも西欧各国も有効な手段の手が打てず、既成事実化しかけている。このことから世界中の人が心配しているのは東アジアの動静である。台湾や尖閣や南シナ海の現状変更を望む中国の野望に火の点く可能性があることは、誰にでも見え易い動向である。いま中国はアメリカとロシアのどちらに与するのか明確な態度を見せず、アメリカが中国を味方につけようと必死になっているのを見るにつけ、オバマ政権の無能と無策を見せつけられる思いがする。

 アメリカはじつは今が歴史の曲り角に立っていて、いつの日にか起こり得る中国との大規模な衝突のテストケースを迎えているのかもしれない。それなのにオバマ政権は問題を複眼で見ているようには思えない。場当たり的にロシアへの経済制裁を重ねているのは、慌てている証拠である。ウクライナの動きを押さえようとする余り、アジアで妥協し、ずるずると日本に不当な仕打ちをしかねないのだ。それはアメリカにとっても将来大きな災いの原因となるのではないだろうか。アメリカはロシアに対しては曲りなりにも経済制裁の手を打つことができたけれども、米国債の最大の保有国である中国に対しどんな制裁の手があるのであろうか。ここまで中国を経済的に肥大化させたのもアメリカの責任である。

 ありとあらゆる面でアメリカの身勝手な振舞いにより日本は今不利な状況に置かれており、追いこまれていて、安倍首相の力量ひとつに国の運命がかかっている観さえある。ウクライナ=オバマ問題は、わが国にとっては慰安婦=河野談話問題とひとつながりの形で、三月中旬に大きなうねりとなって列島を襲った。3月14日に首相は河野談話の「見直し」はしない、と明言せざるを得なくなり、韓国朴大統領との日米初会議を辛うじて可能とした。だが、歴史問題がこのように封じ込められたのは日韓両国にとって不本意である。大波瀾もあっておかしくはない検証と論争を一度はくぐり抜けることが必要であったのに、おそらくオバマの命令にも近い要請によって、問題の追究が封じられたものに相違ない。

 オバマは日韓の間のトラブルはイスラエルとパレスチナほどではないにせよ、ある種の宗教的対立でもあるという困難さを理解しようとする気がない。また靖国参拝をヒトラーの墓詣でのごとくに侮辱する中国の見当外れも、冷静にこれを解釈し、判断する意思もない。それどころか安倍首相を「極右」とか「修正主義者」とか呼ぶニューヨーク・タイムズの誹謗中傷――これは玉本偉という日本人の左翼学者が書いていることが明らかになったが――をいいことに、これに悪乗りして、日本のナショナリズムを抑えこみにかかる。分かり易くいえば、アメリカは今、中国と韓国の対日歴史非難の共同戦線を都合よく利用して、日本の独立と自存への動きを抑えにかかっている。そこへウクライナ問題が発生して、日本が期待していたロシア外交という自由で独自な行動までが危うくなりかけているのである。

オバマの徹底した日本軽視

 アメリカは中国に大統領夫人ミシェルを一週間も送りこんでファースト・レディ外交をくりひろげた。それなのにオバマ自身の訪日ではたった一日の滞在日程とした。かつての歴代米大統領にはみられない日本軽視の行動である。台湾は今は第二のクリミアになりかねない情勢だが、オバマは北朝鮮の核問題には注視するものの、台湾の危機には口を緘し、むしろ中国の方に荷担してさえいる。

 アメリカが中国の民主化を心から望んでおり、独裁政権に対する厳しい意見をもつのなら――それがかつてのアメリカの姿勢であった――日本の右傾化を非難するのは筋が通らない。中国の尖閣威嚇が先行する事件であった。それゆえに日本の国内に防衛心理が芽生え、愛国心が高まったのだ。本来ならアメリカには日本の対決姿勢は有利なはずではないか。韓国の場合も、大統領の竹島上陸など韓国の対日侮辱が先にあった。日本はすべて受け身である。同盟国アメリカがこれを正確に見ていない。中国と韓国を諌めるのではなく、日本に「失望した」などと言って彼らを喜ばせるのは逆倒している。

 アメリカは中国の国防予算の増大に対して何も言わない。要人がたびたび中国に出掛けて行って、秘密外交をくりかえしているが、日本にはあまり来たがらない。中国からの巨額のロビー活動がホワイトハウスを麻痺させていると聞く。国務長官も国防長官も副大統領も典型的な親中派であって、有力な知日派はオバマの周辺にはいない。これらを勘案すると、アメリカは同盟国日本がもう邪魔になっていて、守るつもりはないのかもしれない。日本は早々とそう覚悟した方がよい。「核の傘」がそらごとであることはすでに自明であるが、「日米安保」もいざとなったら頼りにならないことを前提としてわれわれの防衛論議を組み立てるべきである。

 『日本がアメリカから見捨てられる日』を私が書いた時の予測はちょうど十年経って現実となったのではないだろうか。それならわれわれは一日も早く正確に自国の防衛の正体を知った方がよい。辺野古に基地を建設してアメリカ軍を必死に引き止めようとしているなどの日本の政策は、どこか哀れで見ていられない。可能な限り日本人は自分自身で起ち上がるべきだ。そのうえでアメリカと協力するならそれはそれでいい。同盟関係なしでは今の世界ではやって行けない。しかしそれは命令し命令される関係であってはならない。命令と依存の関係のままでは日本はかえって危うくなるのである。

『言志』平成26年5月号より

武田修志氏の『文学評論』ご論評

 前回、全集編集でいかに苦労しているかを報告したが、いつものように武田修志さん(鳥取大教授)から次のようなご論評をいたゞくと、大変に安堵し、苦労も消し飛ぶ。最初の方に私を評し「忍耐強い」という言葉が出てくるだろう。これは誰も言ってくれなかったが、誰かがきっとそう言ってくれるだろう、と久しく期待しているうれしい言葉でもあったのだ。

前略。
『全集第九巻 文学評論』を拝読いたしましたので、いつものように、短い感想を書かせていただきます。

今回の文学評論、文芸時評の八百ページは、月刊文芸誌を読まないできた私には、ほぼすべてが初読の御文章でした。それで、これら初見の時評、論文を読んで、新たに見えてきた西尾先生の姿が何かあったかと言えば、正直に言って、格別こうと言えるものに気づくことはできませんでしたが、しかし、これまでになかったある陰影が先生の姿に加わりました。それは、時評家としての先生が、大変に穏やかで忍耐強く、無私に徹しておられるお姿です。実に丁寧に「現実」と付き合っておられますね。つまり、月々に発表されるあまたの作品を丹念に読んで、しかし、自分を主張することをできるだけ控えて、この上なく丁寧に、一作一作に対応しておられるように読めました。単に丁寧な対応というだけではなく、時代の抱えている根本的な問題に対する洞察を持っておられので、個々の作品、個々の作家に対しても、作家自身の無意識の問題を的確に指摘することがおできになったのだと思います。ひと言で言えば、先生はある時期、日本の文学界が持った最良の時評家であったのだということを、今回この全集第九巻で初めて知ったような次第です。

印象に残っている言葉、論考について、以下に少し書いてみたいと思います。
649ページ、磯田光一氏の『戦後史の空間』を高く評価する論評の終わりに、こういう言葉が読まれます、「・・一つの疑問は、氏のすべての作業が相対化のための操作、つまり歴史に対する傍観の立場にのみとどまり、未来形成のための氏自身の行動の質がこれではまったく不明だということである。」ー「未来形成のため」という言葉が、私にはたいへん印象に残りました。こういう批判を先生がなさるということは、言うまでもなく、新しい見方を教えてくれる歴史分析も、その究極の役割は、我々の未来を開く、我々の魂を救うところにあるはずだという考えを先生がお持ちだということです。そういう考えは一つの常識かと思えますが、しかし、こういう批判が出てくるためには、批判者がまず、我々の未来にたいして責任を感じているということがなければなりません。短い時評文でも、先生のもの言いには、先生の誠実、責任感がにじみ出ていて、批評された作家にも、心に響くものがあったろうと、私はこういう小さな箇所で感じ取りました。

第一部「初期批評」中の論文「観念の見取図」は、当時、『鴎外 闘う家長』の読者をあっと言わせたことでしょうね。胸のすくような見事な論考だと思います。丸谷才一氏にはそもそも関心を持ったことがないのですが、山崎正和氏の『鴎外 闘う家長』は、実は私も大学生の時に読んでたいへん感心した一人です。大学にはいる直前に江藤淳氏の『夏目漱石』に出会い、文学には評論というジャンルもあることを初めて知り、今度は大学の三年生か四年生頃、『鴎外 闘う家長』を読んで、これにも魅了されて、ちょうど配本され始めた岩波の?外全集を予約するきっかけになったように記憶しています。当時、先生のこの評論をもし読んでいれば、今度は先生に百パーセント説得されて、自分の読みの表面的であることに、さぞかしがっかりしたことでしょう。自分の観念の見取図を最初に作っておき、それに合致する具体的事実のみを拾っていくーこういうやり方は、たしかに、当時の私のように、まだろくろく鴎外を読んでおらず、自分の鴎外像の描けていない多くの読者には、きわめて理解しやすく、評判を得ることになったのでしょう。

また、山崎氏の鴎外像が理解しやすかったというのは、これも先生が御指摘の通り、この「闘う孤独な家長」という鴎外像が当時の「通年によりかかっていた」せいですね。私なども、読んで、この鴎外は「かっこいいなあ」というふうに思ったことを思い出します。 そのほか、この評論の中には、次のような批評家心得第一条と言った言葉も読むことができ、私のような者にとっては、今読んでも教えられるところの多い魅力的な論文です。「批評は、たしかに対象を創り出す作業だが、しかし、批評家の自己表現の道具として、恣意的な虚構をつくり上げればそれでいいというものではない。批評は、いってみれば、いったん自分を捨てて、どこまでも対象に拘束されてみようとする意欲によって成り立つ行為ではないだろうか。単なる認識でもなければ、単なる想像でもない。客観的にとらえることでもなければ、主観的に解釈することでもない。過去にしばられ、過去の中に感情移入し、過去の声をよみがえらせ、それによってはじめて自分を表現できるのではなかろうか。」

第Ⅵ部の作家論で、今回私にとって最も心に残ったのは「石原慎太郎」論です。これを読んで初めて、石原慎太郎を一度読んでみようかという気持ちになりました。これまで、産経新聞で何度か氏の文章に接したことはありますが、読むたびに「この人は日本語の初歩文法がわかっていないのではなかろうか」という疑念にとらえられて、全く読む気がしなかったのです。 この論文は非常によい石原文学の案内になっているのではないかと思います。「太陽の季節」すらまともに読んでいない私も、石原文学を理解するには、先生の引き合いに出しておられる初期作品が大事であろうということが分かるように書かれています。

それから、これは文学論ではありませんが、445ページにおいて、石原氏が非常に広い視野の持ち主であることに触れて、ホーキング博士の講演を、氏が聴きに行ったときのことが述べられています。その際のホーキング博士の「どんな星でも地球のように文明が進みすぎると、その星は極めて不安定になり、加速度的に自滅してしまうのです」という答に、「石原氏は・・・衝撃を受けた」と書いてあります。この場面は、石原という人は信頼するに足る人だという感じがよく出ていて、印象に残りました。(ホーキング博士の「答」は初めて聞きましたが、これは本当に「衝撃的」です。)

第Ⅱ部「日本文学管見」の諸論文はすべて二度あるいは三度読んで勉強させていただきました。「人生批評としての戯作」は特に興味深い論文でした。この論の中に「『通』はひょっとしたら無自覚ながら絶対者なき風土における絶対者の役割をはたしていたのかもしれない。」という一文があり、心に残りました。近代日本においては、これが「教養」ということになったのかもしれないと考えました。「本当に人が完全な『通』になることは可能なことなのだろうか。・・・むしろ自分は『半可通』であることをたえず意識していることが、わずかに『野暮』に落ちずにすむ最後の一線なのではないだろうか。」近代においても、いよいよ絶対者はいなくなり、わずかに教養あることが最後の価値であるかもしれないけれども、教養ある人というのは、せいぜい自分が教養がないということを自覚している人にすぎない・・・というわけです。 そのほかにも、この論文は考えさせるところの多いものでした。

全体800ページの中で、第Ⅶ部「掌編」の中の「トナカイの置物ー加賀乙彦とソ連の旅」は、ほかの文章と比べて、相当に毛色が変わっていて、とても愉快に読むことができました。ほかの文章からは思い描けない先生のお姿も、ここで看取できたように思います。 第Ⅲ部「現代文明と文学」では、「オウム真理教と現代文明」を何度も読み返しました。力作評論ですが、先生も、オウム事件をどう読み解いたらいいか、この論文執筆の時点では、あれこれ考えあぐねておられるようにも感じ取られました。私は、ハイデッガーの「退屈論」を知りませんでしたので、この紹介が最も参考になりました。

こんなふうに一つ一つ取り上げていっても切りがありません。柏原兵三氏の作品はいわゆるベルリンものを読んだことがありますが、機会があったら氏の著作集を読んでみたいと思います。先生と「親友」であった作家、それだけでも興味が持てます。
綱淵謙錠氏の『斬』は、今読みかけているところです。夜、蒲団にはいって読みかけましたが、途中で、「これは悪い夢を見る」と、いささか気味が悪くなって、しばらく放ってあります。先生の解説は、要領を得ているだけではなく、著者にも教えるところがあったのではないでしょうか。
そのほか、先生の書評を読んで読みたくなった本や作家は相当多数ありました。

いつものごとく尻切れトンボですが、今日はこれにて失礼いたします。
御健康に留意なさいまして、ますます御活躍下さいませ。

上記の中で「人生批評としての劇作」について、「通」に日本近世社会における「絶対者」の役割を見ているという私の指摘に関心を寄せて下さってありがとう、と申し上げたい。西洋の近世文学と江戸文化の比較がもっとなされるべきと思う。

それなら武田さん、拙論中の「明治初期の日本語と現代における『言文不一致』をどうお考えになっただろうか。「後記」の第3節に三論文共通のテーマとして取り上げ、帯の文としても出しておいたあの言葉と音、文字と声のテーマについてである。お考えがあればおきかせ下さい。

ともあれ拙著の内容をよく読みこんでいる、レベルの高いご論考をいただいたと認識しました。

九巻帯表

日本の現代小説が朗読になじまないこと、評論や学術論文はさらに耳で聴いて分かるようには書かれていないことに大きな問題が感じられる。言葉は半ばは音であり、声である。文学作品が与える感動は作品と作家を背後から支える何かある「声」に由来する。作家は何かに動かされて語っているのであって、その何かを自分ひとりの力で「描く」ことはできない。(「後記」より)

九巻帯裏

西尾さんと「新潮」   元「新潮」編集長 坂本忠雄氏
この決定版全集の「内容見本」で、西尾さんは「同じことを二度書かないのが私の秘かなプライド」と述べているが、実に多岐にわたる全寄稿文でもそれが実行されているのは自分の思索を行為と同次元においているためだろう。人間の行為は厳密にいえば繰り返しはないのだから。・・・・「新潮」は戦前は文壇雑誌そのものだったが、戦後の再出発に当って昭和21年の坂口安吾「堕落論」を皮切りに、文学を詩・小説・文芸評論の枠から広げ、文学の文章によってその時代の文化の精髄を読者に伝える役割も果たしてきた。西尾さんが敬愛する小林秀雄、福田恆存、田中美知太郎、竹山道雄等の後を引継ぎ、この新しい領域を次々に切り拓いたことを、私は同世代の編集者として心から感謝している。
(「月報」より) 

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十一回)

51)人間が生きるとは、目隠しされているようなことかもしれない。目隠しされつつ、人間は未来への明察を欲するのだ。もしもすべてが見透せてしまったなら、そのような未来は、もはや生きるに値しない未来であろう。すべてが見えるという自己過信と、なにも見えないという自己不信とは同じ事柄の表裏なのだ。どちらもともに、自己と自己を超えたものとのかかわり合いがはらむ緊張を忘れている。

52)一人の作家が何を求め、何によって生きているか、それは、初期も晩年も、意外に一貫しているものである。

53)豊富で複雑な言葉をいくら多様に用いても、言葉は事実を把えることは出来ない。ある事実に言葉を与えることで、われわれはその事実を規定するわけだが、規定した瞬間、「事実」そのものはとり逃しているわけなのだ。

54)おそらく自己同一性が非常に高い日本人にとって、日本人は表向きはたえず国家意識みたいなものに反発を感じているくせに、ほとんど無意識のうちに国家単位でしか、ものを考えることのできない民族だという気も致します。

55)思想を弄ぶ人間の存在の形式が私をつねに苛立たせてきたのである。

出展 全集第一巻 
51) P535上段より 掌篇 現代ドイツ文学界報告
52) P552上段より 掌篇 現代ドイツ文学界報告
53) P554下段より 掌篇 現代ドイツ文学界報告
54) P585上段より 老年になってのドイツ体験回顧
55) P598P599より 後記

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十回)

46)外国に長く生活しすぎて、日本が概念的にしか感じられなくなれば、それは日本人の経験であることを止めたことを意味するのだし、逆に、日本で考えていたヨーロッパ像を打ちこわすことをせずに、既成の観念の殻に閉じこもって、妙に安定した表情で外国をひとわたり経験することも、けっして経験したことにはならないだろう。

47)ニーチェは思想の表面に現われた民衆侮蔑の言辞とは裏腹に、実際の人間は謙遜で、センチメンタルで、ひどく純情でさえある。ニーチェの思想は、知識人・教養人のもつあらゆる種類の凡庸さ、馬鹿さ加減にこそ固く門戸を鎖しているが、民衆のこころにはもっとも近いところに立っている。だからこそニーチェは誤解を怖れず、むしろ誤解されることを誇りとさえしたのだともいえよう。

48)文化が荒廃していれば様式美は生まれない。私は裏側を勘ぐり、故意に内側を分析する知性にはなにか欠けたものがあるとつねづね考えている。表面よりも内面のほうが豊富だと信じたり、表面の安定の裏に頽廃を嗅ぎつけたがったりするのは、知性のさもしさの表現でしかない。

49)この雑然とした、ときに騒然とした外観を備えた日本の都会の姿そのものが、外来文化の流入に耐えているわれわれの抵抗の姿とも言えなくはないだろう。

50)政治とは、現実に与えられた条件下で、ときに自分の立場を棄ててでも何か具体策を打出すというリアルな精神をさす。政治とは道徳ではない。

出展 全集第一巻 掌篇
46) P479下段より ヨーロッパ放浪
47) P486下段より ヨーロッパ放浪 
48) P508上段より ヨーロッパ放浪
49) P512下段より ヨーロッパ放浪
50) P522下段より 現代ドイツ文学界報告

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第九回)

41)われわれはなにものかに、自然に、歴史に、共同体に支配されていることを予感する瞬間をもたないかぎり、われわれ自身が生活の支配者になることはできないであろう。

42)なにものにも拘束されない個人とは、要するに生物個人でしかない。束縛を打ち破って自由になったというだけでは、人間はけっして自由にはなれない。われわれは個人を超えたなにものかをもち、そのなにものかへの奉仕と義務の責めを負うたときにはじめて、われわれは自由になる、もしくは自由の何であるかに触れ得るのである。

43)自由主義体制は、自由の不在のままに、自由の探求を自由に任せている。共産主義体制は、自由の問題をすでに解決しているのではないか。解決してしまったから、それは真の解決になっていないというもう一つ別の側面があることを忘れてはならない。

44)だが、私はなぜニーチェを愛読しているのだろうか?ニーチェの文章を読んでいると、思想的にも、生理的にも、いや、慥(たし)かに頭の訓練としても快適だからである。私は快適なことをするのが好きだからである。そして私は、不快なことをするのが嫌いだからである。それならば、私は不快なことをするのが嫌いだから、バーゼルでニーチェの昔の下宿をさがしているのだろうか?それがなかなか見付からなくて苛々しているのは不快なことではないのだろうか?私には不快なことが結局、愉快なことなのだろうか?それとも愉快なことが、不快なことなのだろうか?

45)他人を笑うこころと、笑われまいとするこころとは同じ精神構造なのだが、・・・

出展 全集第一巻 
41) P410下段より 掌編 留学生活から
42) P463下段より 掌編 ドイツの悲劇
43) P464上段より 掌編 ドイツの悲劇
44) P472下段より 掌編 ヨーロッパ放浪
45) P477上段より 掌編 ヨーロッパ放浪

最近困っていること

 必要があって2010年から今日までの私の出版記録をまとめてみた。私がこのところ記録を失っていたので、長谷川さんに整理してもらったら次のようになった。「めちゃめちゃ忙しいはずですよネ」と書いてこられた。

2010年 6月  草思社 日本をここまで壊したのは誰か
2010年 7月 徳間書店 GHQ焚書図書開封4
2010年 11月 祥伝社新書 尖閣戦争 (青木共著)
2010年 12月 総和社 西尾幹二のブログ論壇
2011年 7月 徳間書店 GHQ焚書図書開封5
2011年 10月 国書刊行会 全集第五巻『光と断崖』
2011年 11月 徳間書店 GHQ焚書図書開封6
2011年 11月 文芸春秋 平和主義ではない脱原発
2012年 1月 新潮社 天皇と原爆
2012年 1月 国書刊行会 全集第一巻『ヨーロッパの個人主義』
2012年 4月 国書刊行会 全集第二巻『悲劇人の姿勢』
2012年 7月 国書刊行会 全集第三巻『懐疑の精神』
2012年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封7
2012年 10月 国書刊行会 全集第四巻『ニーチェ』
2012年 12月 飛鳥新社 女系天皇問題と脱原発 (竹田共著)
2012年 12月 祥伝社新書 第二次尖閣戦争 (青木共著)
2012年 12月 徳間書店 自ら歴史を貶める日本人(四人の共著)
2013年 2月 国書刊行会 全集第六巻『ショーペンハウアーとドイツ思想』
2013年 4月 飛鳥新社 中国人に対する「労働鎖国」のすすめ
2013年 5月 国書刊行会 全集第七巻『ソ連知識人との対話/ドイツ再発見の旅』
2013年 7月 ビジネス社 憂国のリアリズム
2013年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封8
2013年 9月 国書刊行会 全集第八巻『教育文明論』
2013年 12月 ビジネス社 同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた
2014年 2月 国書刊行会 全集第九巻『文学評論』
2014年 3月 徳間書店 GHQ焚書図書開封9
2014年 6月 国書刊行会 全集第十四巻『人生論集』
2014年 8月 新潮社 天皇と原爆(文庫)
2014年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封10 予定

 最後の一冊は「維新の源流としての水戸学」かまたは「イギリスの地球侵略」のいずれかとなる。

 こうやって一覧してみると、全集が始まってから以後、私はろくな仕事をしていない。全集の刊行に良質の部分のエネルギーをほゞ吸い取られている。新生面を開くような企てがなされていない。このほかに『正論』連載があるからもう仕方がないともいえるが、人生最後の局面に新味の出せないこんなことでは情けないと思う。

 全集はたしかに容易ではない。精力の6~7割はこれに注がれている。しかもここへ来て編集上の困難とぶつかって立ち往生している。1980年代から以後の自分については「年譜」を先に作らないと、前へ進めないことが判明した。

 「年譜」とは各年・各月の寄稿記録・活動記録のことである。大学教師時代の最後の8年間は大学紀要に詳細な報告がなされている。国立国会図書館に約800篇の拙文が貯蔵されていて、うち166篇がある方の協力を得てすでにプリントアウトされている。各単行本の巻末にある初出誌一覧表を参考にする必要もある。現代日本執筆者大事典というのもある。それも利用する。新聞寄稿文は切り抜きスクラップが存在する、等々、いろいろ手はあるが、簡単ではない。

 はじめ私は大学ノートに書きだしていくか、もしくはカードを作成しようかと思ったが、これは古い世代のくせで、今ならパソコンを用いるのが最善であろう。ところがこれが私はまた苦手で、難関である。

 どうしてよいか分らないで昨日今日、呆然として手を拱いている。

 今までは私の若い時代が対象だったので自分の過去の仕事はよく把握されていた。巻が進み、1980年代より以後、そうは行かなくなってきた。

 今まで「教育」とか「文学」とか「人生論」とか、ブロック化できるものはまとめ易いので10回配本まで何とか乗り越えてきたが、いよいよそうは行かなくなって、途方に暮れている。

 とにかく「年譜」を先に作ってそれからでないと作品の読みと選択を行えないのが本当に頭が痛くなるほど辛いのである。

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第八回)

36) 懐疑とは決断である。既知のことばを警戒する行動力である。
信ずる力があるからこそ、信じまいとする意志が可能となる。懐疑の反対は信仰ではなく、むしろ軽信である。疑ってばかりいてなに一つ行動ができないのは、疑っているのではなく、はじめから信ずる力をもたないから、なんでも信じ、なんでもゆるせるふりができるのだ。できあいの思想への無防備、軽信ぶりが全土をおおう所以である。

37)美徳ということばがあるが、やはり日本人にとって美意識がすなわち道徳なのではないだろうか。それが日本人の強さでもあるが、美は政治的な批判力にはなりにくい。美を基本とする道徳は、どうしても戒律や原理を基本とする道徳よりは弱いのである。

38)現代は知力はあっても、知性がない時代だ。現代の知性には節度と倫理性と想像力が欠けているのである。

39)人間は自分ひとりで、自分を支配することができない存在なのだろう。そんなに強い存在ではないのであろう。

40)われわれは生活の支配者であるつもりで、結果的には生活に支配されている。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
36) P349下段より 
37) P364上段より
38) P369下段より
39) P402上段より 掌編 留学生活から
40) P410上段より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第七回)

31)教会の道徳と、世俗社会の道徳と、この二つはいわゆる政教分離以来、相関関係にあり、一つの社会に、二つの道徳が同時に並行して存在することが、道徳の画一化を救う要因となっていることは確かである。人々はつねに、絶対の世界と、相対の世界と、この二つに同時にまたがって生きることを要請される。

32)世捨て人の、すね者の孤独は、結局は人恋しさの裏返しでしかないだろう。敗北者の孤独は、人一倍に権力欲が旺盛だということでしかないだろう。

33)不安や恐怖は、他のいっさいの善なる感情より、積極的な感情である。そして不安や恐怖が、敵意や復讎心をはじめとする不合理な感情の母胎である。そして不合理な感情は、いつの時代にも、理性より積極的である。

34)外交は自他双方の悪の是認からしか出発しようがない。自分の愚かさと弱さを知ることも、一つの強さである。他人の悪をおそれ、避けるためには、自分の悪の自覚をも深めておかなくてはならない。善を行なうこともまた、悪の一手段であり、ときには自覚的に悪を犯すことが、善となる
 外交の場には絶対善も絶対悪も存在しない。

35)人間は束縛や桎梏(しっこく)を打ち破っても、自由にならない。人は不自由にぶつかってはじめて、自由の何であるかに触れうるのである。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
31) P313下段より
32) P316上段より
33) P320上段より
34) P329上段より
35) P338下段339上段より

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第六回)

26)自動車や電気冷蔵庫やテレビの普及率の高さは人間の「幸福」とはなんの関係もないし、個人の生き方、あり方の充実というものを離れて「幸福」を考えられない以上、戦争にいたる八十年間は不幸の連続であって、戦後はしばらく幸福で、今また不幸がしのびよっているなどという政治的煽動家に特有の機械論的人間観に私は与(くみ)する気になれない。
 それではあまりに人間の主体性というものがなさすぎるではないか。

27)人間はどんなに不幸な時代にも、幸福を求めるものだし、また幸福になりうる存在なのである。また、外見上どんなに繁栄して幸福にみえる時代にも、いや、そういう時代であればこそ、かえって幸福になることはむずかしい。

28)自律とは、解放によってははたされない。むしろ帰属によってはたされるべき性格のものである。ただ、帰属とは同化であってはならない。自分と他人との区別を曖昧にし、肌暖め合う家族主義的集団のなかに没入し、同化することは、決して帰属にならない。

29)われわれはつねに複眼を要求される。

30)どんな個人もエゴイズムをもっている。他者配への欲望をもっている。「個人」の解放とは、原理的には、仮借ない自己拡張欲に火をつけることであり、その行きつく先はアナーキズムしかない。しかしまた一方では、個人はつねづねなにかある全体的なものに帰属したいという欲望し支配されてもいる。個人はなにものかに奉仕し、隷属することによって、自分のエゴイズムを滅却し、そうすることで、はじめて、ある精神的な安定を得たいと念願するものである。一方には自我の拡大欲があり、他方には自我の止揚と救済への意志がある。われわれは人間性の根本に根ざすこの二つの相反する矛盾した方向に引き裂かれつつ、自分の生の安定と統一を保っている

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
26) P254上段より
27) P254下段より
28) P282上段下段より
29) P288上段より
30) P295上段下段より