『国家と謝罪』新刊紹介(二)


現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 今回は以下の新刊に対する、宮崎正弘氏による書評の紹介です。コメントは現在受け付けていません。

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 (宮崎正弘氏のコメント)

 西尾幹二先生の最新作『国家と謝罪』(徳間書店)は、まさに力作です。大きな歴史的大局観に立って、すべての問題を鋭利な白刃で分析しつつ、民族とは何か、歴史とは? 伝統とは? 日米同盟とは? 

これら国家の根幹を織りなす、すべての疑問が、この一作によって解きほぐされ、久しく忘れていた日本人としての誇りを考えるしかけになっています。
 近く拙評をメルマガに掲載予定です。

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宮崎正弘氏の国際ニュース・早読みより

 日本保守思想の原点が本書に集約されている。

 戦後、憲法の押しつけ、農地解放、教育改革等々。日本はアメリカの保護領のごとくに成り下がり、「独立」は主権回復後も、本当に達成されているのか、どうか。独自の神話も否定され、精神的営みも軽蔑される風潮がまだ続いている。
 
 日本はとうに国連に加盟したけれども、日本は本当に「独立」しているのか?
 歴史も国語もズタズタのまま、教科書を自ら作成できず、外国にお伺いを立てる始末。
 安保改訂後も、大店法の受け入れからM&Aの認可、ビッグバン、金融諸制度から郵便局まで。道路公団は民営化され、ついに日本はアメリカの法律植民地になってしまった。
 
 地方都市の景観が廃墟と化したのは大店法の悪影響だろう。
全国の酒屋さんが店を閉じた。これもアメリカの要求をやすやすと日本が受け入れたからではないのか。

 嘗てジャパン・バッシング華やかなりし頃、評者(宮崎)はパパ・ブッシュ時代に日本に「コメの自由化」を迫られたとき、これは日本の文化伝統を破壊する極めつけの愚行だとして、『拝啓 ブッシュ大統領殿、日本はNOです』(第一企画出版)を上梓したことがある。
 
 当時、日本の保守陣営といっても親米派が多く、小生のような議論への理解者は少なかった。随分と保守の側から反対が目立った。米の自由化でアメリカの怒りがやわらぐのなら開放しても良いじゃないか、と。
 
 天皇家の枢要な行事は新嘗祭。これを外国のコメでやるという発想は、かの皇室典範改悪論を奏でた偽「保守主義」の似非と通底している(座長のロボット博士は、ところで共産党の出身だった)。
 
 小泉前首相はひたすら「カイカク」と呪文を唱えたが、やったことはほぼ「カイアク」の類いだったろう。
 
 外交の責任者に、愚か者が多い日本でも最悪の愚か者に委ね、アメリカの理論を吹聴する「ガクシャ」に机上の空論による経済運営を任せた。株価は市場最低値を彷徨い、潰れなくてもいい銀行はアメリカに乗っ取られ、日本はどん底に陥った。そもそも日本の株式市場の株価形成を主導するのが外国人投資家。それも青い眼のファンドマネジャーになり、それが常態だと詐話を展開している日本の経済学界、官界。

 西尾氏は果敢にも小泉首相を「狂人」と呼んだ。
 そして本書でこう訴える。
 「日本はいまこそ米中にとって厄介で面倒な国になれ!」
 「靖国、南京事件、慰安婦問題。アメリカにまで赦しを乞う必要などない」と。

 「勝者は歴史を掌握する。敗者は人類の敵であるという見方がとられる。戦勝国は敗戦国が二度と立ち上がれないように、道徳的にも精神的にも最後までこれを打ちのめしていまうという政策が戦後においても継承して行われる。占領期間に教育や文化が改造され、洗脳がなされる。それが経験上われわれの知っている全体戦争である」(本書18p)。

 しかし大東亜戦争以後の、朝鮮戦争もベトナム戦争もイラクも、勝った負けたがはっきりせず、「ドイツと日本のように国民の思想洗脳や国家改造にまで及んだ例はない。ドイツと日本だけが、例外的却罰を受けた。もとよりドイツはならず者の一団が国家を壟断したーードイツ人自身がそう認めているーー例外の戦争を起こしたのだから仕方がない」。
 
 だが「日本はそうではなかった」。 日本は「自存自衛」と「アジア解放」が二大動機」であって、大東亜戦争ははじめから終わりまで「受動的」だった。
 
 そして西尾氏は次のように続けられる。
 「二十世紀のならず者国家はナチス・ドイツだけだろうか。太平洋上で英、米、仏、蘭、独、豪のした陣取り合戦は、『侵略』の概念に当たり、『平和への罪』を形成していないのだろうか。英、米、豪は、日本に対して『共同謀議』の罪を犯していないか。広域にわたってあらゆる島々で起こった虐殺には、正確な記録はないが、ホロコーストの名で呼ばれるのがふさわしいのではないか」(本書29p)。

 しかし、日本はナチスと同列におかれ、「東京裁判の被告達は、全くヒトラー一派の側杖を食った」形となった。
 ナチスを退治するために、欧米はロシアと言う「悪魔」と握手した。

 その後、欧米はなぜかキリスト教がユダヤに謝罪し、カソリックは悔い改めたような態度を見せる。なにが後ろめたいのか。
 
 舞台はもう一度反転した。
 「ビン・ラーディンが出てきたために米国は中国という悪魔と手を組む方向へ走りだした。中国包囲網を固めつつあったイラク戦争までの戦略をわすれたかのごとくである(中略)。テロ自体の恐怖よりも、一極集中権力国家の理性を失った迷走の開始」は、じつに不安ではないか(本書38p)。

 日本はなにをなすべきか。「白人キリスト教文明では四世紀に及ぶ歴史の罪過を精算するために、新しい歴史の塗り替えが必要になっている」。

 西尾氏が「新しい教科書をつくる会」を立ち上げたのはいまさら述べることもないだろう。

 こういう重要なタイミングに「日本を代表する人物に必要なのは気迫である。安倍首相はなぜ、こともあろうに米国に許しを請うたのか。主権国家は謝罪しない。謝罪してはいけないのだ」。
 
 この激甚な訴えを読者諸兄はなんと聞くだろうか?

 評者はたまたま本書を持って中央アジアの旅に出た。
 キルギスという小国は僅か人口五百万。七十年もの長きに渡ってソ連の桎梏に喘いだ。独立してすぐ憲法を変え、「自国語(キルギス後)を喋れない人物は大統領に立候補できない」旨を謳った。
 
 アフガンのタリバン空爆のため、やむなく米軍海兵隊の駐留を受け入れたが、昨年から「役目は終わった。米軍は出て行け」の合唱が始まった。
 
 マナス国際空港で、米軍の取材をおえてタクシーでホテルにもどりつつ、運転手と会話がはずんだが、かれはこう言ったのだ。
 「日本に米軍が五万人もまだ駐留している? 日本って独立主権国家じゃないのかね」。
 日米同盟がもし対等であるならば、いったい日本軍のほうは米国のどこに駐在しているのだろう?

  ♪
(書評余話)西尾氏の言われる、「日本はいまこそ米中にとって厄介で面倒な国になれ!」
 卑近な例が小沢民主党でしょう。イラク特別措置法延期反対を表明しただけで、(小沢一流のはったりでしょうが)、米国大使が民主党へすっ飛んできました。
 
 たまたまワシントンへ入った防衛大臣は異例中の異例の「おもてなし」を受け、チェイニー副大統領から、ライス国務長官まで。小池大臣のカウンターパートはゲーツ国防長官だけの筈ですから。
 
 厄介な、面倒な国に徒らになる必要はないけれど、日本の怒りに米国が微かに「怯えた」事態が到来したのではありませんか。
  
 

文・宮崎正弘

 

日本人はアメリカを許していない』(その二)

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西尾幹二『日本人はアメリカを許していない』(株)ワック刊
解説 高山正之  ¥933

同書の目次は下記の通りです。

目 次

新版まえがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

沈黙する歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
近代戦争史における「日本の孤独」・・・・・・・53
限定戦争と全体戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・85
不服従の底流・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・124
日米を超越した歴史観・・・・・・・・・・・・・・・・163
『青い山脈』再考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・196
日本のルサンチマン・・・・・・・・・・・・・・・・・・247

解説 高山正之

 「『青い山脈』再考」と題された章から、文章の一部を抜き出し、ご参考までに紹介します。

 戦勝国にも軍国主義はあった。軍国主義は敗戦国の属性ではない。侵略戦争を是とする動機はイギリスにもアメリカにもあった。これまた敗戦国の歴史に特有のものではない。軍国主義や侵略戦争をこの地上から撲滅しようというわれわれの理想は大切である。私自身もこれを支持することに躊躇しない。ただ私はその理想を、今次大戦の勝敗から切り離せ、と言いたいのである。が、そのことが単に言いたいだけではない。軍国主義や侵略戦争がもし悪であるというのなら、戦勝国のその動機の悪を直視しなかったら、地上から悪を撲滅するという理想も片手落ちに終わり、最終的には実現すまい。敗戦国の悪にだけこだわっていては、戦勝国の悪を見逃すことになるのではないか。いかなる理想を口先で言おうと、いまの日本に茫々と漂っている敗北主義は、結局理想とは無関係なのである。こうした点に関して言えば、戦勝国も敗戦国もいまや完全に対等だということが分かっていないからである。(中略)

 第二次大戦はファシズムに対する民主主義の勝利であった、という定義をれ自体を考え直さなくてはならない時代に入っている。枢軸国に対する連合国の料理ではあったが、連合国のなかには明らかに民主主義国とはいえないソ連と、ファシスト党といってもいい蒋介石国民党政権――クリストファー・ソーンはそう定義している――が入っていた。日本が枢軸側を選んだとき、アメリカがどう思ったかは別として、日本ではそれがただちに日米戦争につながるものとは考えていなかった。三国同盟はソ連を加えて四国同盟にし、アメリカの参戦をこれで封じることが可能と考え、その政策に賭けたのである。同盟には蒋介石をも引きこむ説さえあった。日本は中国問題の「解決」を急いでいた。よもやドイツがソ連を侵攻するとは夢にも考えていなかった。

 日本は昨日の友は今日の敵という伝統的に老練狡猾な欧州外交ゲームにうかつに手を出し、引き返せなくなるや、いざ時来たれりと「オレンジ計画」を擁して待ち構えていたアメリカの軍国主義(傍点)の餌食となった。私はそう考えている。

 歴史は善悪の彼岸にある。

近況メール

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 今回は、「坦々塾」という西尾先生の勉強会の通知に添えてあった近況報告です。

 西尾先生が以前に参加していた「九段下会議」は、2005年の小泉選挙と2006年の安倍政権の成立までの間に、保守主義にかんする考え方の相違が大きくなり、いったん解散しました。

  このメンバーのうち最後まで会議に残り、なにが真実であったかを見つめていたひとの大部分、といっても13人ですが、西尾先生のもとで勉強会をつづけたいという希望があり、「坦々塾」という会を立ち上げました。

 私、長谷川もそのメンバーに入れていただいています。

 「坦々塾」はその後、西尾先生の愛読者や賛同者がさらにあつまり、若いひとから老人まで、外国に暮らしている人もふくめて、46人の会員に膨れ上がっています。

  いつも1-2時間ほど西尾先生の講義があり、参加者の自由討議があり、外から著名な先生をお呼びして特別講義をしていただく段取りになっています。

 特別講義はこれまで、宮崎正弘先生、高山正之先生、関岡英之先生、黄文雄先生、そしてこの8月には東中野修道先生にお出ましいただくことになっております。

 特別講義が終わってからの「懇親会」、お酒の席が皆さんの楽しみのようです。私も出来るだけ上京して参加していますが、それでも二度に一度はあきらめています。この夏も出席できません。

 昨日、「坦々塾」の事務局から、案内通知をうけました。そこで久しぶりに会員の皆様へあてた西尾先生のざっくばらんなメールを同時に受け取りました。

 先生の近況報告なので、「日録」の旧読者のみなさまにも、メールをお知らせしたいと勝手に個人的に考え、事務局と先生の両方からの承諾をいただきましたので、ここに掲載させていただきます。

 坦々塾の皆様へ

 ご無沙汰しています。
 
 7月後半にはスイスと北イタリアへ行ってきました。高速を走りつづける旅でしたから危ないといえば危ないのですが、なんとか無事に帰国しました。今の若い日本人は国際社会に立ち混じってじつにタフですね。私たち老夫婦を案内してくれた幼児二人づれの若いご夫妻も現地人になりきっていました。
 
 わたしの昔の教え子で、彼はスイスを代表する農薬会社の日本代表です。

 ヴェローナで野外オペラ、ミラノで例の「最後の晩餐」の修復された画像、ヴィセンチア、ベルガモなどの未知の町を見ました。死ぬ前にもういちどと思っていたシルス・マリーアの再訪を果たし、バーゼルでは「悲劇の誕生」執筆時代のニーチェの住まい(前に外から見ていた)の内部に偶然にはいることができました。彼が使っていたと思われる前世紀のKachel(円塔型の室内暖炉)もみました。いまなお冬には使われているそうです。

 アルプス山系の風景はどこへいってもすごいですね。スイスでなくても、カナダ西部でも、ノルウェーでも、地球の限界のような風景に私はいまはしきりに惹かれます。自分では登山のできない人間なのですが、鋭い山稜がいきなり眼前に天を突く光景にでくわすとわけもなく感動します。今回は南チロル、別名ではドロミーテン地方ともいい、Bolzano(ドイツ名 Bozen)という町から車で一時間で見晴らしのきく山頂に出て、アルプス山脈の東側半分を一望しました。

 夏らしい、楽しい旅でした。帰ってみると、東京は蒸し暑く、選挙でした。    

 私の旅行中に『国家と謝罪』と『日本人はアメリカを許していない』という二つの拙著が刊行されました。

 選挙の結果は私が前著で予言したとうりになりましたね、と皆様から今しきりにいわれています。

 二年か三年ほど前から、安倍晋三氏は二人といない、かけがえのない真性保守だという観念が主として保守言論雑誌を中心に存在し、固定化し、それ以外の意見をゆるさないタブーになっていました。

 私も2006年夏まで、小泉選挙まで、そう思わされていた一人です。教科書のことで安倍さんはよくやってくれましたから。しかし、後継首班で小泉氏に反旗をひるがえさず、タナボタを彼が期待した瞬間に、わたしは政治家としての安倍氏を見放しました。『国家と謝罪』 の part 3 の冒頭に書いたとうりです。

 安倍政権の成立は日本の保守運動にとってマイナスで、日本の国家主権回復を10年おくらせたと私はいま考えています。彼が「保守まがい」だからそうなるのです。困ったことです。こうなった以上、政界再編を惹起するために、自民党の崩壊、多党状況の大混乱、真性保守党の登場、本物の政治家の出現を待つしかありません。
 
 坦々塾の皆様は必ずしもそうはお考えになっていない方も少なくないでしょう。そこで、8月19日には皆さんで大討論会を開きましょう。14時から15時ごろまで私が主として「教育と自由」に関する私論をのべ、保守のあるべき理想を語ります。15時ごろから16時半ごろまで、これをきっかけに、安倍批判、安倍擁護などいろいろとり混じった、きわめてオープンな、互いに遠慮のないディスカッションをいたしたいと思います。

 東中野修道先生は16時半には会場にご到着のはずです。こんどまた、南京をめぐる大著を新刊なされました。まことに、先生はいま世界史的なお仕事をなさっておられます。

 では当日の皆様との再会を期待しております。
                                           西尾幹二

日本人はアメリカを許していない』(その一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

今回は新刊の紹介です。コメントは現在受け付けていません。

 次の新刊が8月1日に店頭に出ました。

日本人はアメリカを許していない (WAC BUNKO 67) 日本人はアメリカを許していない (WAC BUNKO 67)
西尾 幹二 (2007/08)
ワック

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 この本は『沈黙する歴史』(1998年)の改題新版です。「新版まえがき」がついており、高山氏のユニークな解説が付せられました。

 「新版まえがき」の冒頭部分を紹介します。

 アメリカは20世紀の歴史にとってつねに問題でありつづけた。この国は力であり、富であり、希望であり、悪魔でもあった。アメリカを理解し、抑止することに各国は政治力を振りしぼり、アメリカの方針を誤算したばかりに手ひどい傷を負う国も稀ではなかった。それでもアメリカを愛する人は少なくない。寛大で包容力のあるときのアメリカは魅力的だからだ。しかし利己的で判断ミスを重ねるときのアメリカはいくら警戒してもしすぎることのないほどに、恐ろしい。

 日本は隣国であり、アメリカとほぼ同じ1920年代に一等国として世界に名乗りをあげた競争国であることを忘れないでおきたい。史上において対等であったというこの観点をわれわれは見失ってはならない。アメリカがもて余すほどの力をもって安定しているときには、わが国は弱小国の振りをしていてもいいかもしれない。依存心理に甘えて居眠りをしていても許されるかもしれない。しかし国際社会におけるアメリカの政治力が麻痺しかけ、経済力にも翳(かげ)りがみえ始めている昨今、アメリカは手負いの獅子になって何をするか分からない可能性があり、そういう情勢に対して、わが国は十全の気力と対抗心をもって警戒に当たらなければならない。

 そのためには自国の歴史が劣弱だという意識を抱いていては到底やっていけない。本書はそのことを知っていただくために書かれた本である。

荻生徂徠と本居宣長(七)

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皇室は「清らか」であればいい
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西尾  : 宣長は日本のカミのことについて語るとき「大虚空(おおぞら)」という言葉を用いています。この言い回しは象徴的です。神話の世界を考えるときに概念で支配されてはいけないと、しきりにいうのです。これはヘラクレイトスの見た「自然」や「宇宙」という概念に近いものではないか。

長谷川 : このような日本人の神話観、カミに対する感覚は、日本に仏教が根付き、キリスト教が根付かなかった根本原因として考えられるかもしれません。先ほどの「仏道をならふといふは、自己をならふ也」という道元の言葉は「自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」と続いてゆくのですが、これはまさに森羅万象のうちにカミを見るという感覚そのものといえる。しかも、その全体を統(す)べるものとして、「存在」を考えるのでなしに「大虚空」を考える――これは非常に似通っていますね。

西尾  : だから神仏習合の前に「神神習合」があったという人もいます。森の文化の色濃く残っていた遠い昔、神道が自己確立する前に、さまざまな神々が習合していました。仏もその一つで、神と仏が一体になったのではなく、仏も神の一つとして迎え入れた。それに対してキリスト教は、どうしても相容れないものがあって迎え入れることができなかった。

長谷川 : 決定的な違いは、唯一絶対神を置いた場合、「つくった神」と、人間を含めた「つくられたもの」とのあいだには絶対に超えることのできない、在り方の相違が出てくるのです。それが神仏の世界と相容れない。加えて、日本人の天皇観とも相容れません。「教育勅語」にも出てくる「われわれも天皇のごとくあらねばならない」という価値観が、近代的な「支配者と被支配者」という考えを受け入れると、裁断されてしまうのです。

西尾  : それはわれわれの天皇崇拝が、自然への親近感とつながっているからです。日本には「自然と自分が一体化する」という発想が根っこにあり、天皇のなかにカミを見る。そして天皇のごとく、自分たちも生きようと思う。そのカミは、それこそ道祖神であったり、キツネやカラスにカミを見るような感覚であったりもする。そのカミはキリストの神とは根本的に異なるのです。

大事なもの、尊重すべきもの、私たちが美意識として必要とするものこそが皇室です。だから皇室はつねに清浄でなければならないし、週刊誌のゴシップネタになってはいけない。何もしないでいいから、「清らか」であればよいのです。余計なことはしないでほしいと国民は願っているのです。

長谷川 : 「清らか」――よい言葉が出てきましたね!(笑)まさにこの言葉こそ、いまのわれわれがもっとも必要としている言葉ですね。

(了)

お知らせ

コメント欄にも書きましたが、現在ここ西尾日録は、スパムコメントのアラシ攻撃にあっています。

現在、その攻撃に対処するために、コメントの投稿が出来ないようにしています。
しばらく、この状態が続くと予想されますので、ご容赦ください。

荻生徂徠と本居宣長(六)

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『創世記』と『古事記』の共通点
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長谷川 : また、話はちょっと先ほどの「神代」の話題に戻りますが、宣長の『古事記伝』には「さて凡そ迦徴とは」で始まる有名な「カミ」の定義がありますね。「其餘何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦徴とは云なり」と。これは世界の森羅万象をただ当たり前と考えるのでなく、日常眺めているこの世界はいかに不可思議か、という驚きをもって眺め直す精神態度といってよいでしょう。世界に存在するありとあらゆるものが、不可思議で恐れ多い何かを携えて存在しているという思想、ともいえるかもしれません。

西尾  : 宣長は、ありとあらゆる世界の現象に神話を感じています。たとえば男女が交わり合うことで子供が生まれるのも、不思議といえば不思議ではないか。そんなことは説明がつくほうがおかしいと述べる。神話はつねに「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という問いが存在することは先にも述べました。そのような根源的な問いを発しているのが、神話なのです。

長谷川 : キリスト教の世界でもアウグスティヌスなどは、世界を眺めまわすと、山や海、木などすべてのものが「私をつくったのは神です」と自分に語り掛けてくるという言い方をしています。このアウグスティヌスの見方と宣長の見方はある意味で共通していて、宣長は「可畏き物を迦徴とは云なり」といって、その一つひとつにカミの名を付け、一方アウグスティヌスは「全体をつくった誰か」を神と考えた――。その違いにすぎないともいえますね。

西尾  : その「全体をつくった誰か」を宣長はあえて「太陽」といっていますが、じつは固定して考えているのではないでしょう。人格神ではない。

長谷川 : キリスト教世界でも、汎神論と唯一絶対神という二つの考え方が、つねに相争っています。しかしわざわざ汎神論を否定しなければならなかったということは、逆に、ありのままに世界を見ると、「ここにも、あそこにも神がいる」と見えてくるのだということの証拠ともいえる。そう考えると、宣長の考えたカミの概念は、非常に普遍的なものかもしれない。唯一絶対神という概念は、普通に考えれば汎神論になるところを、かなり無理して作り上げているのだ、というべきかもしれませんね。

西尾  : 天地創造の物語もそうです。

長谷川 : じつは文献学で今日わかっているかぎりでも、『旧約聖書』の「創世記」第一章のいちばん最初に出てくる六日間の天地創造の物語は、P資料と呼ばれる、成立年代の遅いテキストに属しています。いちばん最初に出来たのは、神様が土から取った塵をこねて息を吹き込んだら、人間になったという話です。

西尾  : それは中国の盤古神話・女媧神話とも似ていますね。

長谷川 : そっくりです。世界中のありとあらゆるところに、同じような神話があります。

西尾  : 混沌から世界が生まれてくるというストーリーは『古事記』も同じです。

長谷川 : 混沌の場面は、「創世記」のいちばん古いテキスト、J資料によると、「地上にはまだ野の潅木が存在せず、野に草も生えていなかった。・・・・ただ、地下水が大地から湧き上がって地表全体を潤していた」という、ちょっと奇妙なイメージで表されています。そしてそこからいきなり人間形成の話になる。神が人をこねてつくって、猫かわいがりするという話になるのですが、それがあの有名な「エデンの園」の物語です。このあたりは『古事記』と比べても甲乙つけがたいぐらい、リアルな父と子の物語です。

西尾  : これは中国の神話でも同じです。中国の神話では、大きな大地を支えるのは巨大な亀の足を切った柱で、そこに神様が出てきて泥のなかに縄を入れて絞り、このときしたたり落ちた水滴から生まれたのが人間である。園人間は、早くできたものは出来がよく、あとからしたたったものは出来が悪いと描かれている。

長谷川 : 「創世記」J資料の場合は、「神話」というよりむしろ神(ヤハウエ)を主人公とする文学作品というべきものだ、というのが私の解釈なのですが(中公文庫『バベルの謎』参照)、いずれにしても、そうした生き生きとしたリアルなイメージに満ちた物語が、後代の編纂によって、P資料の唯一絶対的な理論のなかに埋められてしまっている。これが現在われわれの見る「創世記」のかたちだといってよいと思います。

西尾  : 中国の場合は、のちに神話部分を全部捨てて、「天」という概念だけを抽象化して仕上げたという構造です。これはキリスト教と似ているでしょう。神話の部分を捨象して、「天」の代わりに人格神が登場する。

 一方、日本の場合、西洋や中国などのような便宜的な手法はとられていない。絶対神や人格神的なものは生み出されない。

長谷川 : それは絶対神が欠けているというより、中国や西洋で行なわれた、ある種の改竄が非常に少ないということだ、ともいえるでしょう。

西尾  : 加えて、日本人は素直だったと思う。神話を「お話」としてそのまま知らしめ、伝えていく。それが摩訶不思議だからといって、あまり手直しをしたりしなかった。どちらが人間的で素朴かというと、あるがまま伝えた日本人のほうが、よほど素朴です。神話は神話として伝え、それでいいという考え方だった。

長谷川 : ユダヤ・キリスト教の場合でも、あのいちばん古いJ資料だけが残っていたとしたら、そこにはおそらく唯一絶対神への信仰ではなく、ギリシア神話や日本の神話に近い世界観が広がっていたでしょう。

つづく

荻生徂徠と本居宣長(五)

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江戸時代に起きた「言語文化ルネッサンス」
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長谷川  : 『江戸のダイナミズム』では、「国学」と「儒学」という、ある種、対照的な性格の思想を並べ置き、そこにもう一つ「仏教」という思想をもってきて、三本柱のかたちを取ろうという構想があったようですね。ただ残念ながら江戸時代には、徂徠や宣長に匹敵するような仏教家の人材がいない。ここに出てくる富永仲基では、ちょっと力不足ですよね。もし鎌倉時代まで遡ることができれば、道元がいます。少なくとも道元は、西尾さんがおっしゃる「偉大な思想家というのは実に単純なことを言っている」という条件にピタリと当てはまると思うのです。

西尾  : どんな単純なことをいっているのですか。

長谷川 : いちばん有名なのが『正法眼蔵』の第一巻「現成公按」の巻の「仏道をならふといふは、自己をならふ也」という言葉なのですが、これはどういうことなのかというと、仏道だ、仏法だと、世の人々はなにか遠い国の珍しく有り難い教えを学ぶのだという意識でいるけれども、それではダメだ、ということなのです。仏道の基本はとても単純なことなので、自己がいかにして自己でありうるか――自己の探求こそがその核心なのだ、と道元は考えます。自己ほど不思議な謎はない。お釈迦様が探求し、悟った真理も、この自己という奥深い問題以外ではない、という考えなのです。

 もちろん、ここにいう「自己」は、たんなる「自我」とか「意識主体」といったものではない。むしろ、森羅万象がそこに映し出される透明なスクリーンのようなもので、だからこそ彼はすぐに続けて「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」というのですが、いずれにしても、ここで語られている「仏道」は、哲学的探求そのものといってもよい知的な営みです。先人の言葉をただ(それこそ)「お経」のように唱えて有り難がるというのとは対極にある知的冒険なのです。

 ですから、道元の仏道にとっては、文献学などというものは、まったく枝葉のこととなります。その昔、お釈迦様が悟りを開いたという事実があり、その体験の皮肉骨髄が師から弟子へと師資相承(ししそうしょう)してゆくということが大切なので、言葉というものも、それをつかみとる手掛かりとして、初めて意味をもつものだ、という考えです。道元ほど「偉大な思想家」の名にふさわしい日本人も少ないでしょう。

西尾  : 道元の「自己」は自我でも主体でもなく、自己を抜け出た超自我のようなものでしょうか。私にはよくわかりませんが、徂徠にも宣長にも神秘主義はあります。ただ長谷川さん、『江戸のダイナミズム』が対象としたのは「学問」なのです。「歴史」の学問なのです。いきなりストレートに「宗教」ではないのです。宗教的なところにまで届いた学者たちなのです。そういう限定を踏み外さないように論述しました。

 それから言語音韻学の面で江戸の学問から橋本進吉あたりへ強いインパクトを与えているのは、むしろ空海です。ですが道元を提出された貴女のモチーフはわかりますし、大切なポイントで、私にとっては次の課題です。たとえばこの本でいえば、ゲーテを例に挙げるとわかりやすいでしょう。ゲーテはホメロスがつくり話であろうと何だろうと、ともかく真っすぐホメロスの懐に入り、そこから生命が伝わり、それがゲーテの血肉になる。それで十分であり、テキストの混乱は考える必要がないという態度でした。道元もおそらく同じ態度を示したでしょう。

 宗教家にとってもテキストの真贋などどうでもよいのです。文献学など糞食らえです。ゲーテも同じでした。しかし面白いのは、文献学を吹き飛ばしてしまうような、そのような感覚を、徂徠も宣長も抱いており、江戸時代の日本で花開いた。私はこれを「言語文化ルネッサンス」と考えます。ただの平板な学問ではなく、一種の破壊的創造です。

 すでに述べたように、17世紀にヨーロッパでも中国でも言語に対する危機感が高まり、古代の文字体験に遡ろうとする運動が起きたのですが、同じことが日本にも起こった。日本では7世紀に中国から文字が入ってきました。日本語が存在しているところへ、中国文化を学ぶために無理して中国語を学んだという原体験がある。と同時に『万葉集』の編纂が行なわれ日本語が確立しています。この「中国語から日本語へ」というのと同じドラマが「儒学から国学へ」という流れで、徂徠と宣長のあいだになされたのではないかと思っています。

 最初に話題にしたように、とにかく徂徠は7世紀の日本人が初めて中国語に出合って驚いたときの体験を回復し、初心に戻りたいという激しい情熱を抱いた。したがって弟子たちにも返り点を打って漢文を読んではならないと、白文しか読ませなかった。

 日本語としてではなく、中国語として読む。それが7世紀の日本人に戻ってみるということで、その原体験が宣長につながっていくのです。私にいわせれば、これはただの言語の学問ではなく、形而上学的表現でした。「中国語から日本語へ」は日本人の信仰の原型だったのです。

長谷川 : それがはっきりと表れているのが、『古事記』の序についての宣長の解説ですね。この序は純粋な漢文で書かれていますが、だからといって捨て置いてはいけない。ここで語られている中身は、非常に大事であるという評価を宣長はしています。

西尾  : 『古事記』の編纂者である太安万侶は練達な漢文の書ける人ですから、「全文漢文で書いたほうが早い」というぐらいの認識だったと思います。ただ日本の大和言葉の音を尊重しているので、音をそのまま再現したかった。とはいえ漢字しかありませんから、漢字で記すしかない。そのため注釈をつけるなど、さまざまな工夫をしています。こういう読み方をしろとか、ああいう読み方をしろとか。

長谷川 : 小さな字で細かく指示していますよね。

西尾  : そういう努力をしているから、いま私たちが発音している音と同じような音で読める。実際、読んでみると不思議でしようがありません。たとえば「国稚くして浮ける脂のごとくして、くらげなすただよへる時に」という部分で、「稚くして」というのは訓読みですから、これは漢文です。しかし「くらげなすただよへる」は「久羅下那州多陀用弊流」と表記し、「音で読め」と注釈をつけている。

長谷川 : このような注釈の付いた文章を読んだときの宣長は、単に古代のものを発掘しているというのではなしに、太安万侶に自分の“同僚”を見るような意識が生じていたのではないでしょうか。当時すでに、音だけが言語であった日本の古代の言語世界は崩壊の危機に瀕していました。放っておけば失われてしまうもっとも大切なものを、いま自分は救い出そうとしている――そういう切羽詰まった意識が『古事記』の表記からも、その序からもうかがわれます。そこに宣長は、ピンと相通じるものを感じたのではないか・・・・・。

西尾  : おっしゃるとおりだと思います。ある種、盟友に接するような感じがあったでしょう。

長谷川 : それに支えられながら、『古事記』を読み解いていったような気がします。

つづく

『国家と謝罪』新刊紹介(一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

今回は新刊の紹介です。新刊に対するコメントは受け付けていません。

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7月31日徳間書店より、『国家と謝罪』(¥1600)が出版されます。
実際には20日過ぎには書店に並ぶ予定。

帯の裏に目次のいくつかが掲載されていますので、ご紹介します。

@二つの世界大戦と日本の孤独
@小さな意見の違いは決定的違い
@言論人は政局評論家になるな
@安倍晋三氏よ、「小泉」にならないで欲しい
@北朝鮮の核実験に対する鈍感さ
@「保守」を勘違いしていないか
@子供の「いじめ」と国家の安全保障
@慰安婦問題謝罪はやがて国難を招く
@「教育再生会議」無用論
@保守論壇は二つに割れた

荻生徂徠と本居宣長(四)

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神話を神話として理解する
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西尾  : 宣長とは異なり、これまで多くの人々は歴史をもって神話を解釈しようとしてきました。その一つが神話の歴史反映説で、たとえば出雲の有名な神様と畿内の神様が出会って戦い出雲が屈伏した物語から、出雲族と天孫族の対立の歴史を引き出し、日本の古代史の展開をそこに重ね読みする歴史解釈などが典型的ですね。

長谷川 : 古代に女の将軍と男の将軍がいて、両軍が相戦ったのが・・・・・

西尾  : イザナギ、イザナミの話だとか(笑)。

長谷川 : その類の話が、荒唐無稽なつじつま合わせだというのは確かです。ただ神話をわれわれがどのように理解するかを考えたとき、これもけっこう難しいものがあります。たとえば、われわれは開闢の神話を読んで、無意識のうちに、それをなにか遠い昔の話のように考えてしまう。でも、それはすでに、神話と科学(たとえばビッグバンの仮説のような)とを混同しているのです。「天地初発之時」はつねにわれわれ自身の時間において繰り返される――この認識をもたなければ、「神代を以て人事を知」るんだなどといってみても意味はない。神話を神話として理解するというのは、じつは大変な精神的冒険なのです。

西尾  : 人間はどんなに科学が進んでも、自分がどこから来てどこに向かうのか全然わかりません。神話は人生のその相に触れています。私は、神話のなかにさまざまな教訓を読み込むことが正しいとは思いません。また、ユングの心理学を使って解釈するのもどうでしょう。天照大神のもとで素戔鳴尊(すさのおのみこと)がめちゃくちゃに乱暴するのをアニマ(魂)とアニムス(アニマの男性型)と解釈して、これが人間性の原型みたいなものだという。心理学者の神話解釈では、そのような類の物言いがなされます。

長谷川 : そのような解釈では、神話とそれを語る人物とのあいだに、大きな距離があるのですね。一方、宣長が「神代を以て人事を知れり」というときは、そうではない。一口にいえば、宣長は神の間近に立っているのです。

西尾  : 長谷川さん、大東亜戦争を私たちはもうよく、立派に思い出すことができません。私の父母が健気に必死に生きたあの時代が、私には「神話」の世界のように思えてなりません。

 話は変わりますが、中国においては、聖人・孔子による「神話抹殺」が儒学の基本になっています。儒学から神話は徹底的に排除されたのです。孔子も「三本足の神様」というような記述があれば、「三人の人間」と書き換えたりしました。これにより儒教何千年の歴史が、合理主義に徹したというわけです。これは日本の儒学に強力な合理主義を形成する背景にもなっていました。

 しかしながら江戸から明治あたりまでまだ儒教の影響はありましたが、その後日本では、神話を排除して合理主義を貫く儒教は、あっという間にその影響力を失ってしまいました。たとえば儒教の基本的な経典、四書五経でも、四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)はある程度読み継がれていますが、五経は今日、テキストを手に入れるのさえ困難な状況です。江戸時代から明治までかなりの影響力があったはずの文化が消えてしまった。影も形もないといってもいいくらいです。これは結局、儒教が心の奥底では日本人に受け入れられていなかったからだとしか思えません。

長谷川 : 漢詩をつくれる人も少なくなりました。

西尾  : そう考えたとき「脱儒教」となった責任は、日本文化ではなく、儒教の側にあるように思うのです。このことを徂徠は、見抜いていたのではないか。

長谷川 : 儒教というのは日本人にとって、ある種の科学的思考をするための道具だった。しかし明治に入ると、西洋から科学的な社会システムが導入され、それに完全に依拠したため、中国的な思考を必要としなくなったと考えられます。

西尾  : 表面的なテクニカルな部分だけで十分だったのです。そのことも徂徠は見抜いていた。また徂徠は政治のあり方として、「先王の道」を伝授するには、文学と学問と同時にスキンシップも大事で、そのためには狭い地域で君主が民衆と接する、封建制度のような制度でなければいけないと述べています。だから理想は周の時代で、科挙官僚制といえる郡県制度下にあった秦漢以降の在り方を否定しています。

つづく